プロローグ
華やかなりしゼパード王国が王都、ゼバルディア。
既に日が暮れ、夜のとばりが落ちて久しいにもかかわらず、大通りには無数の魔導灯がきらめいて眠らぬ歓楽街を照らし続けている。
「はぁ……」
そんなゼバルディアの目抜き通りを抜けた先にある細道で、一人の女性がため息をついていた。
年齢は二十代の後半ほどで、長い黒の髪を一纏めにして後ろに束ねている。
その身体は豊満で、スリットの入った服からは谷間と太ももがまぶしく光を反射させていた。
ぱっちりとした二重をした、綺麗な目鼻立ちをした女性だ。
本来であれば男達の目を引いてやまぬほどの美貌を持っているはずの彼女は、けれど現在、その魅力を大きく減じさせてしまっていた。
表情は曇り、泣きはらした目は充血し、酔いが回っているせいか頬もりんごのように赤くなっている。
それでもなお魅力的な女性である彼女……レイナは道行く男達からは声をかけられるが、その全てをいなしながら一人夜の街を歩き続ける。
「うっ……ぐすっ」
レイナは元より何か目的があるわけではない。
彼女はただあてもなく、ふらふらと歩いていた。
そうでなければ自分が、おかしくなってしまいそうだったから。
レイナがわざわざこんなに露出の高い服を着ていたのは、別に男達の獣欲をかき立てるためではない。
今日は一年に一度の、彼氏との付き合ってから三年記念日だった。
付き合ってからの時間も長くなり、そろそろプロポーズを言い渡されるかもしれない。
そんな風に浮き足立った気持ちでレストランへ向かった彼女を待っていたのは……。
「ごめん……別れて欲しい」
彼氏からの別れの言葉だった。
レイナは絶頂から不幸のどん底へと叩き落とされた。
自分の何が駄目だったのかを正直に伝えてくれることはなく、彼はただ気まずそうな顔をしてごめんと謝るだけだった。
レストランで取った食事の味は、もはや覚えていない。
そこからはもうやけ酒だ。
彼女は三軒目のはしご酒を終え、足取りをふらつかせながらも酒を冷ますためにぶらぶらと辺りを歩いていた。
今日くらいは何もかも忘れて酒に溺れなければ、頭がどうにかなってしまいそうだった。
顔の火照りを冷ますためにとりあえず歩いていた彼女は、人の居ない道を抜けて再び大通りに戻ろうと歩き出し……そこでピタリと足を止める。
「ここは……?」
先ほどまで何もなかったはずの暗闇の中に、柔らかいオレンジの光に照らされた黒い扉が現れていた。
虚空に浮かぶ扉の脇には、『ミラージュ』という文字と酒のマークの書かれた看板が立てかけられている。
(もしかして……いや、まさか)
王都にはいくつもの噂が流れているが、その一つにこんなものがある。
この世界には、悩みを抱える人間にしか見えないバーがある。
そしてそのバーでは、その人に合ったお酒が提供される。
どれだけ金を積んでも、そして何度も行きたいと願っても決して行くことのできない、そんな霞のようなバーが存在しているという……そんな荒唐無稽な噂話だ。
「……まあ、いいわ」
周囲に店も人影もないこんな場所に扉だけ浮いているのはあまりにも不自然で、そして怪しすぎる。
だが、だからなんだというのか。
既に不幸のどん底にいるレイナは、もはや完全にやけになっていた。
何が起ころうがこれ以上落ちようはないと、レイナはそのまま引き戸になっているドアを開く。
カランコロンとなる、少し低めのドアベルの音。
ドアの先に広がっていたのは――正しく異世界とでも呼ぶべき光景であった。
部屋の中に所狭しと並べられている、色とりどりのボトル。
王都の酒屋には何度も行ったことがあるレイナでも、これほどまでの品揃えのあるお店は一度もお目にかかったことがない。
しかも置かれている酒は、どれもレイナが知らぬものばかり。
達筆な文字の書かれた異国情緒を感じさせているラベルの数々は、どこかエスニックで思わず心が浮き足立ちそうになる。
「いらっしゃい、一名様?」
「は、はい!」
声をかけられて視線を戻せば、そこには一人のバーのマスターがいた。
年齢は四十前後だろうか。
黒髪黒目をしており、彼は年を重ね余裕と自信が出てくる大人の男特有の色気を纏っていた。
綺麗に整えられた髪とあごひげ、そして白のシャツに黒のベストとスラックス。
ぴっちりとしたバーテンダーのフォーマルな姿には、若い者では出せないダンディズムがあった。
「こちらのカウンターへどうぞ」
案内されたのは少し高めのスツール。
椅子越しに後ろに並べられているボトルを見ることができる。
「これは……ワインかしら?」
「いえ、うちはウイスキーの専門店です。おっと失礼致しました。私はこの店の店主をしているサカガミと申します」
「……蒸留酒のお店なのね」
レイナの声のテンションが少しだけ下がる。だがそれも無理なからぬことだった。
この世界の人間にとって、蒸留酒とはあまり良いイメージのものではない。
割りもののカクテルを作るためのベース、という程度の認識がせいぜいであった。
「一応うちはショットバー……つまりはショットでの提供しかしておりません。一度騙されたと思って飲んでみませんか?」
だがそんなレイナの態度の変化を見ても、サカガミに焦った様子はない。
「実はこれは、私の元の故郷の酒を再現したものでしてね……飲んでみればきっと、蒸留酒への認識も変わると思いますよ」
「そう……それなら一度、試してみようかしら」
元来レイナは、あまり挑戦的なことをしないタイプの女性だ。
無理はせず堅実に、そんな真面目な彼女が勇気を出して挑戦的な服を身につけた結果がこの大失恋。
どこか浮世離れしたような店の雰囲気もあり、試してもいいかという気分になっていた。
「どういうお酒が好きか、という好みはありますか?」
「基本は甘いものが好きね。シロップを入れたカクテルなんかが多いかしら」
「なるほど、甘いお酒ですね」
それだけ言うと彼はくるりと後ろへ振り返り、大量のボトルが陳列されている棚を眺め、一本のウイスキーを取り出した。
「こちらなどいかがでしょうか?」
そう言って彼が取り出したのは、茶色がかったボトルに入っているウイスキーだった。
筆か何かが書かれたらしい異国の文字で、酒の名前がデカデカと記されている。
「宮城境……ミヤギという街で作っている、甘口のウイスキーです」
「この文字が、マスターの故郷の文字なのかしら? 見たことがないけど」
「ええ、遠くに……それこそもう二度と戻れないくらい遠くにある国ですから。知らないのも無理はありません」
そう言うとサカガミはどこか遠くにある何かを見つめるような目を向けた。
人それぞれ色々な事情があるものだ。
自分も傷ついているからこそ、それ以上彼の事情を詮索する気にはなれなかった。
「だったら、そのミヤギキョーってやつをちょうだい」
「かしこまりました」
ちょうど今の自分は、甘い酒を飲みたいと思っていた。
耐えきれないくらい辛いことがあったのだ。
そんなところに辛口で更なる刺激を受けようと思うほど、自分は被虐体質ではない。
レイナは今はただ、何かに甘やかされたい気持ちで一杯だった。
サカガミが金属製のメジャー……ジガーカップにウイスキーを入れ、それをグラスへと入れる。
差し出されたグラスは見たことがない、壺のような不思議な形をしていた。
ワイングラスのように長い持ち手がなく、丸まった脚の部分を握り込むような形状になっている。
だがそれが高級品であることは一目でわかる。
先ほど飲んだ酒屋のグラスとは違いグラスの中に気泡が残っていることもなければ、その透明度も恐ろしいほどに高い。
「すごい……綺麗ね」
透き通るほどに透明なグラスの中で、琥珀色をした液体が踊っている。
それがまるで芸術品のように見えたレイナは、思わずグラスを上へ掲げて眺めてしまう。
宝飾店で売られているトパーズやクリスタルにも引けを取らないほどの美しさが、そのグラスには宿っていた。
「まずはグラスから距離を取って、軽く匂いを嗅いでみて下さい」
「そっ、そうね」
サカガミに声をかけられるまでこれが飲み物だということを完全に忘れていたレイナは、言われた通りにグラスを持ち、すんっと匂いを嗅いだ。
するとまず最初に、甘やかな香りがやってくる。
レーズンを思わせるような芳醇な香りと、その奥に感じられる黒糖のような癖のある甘み。
以前飲んだ蒸留酒はただただアルコールの苦みと刺激が強いだけだったが、これならば問題なく飲むことができそうだ。
ゆっくりとグラスを傾け、舐めるようにしてわずかに口に含む。
「これは……美味しいわね」
口の中いっぱいに広がっていく、フルーティーな味わい。
ジューシーな葡萄の果実を思わせるような甘さもあれば、リンゴを思わせるような溌剌とした甘みもある。
口の中に入れていると徐々に甘みの形が変わり、その後ろに隠れていた苦みが顔を出す。
葡萄の果実の裏に隠れていた、タンニンから来るであろう葡萄の皮の苦み。
溌剌としたリンゴの裏に隠れていた、焦がしたアップルパイを彷彿とさせる焦げ感。
「……」
歯がキシキシするような甘いお酒を想像していたので、レイナとしては少々予想外だった。
だが味わっていくと、なかなかどうしてこれが悪くない。
砂糖をたっぷり使ったお菓子などがそうであるように、ただただ甘いだけでは美味しいのは一口目だけで、二口三口と食べるうちにくどくなってきてしまう。
だがこのウイスキーは甘さの裏に苦みやコクが伴っている。
余韻もどちらかといえばビターであり、高い度数であることもあり飲んだ後の口の中がキュッと引き締められるおかげで、何度飲んでも飽きというものが来ない。
「すごい……これだけ度数が高いのに、するする飲めるのね」
レイナの中では蒸留酒とは、味ではなくただ酔うことを求めて飲む粗悪な酒という認識が強かった。
だがこの一杯を飲んだ後では、その概念そのものが変わってしまいそうだ。
「酔いすぎないように、水も沢山飲んでくださいね……アルス」
「はい」
後ろで控えていた一人の少女が顔を出す。
白銀の長い髪を後ろに流している、少々無愛想な少女だ。
「……どうぞ」
彼女は手にした水瓶を傾けてグラスへ注ぎ、すっとこちらに差し出してくる。
その手つきは少々ぎこちなく、ギリギリまで注いでいたせいで前に出すとわずかに水がこぼれてしまった。
それを見たサカガミが苦笑しながら、タオルでこぼれた水を拭き取る。
「すみませんね、うちの新人でして。至らぬところもあるかもしれませんが、多めに見てやって下さい」
「え、ええ、其れは構わないけれど……」
水の入ったグラスを前に、レイナはわずかにためらった。
出てきた水を飲んで良いものだろうか。
彼女は働いているとはいえ、そこまでお金に余裕があるわけではない。
これほどまでにしっかりとした店構えや商品だと、水といえどいくらになるかわかったものではない。
故に心苦しくはあるが……なんとこの水はサービスなのだという。
おそるおそるお酒の値段を聞くと、サカガミは笑ってはぐらかしてしまった。
お金足りるかな……とは思いつつも、レイナはこの場を楽しむことにした。
これほどまでに度数が高いお酒を飲むのはずいぶんと久しぶりということもあり、一杯目を飲みきった時には既にかなり酔いが回っていた。
お酒のおかげか、二杯目に口をつけた時には、彼女の口は当初よりずっと軽くなっていた。
「私……フラれたんです。三年付き合ってた彼氏に」
「そうですか」
「そろそろ結婚してもらえるかなって思ってて、おめかしも頑張って、普段着慣れていない露出の多い服も着て……でも、駄目でした」
「それはそれは……もったいないですね」
「もったいない……ですか?」
レイナが空にした水を注ぎながら、サカガミが笑う。
口にした水はとても冷たく、レイナの体中の火照りを冷ましてくれた。
「ええ、あなたのような素敵な女性を振る相手の目が腐っていたんでしょう。そんな相手と結婚せずに済んだことを、喜ぶべきでしょう」
「そっか……そうですよね」
フラれた瞬間はこの世の終わりだと思っていたが、よくよく考えてみればこの世界にいる男性が彼一人というわけではない。
誰とも付き合っていない今はもう、この世界の半分が自分の恋愛対象なのだ。
「元彼はすぐに不機嫌になるし、店員への態度は横柄だし、それにケチだし……」
思い出すと、愚痴はするするとよどみなく出てくる。
冷静に思い返してみれば、彼は男性として最高というわけではなかった。
長年連れ添うことで、情が湧いていたのかもしれない。
そのまま愚痴を言い続けていると、サカガミはうんうんと頷き、時に質問を投げかけながら黙ってレイナの話を聞いてくれた。
凝り固まっていた彼女の心を、甘いウイスキーがとこの空間が溶かしてくれる。
ただ甘いだけではなく苦みも伴うウイスキーは、今のレイナの境遇には良く合っていた。
人生いいこともあるし、苦いこともある。
彼女にはウイスキーが、まるで人生の縮図のように見えた。
二杯目のウイスキーを飲み下した彼女は、まるで人が変わったように笑っていた。
「決めた、私明日から婚活頑張ります」
「その意気です。大丈夫ですきっと全部上手くいきますよ」
マスターサカガミはそう言って笑う。
彼の笑顔を見てわずかに頬を赤らめたレイナは、そのままチェイサーである水をぐいっと飲み干した。
職場の男性の中にも、自分にアプローチをかけてくれる人はいた。
きっと出会いはそこら中に転がっている。
一度の失恋が何するものぞ。
再び立ち上がったレイナは、前よりずっと力強くなっていた。
「マスター、お会計お願いします」
「はい、それでは……」
さらさらと伝票に書き付けた代金を見ると、値段は銀貨二枚だった。
がぶ飲みしたとはいえ、二件目にいった安居酒屋よりも安い値段だ。
こんな値段で飲んでしまっていいものなのだろうか……となんだか少し悪い気分になってくる。
お会計をアルスと呼ばれていた新人の女の子に渡すと、彼女はわずかに眉間にシワを寄せてからその代金を受け取った。
「ありがとうございました」
「ありがとうございました」
二人に頭を下げられながら店を出ると、変わらず真っ暗な王都の街がそこにある。
この店の場所を覚えておこう……そう思いゆっくりと振り返ったレイナは驚愕する。
そこには先ほど出てきたはずの扉が、なくなっていたのだ。
思わず戻って手を伸ばすが……手は虚空を掴むだけで、あのドアが二度と現れることはなかった。
この世界には、悩みを抱える人間にしか見えないバーがある。
そしてそのバーでは、その人に合ったお酒が提供される。
どれだけ金を積んでも、そして何度も行きたいと願っても決して行くことのできない、そんな霞のようなバー……。
「まるで本当に霞みたいね」
レイナは笑いながら前を向く。
彼女は心地よい酔いに身を任せながら、そのまま床に就くことにした。
不思議なことに涙は出なかった。
失恋が終わり、次の恋へと意識が向かっているのかもしれない。
その後レイナは、彼氏として選ぶ男のタイプを、思い切って変えることにした。
彼女は今まで、大きな夢を語るロマンチストな人とばかり付き合ってきた。
だが彼女は次の相手に、普通の人を選ぶようにした。
職場の仕事ができる、面白みはないけれど一緒にいると安心できる先輩……彼と無事結ばれたエレナの下に、ある日来客があった。
「俺、気付いたんだ……エレナ、やっぱりお前じゃなきゃ駄目なんだって!」
以前と比べると明らかにやつれた様子の元彼を一瞥してから、エレナはそのまま直角に頭を下げる。
「私にはもう大切な人がいますから。今更言われても、もう遅いですよ」
彼女はきっぱりと言い切ると、そのまま歩き出した。
顔を上げたレイナが見上げる太陽は、いつにも増して輝いて見えていた――。
【しんこからのお願い】
この小説を読んで
「面白い!」
「続きが気になる!」
「新連載頑張って!」
と少しでも思ったら、↓の★★★★★とブックマークで応援してくれると嬉しいです!
あなたの応援が、作者の更新の原動力になります!
よろしくお願いします!




