アルスの憂鬱 後編
「……えっ?」
さすがにそんなことを言われると思っていなかったのか、サカガミの顔が驚きに染まる。
考えてみると、我ながらナイスアイデアなように思えた。
元々お金が足りなかったら、不足分は働いて返そうかとも思っていたのだ。
であればいっそのことここで働いてしまった方が、何かと都合が良い気がする。
無論その中には、ウイスキーを飲みたいという気持ちが強く入っているのは言うまでもない。
「ふぅむ、しかし誰かを雇う、か……。正直、今まで考えたこともなかったな」
聞けばマスターはずっと一人でこの店を切り盛りしてきているらしい。
あんなへんぴなところにわかりづらい店舗を出しているのに、おそらく王都のどこと比べても比較にならないほどの品揃えを誇っているのだ。
どちらかといえば自分の趣味を突き詰めているタイプの店なのだろう。
「まかない制度とかありますでしょうか!? お酒希望です!」
「……ふっ、いいぞ。男一人のいぶし銀というのも悪くないが、ウイスキーが好きな女の子が一人居るだけでも店にぐっと華が出るだろう」
マスターは後ろに下がってから、白紙の紙を取り出しすらすらと何かを書き始める。
「それはなんですか?」
「ん? 雇用契約書だ。後で賃金の支払いなどで揉めないようにしっかりと捺印をして、俺と君が一通ずつ保管するんだよ」
以前働いたところでは、書面での契約など交わすことはなく、ただ口契約で働かせてもらうだけだった。
実際何度も賃金の不払いは起きていたし、されても泣き寝入りをするしかなかった苦い経験がある。
マスターが想像以上にきっちりしている人だとわかり、アルスの労働意欲が少し上がった。
こうしてアルスは新人店員として『ミラージュ』で働くことになったのであった。
♢♢♢
このショットバー『ミラージュ』は不思議な店だ。
働いて一ヶ月ほどが経つアルスであっても、未だわからないことの方が多い。
このお店の扉がよくわからないところに出現するのは、どこからでも繋がる鍵と同様、あのドア自体が魔道具になっているかららしい。
どういう仕組みかはわからないが、なんでも悩みを持っている客の前にだけドアが出てくるようになっているんだとか。
(まさかあの当時は、ここまでマスターが適当とは思っていなかった……)
店の営業時間が終わり、アリスは机の上を水拭きを始めることにした。
彼女の前でマスターはクロスを使い、洗ったグラスをキュッキュッと音を立てながら拭いている。
――マスターサカガミは全然、きっちりしていなかった。
あの時の自分は、無論想像もしていなかった。
彼が想像以上にどんぶり勘定で、あろうことかお酒の全ての値段を時価としてありえないような値段設定をしていることを。
彼が経営に対してまったくといっていいほどに熱意がないことを。
そしてそんな魔道具を使っているせいでこのお店にはリピーターはおらず、初見さんしか来ないということを。
個人経営の飲食店で必要なのは、何度も足繁く通ってくれるリピーターだ。
そんな一番大事な収入源を切っている時点で、マスターに店を本気でやる気があるとは思えない。
(魔道具もすごそうだし、氷をタダ同然で出すし、そのくせ品揃えだけは抜群だし……)
マスターサカガミはおそらく、まともに店をやるつもりはないのだろう。
この店は彼にとって金を稼ぐ手段というより、ある種の道楽のようなものなのだと思う。
実際に帳簿を見たわけではないが、少しいただけでもこの店の経営は間違いなく赤字だ。
あのお酒はどこかと共同で作っているという話だから、多分そっちの酒造りの方が本業で、こっちが副業なのだろう。
(じゃなくちゃあんな風に、女性にやっすい値付けをするわけがないしね!)
あのレイナというお客の会計は、どう考えても水代だけで赤が出るだろと思うような額だった。
サカガミはとにかく、女性に甘い。
というか彼は基本的に誰にでも甘いのだ。
だがそんな甘さのおかげで、自分はこうして職にありつけている。
実際給金も月に銀貨九枚ほどと、今までに働いていたどんな場所よりも好待遇で雇ってもらえている。
この店を長く続けていくためには、もう少しきちんと商売にした方がいいとは思うのだが……そのせいで自分に厳しくなっても困るので、非常に塩梅の難しい話であった。
「マスター」
「ん、どうしたアルス。そんな旦那との性生活に不満を覚えている人妻のような顔をして」
「どんな顔ですかそれ!?」
そして予想外なことがもう一つ。
マスターサカガミは見た目こそダンディーなイケオジだが、自分が思っていたよりもずっと下ネタ大好きなおじさんだった。
セクハラにならない程度に押さえてくれてはいる辺り、確信犯だと思われる。
「って、いけないいけない。そうじゃなくて、真面目な話ですよ」
「む、真面目な話か。どうした、給金ならさすがにあと金貨一枚くらいしか上げられないが……」
「えっ、金貨一枚も……ってだからそうじゃなくてぇ! マスター、私心配なんです。こんな商売のやり方で、本当にこのお店はやっていけるんですか?」
「ふむ……そういうことか」
真面目に心配をしているとわかったからだろう、サカガミはグラスを拭く手を止めると、そのままアルスの方へ視線を向ける。
彼は煙草を手に取り、魔道具で点火してからゆっくりと吹かし始めた。
その姿は妙に様になっていて、思わず見とれてしまいそうになるほどに男らしさが感じられた。
「安心しろアルス、この店が潰れることはない。そう、それこそ……俺が死ぬその時までな」
「その安心ができないから質問しているんですけど……?」
「安心できる理由、か……」
サカガミが横を向き、煙をアルスと反対方向に飛ばしてからグラスを二脚前に置く。
その中に彼女が大好きであるロイヤルを注ぎ、スッと差し出す。
煙草をくゆらせながらゆっくりとウイスキーを飲み、横から視線を流しながら告げた。
「ある程度蓄えはある。こうしてセカンドライフで、自分がやりたかったバーを経営できているくらいにはな。それに金を稼ぐ方法もあるしな」
グラスを受け取り、ゆっくりと口の中で転がしながらアルスはその美味しさに頬を緩める。
セカンドライフ、ということはつまりマスターにも最初の人生があったということだろうか。そういえば彼は無職の時期もあったと言っていた。
人にもいろいろとある。今はこんな下ネタ好きで女に甘いマスターだが、彼にも波瀾万丈の歴史があったのだろう。
時折見せる老成したような雰囲気や、どこか厭世的な態度……アルスはマスターが経てきた人生が相当に濃いものであることを、言われずとも察することができていた。
「だがこれを言われても安心はできないだろう……そうだな、それでは俺の秘密を一つだけ教えようじゃないか」
「秘密……ですか?」
「ああ、気になるだろう?」
「いえ、別に」
「そうか、そこまで気になるんなら教えてあげよう」
一体彼には自分の言葉がどう聞こえているのか、アルスは思わず突っ込みたくなったが、秘密と言われると多少気になりはするので黙って続きを待つことにした。
「実は俺はな……」
「……(ごくり)」
「かつて世界を救った英雄なんだよ。だから金には困ってないんだ」
「……はあぁ~~~(クソデカため息)」
まともに話す気はないということか、とアルスは自分の肺から全ての吸気を吐き出すほどの勢いでため息を吐いた。
こんな風に茶化されては、真面目に話を聞こうとした自分が馬鹿みたいではないか。
アルスはぐいっとロイヤルを飲み干すと、そのままボトルを手に取る。
注いでもらうのも面倒だったので、自分でグラスにちょっと多めにウイスキーを注いだ。
これはまかないなので、無論お代はなし。
こうして店を閉めてからサカガミと一緒に酒を飲むのは、アルスの今の数少ない楽しみのうちの一つだった。
給金も良いし、本来であれば何度も来ることが難しいこの店で、好きなだけ美味しいお酒を飲めるという福利厚生もある。
たしかにわからないことも多いが、それだけでも自分がここで働く価値があると、アルスはその日もしこたまお酒を飲み、家に帰るなり爆睡するのであった……。
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