写真
買い物を終え、小雨の降る路地を足早に戻る。
みかんの前に辿り着き、傘をすぼめて軒下に入った。預かった鍵を鍵穴に差し込み、慎重に回す。カチャリ、と硬質な音がして、引き戸が静かに横に滑った。
「失礼します…」
誰もいない店内に、美里の声が小さく吸い込まれていった。
営業前のみかんに足を踏み入れるのは、当然ながらこれが初めてだった。薄暗い店内には、いつも客席から眺めているのとは少し違う、静謐な空気が満ちている。けれど、厨房の奥からは、今朝一番で引かれたであろう、あの優しく芳醇な昆布と鰹節の出汁の香りが、かすかな残熱とともに漂ってきた。
美里はドラッグストアの袋をカウンターに置き、二人の帰りを静かに待った。どこで待っていればいいのか、お店のどこでお子さんを休ませるのかも分からないまま、ただ主を待つ空間の静けさに耳を澄ませていた。
それから十分ほど経った頃、外から激しい足音が近づき、引き戸が勢いよく開いた。
「ハァ、ハァ…っ、小泉さん…!」
恵介が戻ってきた。冷たい秋の雨の中を走ってきたのだろう、マウンテンパーカーの肩はぐっしょりと濡れ、息は完全に上がっている。
そしてその腕の中には、恵介の首にがっしりと細い腕を絡ませ、苦しそうにむずかっている小さな男の子が抱えられていた。熱のせいで果実のように頬を真っ赤に染め、小さな身体をごくわずかに震わせながら、父親の胸に顔を埋めてぐずぐずと泣いている。
「大将さん、おかえりなさい。大変でしたね」
美里は努めて穏やかな、いつも園で子供たちに向けるのと同じトーンの声で語りかけた。
「すみません、本当に…。あ、あの、実はこの建物の二階が、自宅になっていまして。上の部屋に寝かせてもいいでしょうか。小泉さんも、上がっていただいて…」
「分かりました。案内してください」
美里はドラッグストアの袋を急いで手に取った。
恵介は翔太をしっかりと抱き直すと、カウンターの脇を抜け、厨房のさらに奥へと美里を導いた。
普段は絶対に見ることのできない、調理師免許や営業許可証が掲げられた厨房の裏側。その細い通路の突き当たりに、ひっそりと上へと続く木製の階段があった。長年踏み締められて角が丸くなった階段には、ほんのりと一階の美味しいお出汁の香りが染み付いている。
ギィ、ギィ、と古い木が軋む音を立てながら階段を上ると、そこには一階の店舗のコンパクトさからは想像できないほど、すっきりと片付いた二階の居住スペースが広がっていた。
「ここへ…。翔太、ほら、大丈夫だからな…」
恵介は奥の和室へと入り、敷かれていた布団の上に翔太をそっと寝かせた。父親の手が離れそうになると、翔太は寂しがって「いやぁ、とと、いやぁ…」と弱々しく泣き声を上げ、作務衣の裾をぎゅっと握りしめる。
「困ったな…離れてくれない。これじゃあ、下へ降りられなくて…」
恵介が途方に暮れたように顔を歪めた。お昼の開店時間はとうに過ぎている。美里はそっと枕元に膝をつき、恵介の手を優しく引き離すようにして、自分の温かい手を翔太の小さな胸元に置いた。
「翔太くん、はじめまして。苦しいね、お熱、お外の雨さんが冷たくしてくれるからね」
美里は冷却シートを素早くおでこに貼り、冷たいスポーツドリンクをスプーンですくってゆっくりと口に含ませていく。幾度となく子供たちの発熱に対応してきた美里の手つきには一切の迷いがなく、その落ち着いた空気感が伝わったのか、翔太は次第に泣き声を収め、大人しく水分を補給し始めた。
「…すごいな。本当に、ありがとうございます」
恵介の口から、心底救われたような溜息が漏れた。
「任せてください」
美里は翔太の衣服のボタンを少し緩めながら、恵介を見上げて微笑んだ。
「さあ、大将さん。もうお昼時です。下で待っているお客さんのために、厨房に入ってください。ここは私がちゃんと見ていますから」
「…分かりました。小泉さん、息子を、よろしくお願いします」
恵介はもう一度深々と頭を下げると、階段を駆け下りていった。
静まり返った寝室で、美里は翔太の呼吸を確かめながら、トレンチコートを脱いで傍らに置いた。翔太はすやすやと寝息を立て始め、ようやく美里も一息ついて、ふと部屋の中を見回した。
その時だった。美里の視線が、和室の片隅、いちばん陽当たりの良さそうな場所に設えられた小さな空間でピタリと止まった。
そこにあったのは、驚くほど小さな、けれど現代的な、白い木製のお仏壇だった。
お線香の香りはなく、代わりにみずみずしい、小さなみかんが丸ごと一つ、可愛らしい小皿にお供えされている。
そして、その中央に飾られていたのは、一枚の写真だった。
まだ二十代半ばほどに見える、お団子ヘアがよく似合う、ひまわりのような笑顔を浮かべた若い女性。その優しい目元を見た瞬間、美里の胸がドクン、と大きく跳ね上がった。
(え…?)
息が詰まるような沈黙の中、美里はその写真を見つめ続けた。
恵介に子どもがいたこと。結婚していたこと。それだけでも十分な驚きだったのに、その奥さんは、もうこの世界にはいないのだ。こんなに小さな、まだ「とと」としか呼べない二歳の子を残して、あの大将を一人残して、逝ってしまったのだ。
そのとき、床を通じて、一階からガラガラと引き戸が開く微かな音が響いてきた。
臨時休業の紙を見て、困ったように商店街の軒下で雨宿りをしていた常連客たちが、オレンジ色の暖簾が上がるのを見て、待ってましたと言わんばかりに、店内に入ってくる気配が伝わってくる。
やがて、トントン、トントンと、規則正しく包丁がまな板を叩く音が、床下から響き始めた。続いて、じゅわあぁ、と食材が躍る音、食器が触れ合う澄んだ音。少しずつ、一階の活気と賑わいが、心地よい振動となって美里の足元へ届く。
美里は、自分の手がかすかに震えていることに気がついた。
いつも一階のカウンター席で、完璧に美しく、一切の手抜きがない定食を黙々と作り続けていたあの若き店主。彼が一人で背負っているものの重さと、その裏側にあるあまりにも切ない喪失の傷跡。
ただの常連客、ただのご飯が好きなファンでしかなかったはずの自分が、おせっかいの延長で、この実直な料理人のプライベートのいちばん深く、いちばん触れてはいけない核心の場所に、いま足を踏み入れてしまっている。
(私…とんでもないことを、知ってしまったんだ…)
一階から聞こえてくる、いつも通りのお客たちの楽しげな笑い声と、大将が命を削るようにして響かせる調理の音。
その賑わいを聞けば聞くほど、この二階の静寂と、小さな仏壇から向けられる女性の笑顔が、美里の胸に強く、ずっしりと迫ってきた。美里は翔太の小さな、少し汗ばんできた手をそっと握り直し、壁の向こうの仏壇に向かって、心の中で静かに、深く頭を下げた。
押し寄せる戸惑いと圧倒されるような衝撃を抱えながらも、いま自分にできる唯一のプロの仕事を全うしようと、美里はただ静かに、二歳の子の寝顔を見守り続けるのだった。
床下から響いていた、じゅわあという油の爆ぜる音や食器が触れ合う賑やかな音が、午後三時を回る頃にはすっかり途絶えていた。
一階の引き戸が閉まる微かな音が聞こえ、表のオレンジ色の暖簾が下ろされた気配が二階まで伝わってくる。しめやかな秋の雨の音だけが、再び和室を包み込み始めていた。
翔太の熱は、美里が貼った冷却シートや、スプーンで少しずつ口に含ませたスポーツドリンクのおかげか、ようやく落ち着きを見せていた。果実のように赤かった頬の火照りは少しだけ引き、今は小さな胸を規則正しく上下させて、穏やかな寝息を立てている。
美里は翔太の枕元に座り、小さな手をそっと布団の中に戻してやると、小さく息を吐いた。
そして、吸い寄せられるように、再び部屋の片隅にある白い仏壇へと視線を向けた。ひまわりのような笑顔を浮かべた、お団子ヘアの若い女性の写真。
(こんなに小さなお子さんを遺して逝くなんて、どんなに心残りだっただろう…)
ギィ…、と古い木階段が軋む音がして、美里はハッと我に返った。
足音はゆっくりと近付き、和室の襖が静かに引かれる。
「小泉さん…」
入ってきた恵介は、作務衣の襟元を少し緩め、息を小さく弾ませていた。ランチ営業の激務を一人でこなした直後だというのに、その顔には疲労よりも、まず息子への強い案じが滲み出ている。恵介はそのまま吸い込まれるように翔太の傍らへと歩み寄り、膝をついた。
「翔太、どうですか…?」
「大丈夫そうですよ」
美里は恵介の焦燥を和らげるように、小声で、努めて穏やかに微笑んだ。
「お家にあったお薬を飲んで水分もしっかり摂れたので、さっきようやく熱が下がり始めました。今はぐっすり眠っています。お医者さんに診てもらったほうが良いと思いますが、まずは安心してくださいね」
「…そうですか。よかった…」
恵介は張り詰めていた糸が切れたように、大きく肩を落とした。翔太の小さなおでこに自身の大きな掌をそっと当て、その体温を確かめるように何度も確かめている。
恵介は布団から手を離すと、美里に向き直り、床に両手をついて深々と頭を下げた。
「本当に、何とお礼を言っていいか分かりません。小泉さんがいてくれなかったら、僕は今日、店を開けることも、翔太を十分に看病することも出来なかった。…あ、あの、小泉さん」
恵介は少し決まり悪そうに頭を掻きながら、声を一段と低くした。
「翔太がようやく深く眠れたところですし、ここで話し声を立てて起こしてしまっては可哀想ですから…一階に移動しませんか。遅くなってしまいましたが、お礼に何か作らせてください。お腹、空いていますよね」
「あ…はい。ありがとうございます」
美里は頷き、脱いでおいたトレンチコートを腕に抱えて、恵介の後に続いて静かに階段を下りていった。
一階の店舗には、お昼の営業が終わったばかりの、微かな熱気と芳醇な出汁の香りがまだ残っていた。客席の椅子は綺麗に整えられ、しとしとと降る雨の光が、薄暗い店内に静かな情緒を与えている。
「カウンターへどうぞ。今日のために仕入れていた、一番良い食材を使いますから。少しだけ待っていてくださいね」
恵介はそう言うと、手を入念に洗い、すぐに厨房へと入った。
美里はいつものカウンター席の端に腰を下ろし、恵介の調理を眺めた。厨房に立った彼の動きには、二階で見せた父親の狼狽は微塵もなく、無駄のない流麗な所作が戻っていた。




