アルスの憂鬱 前編
「……よしっ」
一人の女性が、銅製の姿鏡の前で、身だしなみを確認していた。
つややかな白銀の髪を揺らし、身につけるのはシャツと蝶ネクタイ。
シックな制服に身を包んでいる彼女の名はアルス。
彼女は髪の撥ねを直し微香料の香水を振ってから、ポケットの中にある鍵に触れる。
彼女が握った鍵が光り出すと、次の瞬間には光に照らされた黒い扉が現れる。
なんでも転移効果のある魔道具という話らしいが、魔道具についての造詣が深くないアルスは仕組みはわかっていないままにこれを使っている。
家から直に職場に行けるのは楽なので、アルスとしては大助かりであった。
扉を開くと、カランコロンと慣れ親しんだドアベルが鳴る。
開店準備を進めていたサカガミがこちらを振り向いて笑うので、ぺこりと礼を返した。
「こんばんは、マスター」
「おう、十五分前出勤とは精が出るな。ちなみに早く来ても給金は変わらないから、五分前とかでもいいぞ」
「性分ですから」
アルスは店に入ると、床に落ちている土や落ち葉をちりとりを使って掃除し、そのままボトルの肩の部分につき始めている埃を丁寧に拭き取っていった。
マスターサカガミは使うグラスや計量用のジガーカップなどには人一倍気をつかうくせに、こういったところがいつも適当だ。
(私が来る前は一体、どうしてたんだろう)
そんなことを思っていると、ふと昔の記憶が蘇る。
どこからともなく現れては霞のごとく消えていくショットバー『ミラージュ』。
アルスがこの店に雇われるようになったのは、完全な偶然によるものだった……。
♢♢♢
「はぁ……」
アルスは、都合十五度目になった解雇通知を受け取り、意気消沈のままとぼとぼと街を歩いていた。
彼女は働くことがあまり得意ではなかった。
より正確な言い方をすれば、職場で周囲の人間との関係を構築することが大の苦手なのだ。
アルスは良く言えば素直で、悪く言えば直截に過ぎるところがある。
彼女は思ったことはすぐに口に出すし、嫌なことは嫌とすぐに言う。
すると職場の人達はすぐにアルスのことを煙たがり、そのせいで職場全体の雰囲気が悪くなり、その元凶となるアルスがクビを切られるといういつもの流れだった。
アルスは見た目がいい。
なので面接では無双できるのだが、同じ仕事がなかなか続けられない。
見た目一点突破だけで生きていけるほど、世の中は甘いものではなかった。
「玉の輿に乗ろうかな……」
自分の見た目を最大限利用できるのは、間違いなく結婚だろう。
実際大商人や貴族家の妾にという話は何度かもらったことがあるし、その話を受ければ生涯お金に困ることはないはずだ。
だが彼女は自立心の強い女性だった。
ただ男に養われるだけの人生をよしとしない彼女は、労働何するものぞと頑張り……そして頑張る度に玉砕した。
(私、社会向いてないのかも……)
自分が社会不適合者であることを薄々感じ始めていたアルスは、絶望を抱きながら自宅への道を歩いていた。
するとそんな彼女の下に、突如として黒い扉が現れる。
「うわ何これ、キモッ」
思ったことをすぐに口に出してしまうアルスは、そのままなんとなく扉を開いた。
幸いここはバーらしい。今日くらいはやけ酒をしても許されるだろう。
そんな気持ちから店に入ると……そこには一人のダンディーなおじさんが立っていた。
「いらっしゃいませ」
「ど、どうも」
席に案内され、そのまま後ろにずらりと並べられているボトルに目をやる。
アルスはそこまで裕福な生まれではないので、これだけ大量の酒が並んでいても何が何やらというのが正直なところだった。
「『ミラージュ』でマスターをしているサカガミと申します」
「アルスです」
サカガミからこの店に関する説明を聞く。
ウイスキーというのがなんなのかはよくわからなかったが、要は度数が高いお酒だけを置いている店、ということらしい。
「あの……あんまりお酒に詳しくなくて、おすすめを選んでもらってもいいでしょうか?」
「もちろん、どういうお酒が飲みたいかを教えてくれれば」
「あんまり高くないお酒がいいです」
「……ええ、わかりました」
単価が高そうなお店でこういう注文方法をするのは気が引けたが、何せアルスは明日から無職の身。そう軽々しくお金を使うわけにも行かない。
鼻歌交じりにサカガミが出したのは、一本の酒だった。
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