焦燥
(結婚、されていたんだ。じゃあ、奥さまは…?)
脳裏を駆け巡る無数の疑問と、胸の奥をチクリと刺すような、名前のつけられない微かな痛みが美里を襲う。しかし、美里が言葉を失っている間にも、恵介の焦燥は限界に達しているようだった。恵介は自分の頭を片手で手荒に抱え込むようにして、路地の冷たい雨空を見上げた。
「いま、自分しか見れる人がいないので…。とにかく、今すぐ迎えに行ってやらないと…。まだ二歳なんです。心細い思いをさせていると思うと、一刻も早く行かないといけなくて」
「自分しか見れる人がいない」
その言葉を聞いた瞬間、美里の心の中にあった個人的な動揺は、すっと別の方向へと形を変えた。
(奥さまは、きっとバリバリ働かれている方なんだろう。どうしても今すぐには職場を抜けられないような、責任のあるお仕事をされているのかもしれない。だから、ここで一人で店をやっている大将さんが行くしかないんだ…)
美里は咄嗟にそう解釈し、納得した。
それと同時に、日頃から保育現場で嫌というほど目にしてきた、急な発熱によるお迎えの電話という、親たちにとっての最大の試練が、いま目の前の父親に降りかかっているのだという現実をはっきりと理解した。
美里自身、園児が発熱した際には、保護者へ一刻も早いお迎えを要請する側の人間だ。その時の親たちの、仕事への申し訳なさと、我が子を心配する狂おしいほどの焦りは、誰よりもよく知っていた。
「…本当に、申し訳ありません。よりによって、金曜日のお昼時に…せっかく楽しみに来てくださったのに、こんなふうに追い返すような真似をして。でも、とにかく、早く行ってやらないと…」
恵介は小さく震える手でマウンテンパーカーのポケットから店の鍵を取り出すと、ガラス戸の錠前に手をかけた。我が子の元へ一刻も早く駆けつけたいという父親としての切実な想いと、お昼時にお客さんを断って店を閉めなければならないという料理人としての申し訳なさ。その二つの間で完全に心の余裕を失い、ボロボロになっていた。
「…愚痴を言っている場合じゃないですね。翔太が待っていますから。本当にすみません。また、来週、お待ちしていますから…今日は、どうか、他を当たってください」
恵介は施錠を終えると、力なく、けれど確かな足取りで駅の方へと走り出そうとした。冷たい秋の雨が、恵介の肩を容赦なく濡らしていく。
その背中を見つめた瞬間、美里の胸の奥で、何かがパチリと音を立てて切り替わった。
さっきまでの、ランチを逃した絶望や、恵介に子どもがいたという動揺は、すべて雨の彼方へと押し流されていた。
今、彼女の目の前で泣きそうな顔をして走り出そうとしているのは、大切な拠り所である店の主であり、必死に我が子を守ろうとしている一人の不器用な父親だった。そして何より、自分には、恵介を助けるための知恵があるはずだった。
出過ぎた真似かもしれない。客の分際で、プライベートに踏み込むべきではないのかもしれない。
それでも、恵介のあの、優しくて丁寧な場所を、こんなふうに壊れかけているあたたかさを、そのままにしておきたくはなかった。
「大将さん、待ってください!」
美里の声が、しっとりとした雨の路地に、驚くほど力強く響き渡った。
駅へと向かって数歩走り出していたマウンテンパーカーの背中が、びくりと跳ねたように動きを止める。ゆっくりと振り返った恵介の顔には、我が子の急な発熱という不測の事態に対する焦りと、呼び止められたことへの戸惑いが、ありありと浮かんでいた。
美里は、自分の胸がこれまでにないほど激しく脈打っているのを感じていた。傘を持つ指先が、緊張でわずかに震える。
(何をやっているんだろう、私は…)
激しい自己嫌悪に似た躊躇いが、脳内を駆け巡っていた。
出過ぎた真似だ。一介の客に過ぎない自分が、この店主のプライベートや、お店の経営方針に口を挟む権利なんてどこにもない。ただ暖簾をくぐって、出された美味しい料理を食べて、お金を払って帰るだけの関係。それが心地よかったはずだし、踏み込んではいけない境界線のはずだった。突然こんな風に呼び止めて、不審がられたり、おせっかいだと嫌悪されたりしたらどうするつもりなのか。
けれど、トレンチコートのポケットの中で、美里のもう片方の手はぎゅっと握りしめられていた。
趣味である自炊が、日々の忙しさのせいで少しずつ雑になっていく自分に落ち込んでいたここ数日。そのたびに彼女の心を繋ぎ止めていたのは、この住宅街の片隅にある小さな店で、大将が施してくれる、一切の手抜きがない、丁寧なプロの仕事だった。
あの美しい料理たち、そして彼が守り続けているこの穏やかな空間が、急なトラブルでボロボロになっていくのを、どうしても黙って見ていることができなかった。
「…あの、おこがましいのは百も承知で、大将さんを困らせてしまうかもしれないのですが」
美里は、自分の傘を少し引いて、恵介の視線から逃げないようにまっすぐに見つめた。声をできるだけ落ち着かせ、押し付けがましくならないよう、静かに言葉を紡ぐ。
「私、小泉美里と申します。…名乗るのも遅くなってしまって、本当にすみません。実は、ひだまり保育園という場所で、保育士をしています」
「え…保育士、さん…?」
思いもよらない美里の自己紹介に、恵介の動きが完全に止まった。雨の中、マウンテンパーカーのフードの奥にある瞳が、驚きに丸くなっている。
「はい。それで…大将さん。今日はお店、本当に閉めてしまうのですか?」
美里は一歩だけ歩み寄り、諭すように、けれど遠慮がちに問いかけた。
「今日は金曜日です。大将さんのみかんは平日のランチタイムしか営業されていませんから、今日を逃すと、次に暖簾を掲げるのは三日も先の月曜日になってしまいますよね。…私、趣味で少しだけ自炊をするので、本当に浅はかな想像になってしまうのですが、今日のために仕込まれた瑞々しい秋の食材や、今朝一番で引かれたお出汁が、そのまま週末をまたぐことになったら…鮮度的に、ものすごく大変なことになってしまいませんか?」
恵介は息を呑んだ。料理人としての核心を、静かに突かれたような表情だった。美里はさらに言葉を重ねる。
「冷凍して使い回すような真似を、大将さんが絶対にしないことも、ファンだから分かります。でも、すべて廃棄することになったら、お店にとっても食材にとっても、あまりにも悲しいです。だから…もし、本当に私のようなただのお客がこんなことを言うのがご迷惑でなければ、なのですが。お店を閉めずにお迎えに行って、翔太くんをここに連れて帰ってきてはいただけないでしょうか」
「…小泉、さん」
恵介は初めて美里の名前を、どこか掠れた声で呼んだ。その瞳には、状況を呑み込めない困惑と、それ以上の強い恐縮が浮かんでいた。
「お気持ちは、本当に、涙が出るほど有り難いです。でも、そんな…お名前を今知ったばかりのお客様に、うちの留守番を頼むなんて、そんな都合のいいことできるわけがないです。それに、翔太はまだ二歳なんです。熱を出して、きっと泣いている。僕がここに連れて帰ってきたとしても、あの子を一人で上の部屋に寝かせて、自分は一階の厨房で調理と接客をこなすなんて…。そんなの、あの子に寂しい思いをさせるだけだ。やっぱり、今日はお店を諦めるしか…」
不器用で、どこまでも実直な人だった。
客を頼る不義理を嫌い、同時に我が子への愛情との間で、静かに、けれど致命的に追い詰められている。
美里は、恵介が今日を諦めると言ったときの、胸が締め付けられるような切ない表情を見て、自分の躊躇いを完全に振り切った。ここからは、ただのファンではなく、プロの保育士としての言葉が必要だった。
「大将さん、おっしゃる通りです。二歳のお子さんが高熱を出している時、仕込みや営業をしながら同時並行で看病をするのは、物理的に絶対に不可能です。それは親御さんの愛情の有無ではなく、安全面から見ても、プロの目から見ても、絶対にやってはいけません」
美里の声から、先ほどまでの震えが消え、保育現場で数々の修羅場を乗り越えてきた頼もしさが宿った。
「だから、役割を分担しませんか。大将さんが翔太くんをここへ連れて帰ってきたら、空いてる場所で、私が翔太くんの看病をさせてください。水分補給のタイミングも、熱の経過の看方も、私は毎日仕事でやっています。大将さんより、ほんの少しだけ上手くやれる自信があります。…私が翔太くんをしっかり見ていますから、大将さんはいつも通りにお店を開いてください」
「そんな、そんなこと…!」
恵介は激しく首を振った。その顔は、申し訳なさで今にも泣き出しそうだった。
「いくら保育士さんだからって、小泉さんは今日、貴重なお休みで、うちにご飯を食べにきてくださっただけなのに。そんな個人の家庭の事情に巻き込んで、看病まで押し付けるなんて、俺には到底…」
「押し付けられているわけじゃありません。私が勝手にお願いしているんです」
美里は一歩引き、いつもの穏やかな常連客の微笑みに戻った。お互いに遠慮し合う空気の中で、一番の落とし所へ着地させるために、言葉を優しく整える。
「大将さん、私、本当にみかんのご飯が大好きなんです。今日、お店が閉まってしまうことの方が、私にとってはよっぽど重大な死活問題なんです。大将さんが今日、食材を無駄にして悲しい顔をするのも見たくありません。…それに、二歳のお子さんを一人で抱えてお迎えに行って、看病しながらどうしようかと思い詰めるほど、大将さんもパニックになっています。お互いに遠慮している時間は、もうないと思うんです。翔太くんが、保育園で待っていますから」
カチカチと、マウンテンパーカーの金具が風に揺れる音がした。
恵介は強く唇を噛み締め、美里の真っ直ぐな眼差しを受け止めていた。
美里の言うことは、あまりにも真っ当だった。自分のプライドや遠慮を優先して店を閉めれば、食材はすべて無駄になり、経営に大きな打撃が出る。かといって、一人で看病と営業を両立させようとすれば、翔太に危険が及ぶかもしれない。
見ず知らずだったはずの常連の女性が、いま、自分と息子のために、最も合理的で、最も温かい救いの手を差し伸べてくれている。
冷たい雨の中、恵介はゆっくりと、けれど深く、深々と頭を下げた。
「…情けないですが、本当にお言葉に甘えさせてください。小泉さん、よろしくお願いします」
その一礼には、これまでのどんな客に対するものよりも、深い敬意と感謝が込められているのが分かった。
「はい、任せてください。…それなら、大将さんが保育園へ行っている間に、私、ドラッグストアで必要なものだけでも買ってきますね。スポーツドリンクや、子供用の冷却シート、ゼリー飲料とか。急な発熱の時は、備えがいくらあっても足りませんから。お店の鍵だけ、お預かりしてもいいですか?」
「あ、はい…これです。お金は、後で必ず精算させてください」
恵介はポケットから重みのある鍵を取り出し、美里の手にそっと渡した。指先が一瞬だけ触れ合い、お互いに小さく肩をすくめる。
「分かりました。後でまとめて。…さあ、大将さん、急いでください!」
「ありがとうございます。…行ってきます!」
恵介はマウンテンパーカーのフードを深く被り、冷たい雨の中を、駅の方向へと全力で走り出していった。その背中には、さっきまでの絶望的な焦燥ではなく、前を向いた力強さが戻っていた。
美里は手の中にある鍵をトレンチコートのポケットにしまい、自分の傘をしっかりと握り直した。
「よし。それじゃあ、私も私の仕事を始めなきゃ」
しとしとと降る秋の雨の中、美里は商店街の入り口にあるドラッグストアを目指して、静かに歩き始めた。お互いに遠慮し、恐縮し合いながらも、確かな信頼の糸が一本、雨の路地で結ばれたような気がして、美里の胸の奥は不思議なほど温かさに満たされていた。
たどり着いたドラッグストアは、雨の金曜日ということもあってひどく混雑していた。
美里は手際よくカゴを回し、子供用の冷却シート、水分補給のためのスポーツドリンク、二歳児でも口にしやすいゼリー飲料、そして熱を測るための体温計などを手早く揃えた。レジの列に並びながら、トレンチコートのポケットの中にある、ずっしりとした金属の鍵に触れる。
(本当に、大変なことになっちゃったな…)
自分で提案しておきながら、今さらながら事の大きさに鼓動が速くなるのを感じていた。
恵介が向かった保育園は、おそらく駅前のどこかだろう。一介の常連客に過ぎない自分が、お店の鍵を預かり、店主の子供の看病をする。客としての境界線を踏み越えてしまったことへの微かな恐れはあったが、それ以上に、あの実直な大将が我が子のトラブルを前にして見せた、張り裂けそうなほどの焦燥の表情が、美里の背中を強く押していた。




