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食事処みかん  作者: 蜜柑次郎
さつまいもコロッケ

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11/46

長話

 トントン、トントン、と、小気味よい包丁の音が店内に優しく響き渡る。


 恵介がまず手にしたのは、丸々と太った見事な秋のサンマだった。鮮やかな手つきで三枚におろし、皮を剥ぎ、トントンとリズミカルに身を叩いていく。細かく刻んだ生の生姜とネギ、ほんの少しの味噌を加え、あっという間に綺麗なつみれ肉へと仕立て上げていく。


 それを、火にかけた小鍋のすっきりとした昆布出汁の中へ、スプーンで丸く落とし込んでいった。ふわりと、焼き魚とはまた違う、力強い青魚の香りが立ち上る。


 続いて恵介は、湯気を立てて蒸し上がったばかりのさつまいもをボウルに移し、木べらで丁寧に潰し始めた。中にはあらかじめ炒めておいた挽き肉と玉ねぎが合わせられる。丸く成形されたタネに、小麦粉、卵、そしてきめの細かいパン粉を流れるように纏わせると、パチパチと音を立てる高温の揚げ油の中へ静かに滑り込ませた。


 じゅわああぁ、と、店内に心地よい音が響き渡る。きつね色に色づいていくコロッケの香ばしさと、さつまいも特有のどこか懐かしい甘い香りが、出汁の匂いと混ざり合って美里の鼻腔をくすぐった。


 最後に恵介が土鍋の蓋を開けると、それまで店内に漂っていたすべての香りを支配するかのように、圧倒的な秋の薫香が広がった。ふっくらと炊き上がったご飯の上には数種類のきのこが敷き詰められている。醤油と酒、そして出汁を吸って茶色く色づいたお米の粒が艶やかに輝いていた。


「お待たせしました。本日の、特別な定食です」


 恵介がカウンター越しに差し出したお盆の上には、美しく調和した秋の饗宴が並んでいた。


 三種のきのこが贅沢に炊き込まれた、香り高いきのこの炊き込みご飯。


 衣が黄金色に立ち、箸を入れるのが惜しいほどのさつまいもコロッケ。


 そして、透き通ったお出汁の中に、ふっくらとしたつみれとささがきゴボウが泳ぐさんまつみれ汁。


 小鉢には、色鮮やかなみかんのキャロットラペも添えられている。


「…すごいです、大将さん。お礼だなんて、私の方がこんなに贅沢なものをいただいてしまって良いんでしょうか」


 美里は目の前の美しすぎる料理に、目を輝かせた。自炊を趣味とするからこそ、この一汁二菜にどれほどの手間と、確かなプロの技法が込められているかが痛いほどに分かった。


「今日一番の鮮度の食材です。小泉さんが店を守ってくれたから、無駄にせず、最高の状態で料理にすることができました。さあ、温かいうちにどうぞ」


「いただきます」


 美里は箸を取り、まずはさんまつみれ汁のお出汁を一口、蓮華ですくって口に含んだ。


「…っ」


 思わず、言葉を失った。すっきりとした昆布の旨味の奥から、さんまのつみれから溢れ出た濃厚なコクが広がる。生姜の爽やかな風味が青魚のクセを完璧に消し去っており、冷えた身体の芯に、じんわりと温かさが染み渡っていく。つみれに箸を入れると、驚くほどふんわりと柔らかく、噛むたびに秋の豊潤な旨味が弾けた。


 続いて、さつまいもコロッケに箸を入れる。サクッ、と、これ以上ないほどに心地よい、完璧な咀嚼音が店内に響いた。口に運べば、さつまいもの自然で濃厚な甘みと、ジューシーな挽き肉の塩気が絶妙なコントラストを描き、ソースなど必要ないほどの完成度だった。


 そして、きのこの炊き込みご飯。お米の一粒一粒にきのこの旨味がこれでもかと凝縮されており、噛み締めるたびに、豊かな香りが鼻から抜けていく。


「美味しいです…本当に、美味しい。大将さんのお料理は、いつも私の心を満たしてくれます」


 美里は溢れそうになる感動を噛み締めながら、夢中で箸を動かした。趣味の自炊で行き詰まり、雑になっていく自分の食生活に落胆していた美里の心を、その完璧な食事は温かく救い上げてくれた。


 恵介は厨房の縁に手を置き、美里が美味しそうに食べる姿を、本当に嬉しそうに、どこかホッとしたような眼差しで見つめていた。美里がひと通り箸を進め、ふう、と満足の溜息を漏らした頃、恵介は静かに口を開いた。


「…二階の和室の仏壇、気づかれていましたよね」


 美里はハッとして手を止めた。やはり、気づかれていたのだ。客としての境界線を越えてしまった申し訳なさが、再び胸を突く。


「勝手にお部屋を不躾に見回してしまって、本当にごめんなさい」


「いいえ、謝らないでください。隠すようなことでもありませんから」


 恵介は優しく首を振ると、カウンターの向こうで、ぽつりと寂しげに笑った。


「妻の、すみれと言います。…実は、昨年末に亡くなったんです。二人で、この店を持つという夢の、本当に、目前でした」


 美里は息を呑んだ。胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるように痛む。


「みかんという店の名前は、すみれと俺の、共通の大好物だったから付けたんです。特別なものじゃないけれど、誰かと分け合って食べると、それだけで温かくなれる。そんな店にしようねって、二人でずっと話していました」


 恵介はそこで一度言葉を区切り、窓の外へと視線を向けた。雨はいつしか小降りになり、店の窓の外からは、雲の隙間から柔らかな午後の光が静かに差し込み始めていた。


 恵介は美里のためだけに腕をふるってくれた。そこには、言葉だけでは伝えきれないほどの料理人としてのプライドと、彼女への深い感謝が込められていることを、美里は料理の味を通じて確かに受け止めていた。


(早川恵介という人の、いちばん深くて、いちばん大切な場所に、私は今、触れているんだ…)


 圧倒的な食事の温もりと、ほんの少しだけ明かされた過去の切なさ。その二つの余韻に包まれながら、美里は静かに恵介の横顔を見つめていた。


 お盆の上の器がすべて空になったのを見届けると、恵介は「お粗末様でした」と静かに微笑み、手際よくそれらを下げていった。


 厨房の奥でパチパチと小さな音を立ててガスコンロに火がつけられ、しばらくすると、香ばしいほうじ茶の香りが店内に満ちていく。カウンター越しに新しく差し出された湯呑みからは、白く柔らかな湯気がゆらゆらと立ち上っていた。


「少し、長話をしてもいいでしょうか」


 恵介はエプロンの紐を軽く結び直し、美里の斜め向かいのカウンターに腰を下ろした。一階の店舗を包む小雨の光はさらに穏やかになり、静まり返った空間の中で、二人の距離はいつもよりずっと近く感じられた。


「はい。大将さんのお話、聞かせてほしいです」


 美里は温かい湯呑みを両手で包み込み、まっすぐに恵介を見つめた。


 恵介は、自分の手を見つめながら、ぽつり、ぽつりと、心の奥底にある記憶の箱を開けるように語り始めた。


「妻のすみれとは、高校の同級生だったんです。当時から僕は不器用で、料理のことしか頭にないようなやつで…。クラスでも浮いていた僕に、すみれだけはいつも『恵介くんのご飯は世界一美味しいよ』って、笑いかけてくれた。僕が料亭に入って、朝から深夜まで身を粉にして修行していた過酷な時期も、彼女だけは変わらずに隣にいてくれたんです」


 恵介の目元が、懐かしむように緩む。


「僕たちの夢でした。いつか、格式高い日本橋の料亭じゃなくて、誰もが仕事帰りにふらっと立ち寄れて、毎日でも食べたくなるような、温かい定食屋を二人で開こうねって。翔太が生まれて、いよいよその夢を形にしようと、この物件を見つけて契約したのが、ちょうど一年前の秋でした」


 そこまで言って、恵介は短く息を吸い込んだ。湯呑みから立ち上る湯気が、彼の端正な横顔をわずかに不鮮明にする。


「さあ、これから内装を決めて、二人で暖簾を掲げようという、本当にその一歩手前でした。進行性の癌が見つかったんです。見つかったときには、もう、全身に転移していて…手の施しようがありませんでした。闘病なんて言える時間もほとんどないまま、昨年末に、彼女は逝ってしまいました。信じられないくらい、あっという間に」


 美里は胸が締め付けられるような痛みを覚え、言葉を失った。


 昨年末。ほんの一年前のことだ。美里が春の終わりにこのみかんを初めて訪れたとき、恵介はそんな壮絶な別れから、まだ数ヶ月しか経っていない状態だったのだ。あのオフィス街や住宅街の片隅で凛と佇む彼の裏側で、どれほどの絶望の中にいたのかを思い、美里の目頭が熱くなる。


「妻が亡くなったとき、僕は包丁を握る意味を見失いました。あいつのいない店なんて、何のために開くんだって。でも…遺された翔太の小さな手を見たとき、彼女の声が聞こえた気がしたんです。僕たちの夢を、翔太にちゃんと見せてあげてって。彼女と約束したこの店を、僕の手で完成させなきゃいけない。それだけが、僕を動かす唯一の光でした」


 恵介は顔を上げ、店内のオレンジ色の照明を見上げた。


「料亭の仕事を続けていたら、夜遅くまで帰れません。そんな働き方では、翔太を一人で育てるシングルファザーとしての生活は到底成り立たない。だから僕は、師匠や周囲の大反対を押し切って、料亭のキャリアをすべて捨てました。大好きな料理を続けながら翔太を保育園に送り迎えできる、平日のランチタイムのみという、今の営業スタイルでこの店を開くことを決めたんです」


 美里は、膝の上でトレンチコートの布地をぎゅっと握りしめていた。


 店名であるみかんの由来。それは、特別な高級品ではないけれど、こたつの中で誰かと分け合って食べると、それだけで誰もがホッとする、そんな温かい場所にしたいという、二人で語り合った素朴な理想そのものだった。


 美里がこの店で救われてきた、あの圧倒的な料理の優しさ。それは、亡き妻すみれへの切ないほどの誓いと、遺された翔太への無償の愛が、あの一皿一皿に命を削るようにして込められていたからだったのだ。


「…小泉さん」


 恵介は美里の方を向き、少し照れくさそうに微笑んだ。


「お名前も今まで知らなかった常連のお客様に、こんな重たい過去を話してしまってすみません。でも、今日、小泉さんがプロの保育士として、そして一人のファンとして僕を呼び止めてくれなかったら…僕は大切な仕込みをすべて台無しにして、店を傷つけてしまうところでした。本当に、ありがとうございました」


 恵介がカウンター越しに、深く、深々と頭を下げる。


「大将さん、頭を上げてください」


 美里は溢れそうになる涙を必死に堪え、声を震わせながら微笑んだ。


「私の方こそ、ありがとうございます。大将さんのお料理がどうしてあんなに温かいのか、今日、すべて分かった気がします。すみれさんの想いも、大将さんの覚悟も、あのきのこのご飯にも、つみれ汁にも、全部、ちゃんと生きています。私は、そんなみかんに出会えて、本当に幸せです」


 二人の間に、静かで、けれどこれまでにないほど温かい絆の空気が流れた。


 そのときだった。


 厨房の奥、二階へと続く木製階段の方から、パタパタと小さな足音が聞こえてきた。


「…とと?」


 寝ぼけ眼をこすりながら、階段の陰から小さな影が姿を現した。


 翔太だった。おでこには美里の貼った冷却シートが少し傾いたまま張り付いている。けれど、さっきまでの苦しそうな表情はどこへやら、すっかり熱が引いたようで、丸い瞳をくりくりと輝かせていた。


「翔太!起きちゃったのか。お熱、大丈夫か?」


 恵介が慌てて厨房を飛び出し、翔太を愛おしそうに抱き上げる。翔太は父親の首にぎゅっと抱きついた後、カウンターに座る美里の姿を見つけると、少しだけはにかみながら、恵介の耳元でささやいた。


「とと、あのね、おねえちゃんが、お水ぽんぽんしてくれたの。冷たいの、ペタしてくれた」


「あはは、そうだよ。このお姉ちゃんが、翔太を助けてくれたんだよ。ちゃんとお礼言えるかな?」


 恵介に促され、翔太は美里の方を向くと、小さな頭をごく短く下げてみせた。


「おねえちゃん、ありがと」


 そのあまりの愛らしさに、美里の胸は一瞬でとろけるように満たされた。保育士の優しい笑顔で翔太の目線に合わせる。


「翔太くん。お熱、下がってよかったね。偉かったね」


 美里が優しく声をかけると、翔太は人見知りすることもなく、美里の手に向かって小さな小さな手を伸ばし、その指先をぎゅっと握りしめてきた。子供の純粋な温もりが、美里の手を通じて心にじんわりと伝わってくる。


「…本当に、不思議な人ですね、小泉さんは」


 翔太を片腕で抱き抱えたまま、恵介は心からの、少年のような眩しい笑顔を美里に向けた。


「僕も、翔太も、今日一日で、すっかり小泉さんに救われてしまいました」


「そんな、私はただ、美味しい定食が食べたくておせっかいを焼いただけですから」


 美里が赤くなって俯くと、恵介はさらに言葉を重ねた。


「小泉さん。…これからも、この店に来てください。僕の、みかんの料理を、ずっと食べにきてほしいんです。次は、ちゃんとお客様として、最高の定食を用意して待っていますから」


「…はい!もちろん、お休みになったら、すぐにまた暖簾をくぐっちゃいます」


 美里は顔を上げ、満面の笑みで応えた。


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