サカガミを知る女 前編
マスターって一体何者なんだろうか。
そんな謎が膨れ上がりつつもアルスが『ミラージュ』で勤務を始めてから、早い者で三ヶ月の月日が経過していた。
とりあえずひとまずの研修期間が終わり、アルスは晴れて『ミラージュ』の正社員として働くことになった。
それに伴い賃金もアップし、今では月の俸給はなんと驚きの金貨一枚と銀貨九枚だ。
冗談で言っているとばかり思っていた金貨一枚アップがまさか本当にされるとは、アルスとしても衝撃である。
元来真面目な性格である彼女は、大したことができない自分がこれほどの給金をもらえているという事実に震えた。
そしてなんとしてでもこの待遇を維持すべく、前よりも店に精勤スル決意を固めていた。
そのため最初はただ掃除や水出しくらいしかすることがなかったアルスの業務内容は、今ではかなり広がっている。
「マスター、起きて下さい、マスター」
「ううんむにゃむにゃ……だめだ、そうじゃなくてもっとダイナミックな筆文字で……」
「一体どんな夢見てるんですか、マスター……」
『ミラージュ』の二階、バックスペースから階段を上がって入ることのできる広めな間取りの区画が、バーのマスターであるサカガミの居住スペースだった。
一人で住むにはやや広めの2LDKにはウイスキーの瓶が大量に並んでいる。
バーに並んでいるボトルは全体のごく一部であり、なんならこの私室に並んでいるウイスキーの方がよっぽど数が多いくらいだ。
これだけ大量のウイスキーを一体どこから仕入れているのか……マスターと『ミラージュ』の謎は、知れば知るほど増えるばかりであった。
「ああもう、こんなに汚して!」
アルスは大量に脱ぎ散らかされた靴下を洗濯籠に入れ、そのまま洗濯の魔道具へと放り投げる。
そして机の上に残りっぱなしになっている食べかすを綺麗にしながら、寝ぼけ眼で起き上がってくるサカガミに冷たいおしぼりを手渡した。
「うーむ……いつも済まないなアルス、開店まであとどれくらいだ?」
なんとかして起きた様子のマスターが髭を剃ってから、そのまま身だしなみのチェックを始め出す。
「時計見て下さい、あと四十五分ですよ」
もはやアルスの仕事内容には、始業一時間前から始めるマスターの出勤準備までが含まれるようになっていた。
サカガミの方もさすがに年頃の女の子を家に上げるのには抵抗があったのだが、そんなこと言ってられないですとやんわりとした拒否は迅速に却下されてしまっていた。
サカガミの生来のだらしなさはそれはひどいものであり、アルスは以前彼が二日酔いで完全に潰れていたせいで、一人で接客対応をしなければならなかったことがある。
その時に強引に家に入るようになってからは、サカガミはアルスには何も逆らうことができなくなっていた。
ただそのおかげでサカガミは以前のようなひどい深酒をすることはなくなり、店はしっかりと開店時間である午後六時には開けられるようになっている。
アルスとしてもここまで頑張れば高い給金分の働きはしているかなと自分で思えると言うこともあり、両者ウィンウィンの関係とはまさにこのことであった。
「ほらほら、さっさと準備して下さい……ってああもう、シャツにシワができてる!」
魔道具のアイロンを使って急ぎシワを直し、サカガミと一緒に店に入る。
サカガミは今日使うグラスや氷の準備を行い、アルスは店の中に落ちているゴミや埃を拭き取り店内のクリンネスに務める。
二人は息ぴったりで開店準備を終え、ふぅと一息ついてからキンキンに冷えている水を飲んだ。
「アルスもずいぶんと店に慣れてきたな」
「いえいえそんな、私なんてまだまだで……」
ウイスキーについてもある程度基礎的な知識は身についているものの、客に滔々と語れるほどに博識というわけではない。
というかそもそもウイスキー自体、勉強することが非常に難しいのだ。
働くようになって色々とお酒に関しても調べる機会が増えたのだが、やはりこのお店のウイスキーの品揃えは明らかにおかしい。
そもそも他の場所で売られているウイスキーというのは、雑味が多すぎてまともに飲めるものがほとんどない。
なのでアルスが勉強できるのは、お客さんに言われて一杯をもらう時や、閉店後に店長から勉強のためにウイスキーを飲ませてもらうときくらいなものだった。
「店長、私もっとウイスキーに詳しくなりたいんですけど、どうしたらいいでしょうか?」
「おっ、嬉しいことを言ってくれるじゃないか」
「もし秘密ならいいんですけど、もしよければこのお店がウイスキーを買ってるお店とかを教えてもらったら嬉しいんですけど……」
「うーむ、つまり俺と仕入れ先の間女になりたいということか……駄目だぞアルス、略奪愛はいつだって不幸なことにしかならないからな」
「ちゃんと私の話聞いてました!?」
基本的には優しくなんでも言うことを聞いてくれるサカガミだが、彼はこと自分の話やお店の話、そしてウイスキーの話をする時にはすぐにちゃぶ台をひっくり返して話をうやむやにする癖があった。
おそらく言えない事情があるからなのだろうが……果たしてそれを、いつか教えてもらえる日は来るのだろうか。
仲間はずれは嫌だなぁと唇を尖らせるアルスは、その日が自分が想像していたよりもずっと早く来ることを、知らなかった。
「いらっしゃ……」
カランコロンとドアベルが鳴り、一人の男性が入ってくる。
いつものように飄然とした態度で応対しようとしていたサカガミの顔が、入ってきた男を見た瞬間に能面のように変わった。
「え、嘘……トウヤ様、ですか……?」




