戦友
十二月の風は、容赦なく体温を奪っていく。
駅の改札を出た瞬間、ビル風が容赦なく吹き抜けて、峰松大吾はコートの襟をこれでもかと立てた。口から吐き出した息はまたたく間に真っ白な塊となり、冬の冷たい空気に溶けて消えていく。横に並んで歩く桜谷衛もまた、身を縮こまらせるようにして、重い営業バッグを提げた手を交互にポケットへ突っ込んでいた。
「マジで寒いっすね、大吾さん。耳がちぎれそうだ」
「全くだ。午前中の回りはどこも冷え込んでんのばかりで、身体の芯まで凍っちまったよ」
「こんな日は、営業回りなんてサボって、ずっとうちの蔵の熱燗の番でもしていたいですよ」
そう言って、桜谷衛はいつものように人懐っこい笑みを浮かべた。
彼とこうして、午前中の営業から電車に乗って帰ってくるのも、今日が最後になる。
衛は今年で三十六歳。大吾より二つ年下の、気心の知れた同僚だ。大吾たちが働く酒蔵は、ここから少し離れた山沿いに大きな醸造工場を構えているのだが、この商店街の一角に、直営の小さな販売店兼事務所を持っていた。営業と呼べる人間は、大吾と衛の二人しかいない。
厳しい日本酒市場の中で、泥臭く何軒もの飲食店に飛び込み、時には門前払いを食らい、時には夜遅くまで店主と酌み交わして信頼を勝ち取る。そんな戦場のような日々を共に生き抜いてきた、文字通りの戦友だった。
だが、その衛が、今日を最後にこの街を去る。
宮城にいる彼の実家の父親が体調を崩し、長男である衛が家族を連れて地元へ戻ることになったのだ。事情が事情だけに、引き止めるわけにはいかなかった。寂しくないと言えば嘘になる。
いや、嘘どころか、大吾の胸の奥にはぽっかりと大きな穴が空いたような、どこか学生時代の青春が強制的に終わらされるときのような、言葉にできない切なさがずっしりと居座っていた。
一度、商店街の中ほどにある直営の店に戻り、午前中の受注書類を木製の古いデスクに整理し、留守番の事務員に簡単な引き継ぎを済ませる。それが終わると、本当にあとは衛を送り出すだけだった。
店の引き戸を閉め、再び冬の寒さの中へと足を踏み出す。
「…で、衛。最後の昼飯、どこにする?今日くらいは、お前が行きたい場所、どこでも奢ってやるよ」
大吾が少しわざとらしいくらい明るい声で尋ねると、衛は立ち止まり、待ってましたと言わんばかりにニカッと笑った。
「そんなの、決まってるじゃないですか。あそこしかないですよ」
「あそこって…」
「食事処みかん。あそこじゃなきゃ、俺、宮城に帰れませんよ」
衛の言葉に、大吾は思わず苦笑してしまった。やっぱりか、と妙に納得している自分がいた。
「お前も隅に置けないな。最後の最後の昼飯に、あの味を記憶に叩き込もうってわけか」
「当然です。さ、急ぎましょう。モタモタしてたら満席になっちゃいますからね」
二人の歩調が、自然と速くなる。
目指すみかんは、この賑やかな商店街のエリアから少し外れた、住宅街の入り口手前にある。
そこへ向かう道すがら、プロの営業マンとしての目が、通り過ぎる商店街の景色を無意識に捉えていく。
最近はどこの駅前も、古い個人店が店を畳み、代わりにどこにでもあるファストフード店や居酒屋チェーンばかりが並ぶ、コンクリートの塊のような街が増えてしまった。
味気ないメニューと、マニュアル通りの接客。そんな効率ばかりを追い求める時代にあって、この商店街は、不思議なほど昔ながらの情緒を保っていた。
見上げれば、年季の入った看板を掲げた八百屋が、寒さに負けず「安いよ、美味いよ!」と威勢のいい声を上げている。肉屋からは、揚げたてのコロッケの香ばしい匂いが漂い、買い物カゴを下げた近所の主婦たちが嬉しそうに店主と言葉を交わしていた。
決して洗練されているわけじゃない。けれど、この街の人々は、自分たちの生活の手触りや、人と人との温もりを簡単に手放そうとはしなかった。他の街のように、新しさや便利さに流されず、なんとか街全体がコンクリートに染まりきらない方向へと、みんなで足を踏ん張っている。そんな愛おしい泥臭さが、この商店街には満ちているのだ。
だからこそ、そんな街の片隅に生まれた食事処の存在は、大吾たちにとって奇跡のようであり、同時にこの街だからこそ受け入れられた必然のようにも思えた。
あの店は、今の効率社会に完全に逆行している。
メニューはすべて店主の手作りなのだが、そのシステムが実にユニークで、贅沢だった。
なんと毎日、和、洋、中という三種類の定食が、すべて用意されているのだ。客はその日の気分や体調に合わせて、三つの異なるジャンルから好きなものを席で選ぶことができる。しかも、その三種類のラインナップが、それぞれ毎日日替わりで変わっていくのだ。
個人店であれば、仕込みの手間を考えてメニューを一種類に絞るのが普通だ。それを毎日、三つのジャンルの主菜をすべてイチから手作業で仕込むなんて、プロの酒販営業マンである大吾の目から見たら、狂気の沙汰としか思えないほどの労力がかかっているはずだった。
毎日、市場や信頼できるルートからその日一番の旬の食材を仕入れ、丁寧に、それこそ昆布と鰹節からじっくりと時間をかけて出汁を引く。冷凍食品や化学調味料、業務用の出来合いのタレには一切頼らない料理は、和洋中どのジャンルを選んでも、一口食べた瞬間に身体の細胞が喜ぶのがわかるほど優しい。
野菜の切り方一つ、火の通し方一つとっても、尋常じゃない仕事の丁寧さだった。寒さで体調を崩しやすい冬の時期にも嬉しいほど、栄養バランスが徹底的に考え抜かれていた。
「いつ来ても、三つの選択肢から選ぶ新鮮な楽しさがある。しかも、どれを食っても美味くて身体に良い」
そんな贅沢な場所、一度知ってしまったら、もう他の店には戻れなくなるのは当然だった。
最初は、住宅街の入り口でひっそりと始まった店だった。大吾自身、見つけた当初は「こんな場所で平日の昼だけなんて、すぐに潰れるだろう」と高を括っていた。だが、本物の味と誠実さは、どれほど不便な場所にあっても、この街の人々を惹きつけるものらしい。
気がつけば、近所の主婦たちの間で噂が走り、周辺のオフィスからわざわざ足を延ばすサラリーマンたちで、ランチタイムは毎日のように満席になるほどの盛況ぶりを見せるようになっていた。
いまやみかんは、この商店街の住人たちが心と身体を癒やしにやってくる、なくてはならないオアシスとして完全に根づいていた。
「あ、見えてきましたよ」
衛が前方を指差した。
視線の先、冬のどんよりとした曇り空の下で、そこだけがぽつんと温かい光を放っている場所があった。軒先に揺れる、鮮やかなオレンジ色の暖簾。
店の前には、すでに数人の客が並んでいた。寒さに身を震わせながらも、誰もがその暖簾の向こうから漂ってくるであろう温もりを、辛抱強く待っている。
「うわ、やっぱり並んでるな。さすがだ」
「でも、回転は早いですから。大人しく並びましょう。…あ、大吾さん、今日の看板、何になってます?」
衛が鼻をくんくんと鳴らしながら、店頭に置かれた小さな黒板を指差した。そこにはチョークの文字で、今日の三種類の定食メニューが几帳面な字で並んでいる。
「ええっと、和食が焼き魚、洋食がロールキャベツ、中華が…ピリ辛麻婆豆腐定食、か」
「うわ、迷うな。どれも美味そうだけど…大吾さん、何にします?」
「俺は…よし、今日は中華にするか。この寒さだ、ガツンと辛いので温まりたい」
「最高ですね。この寒さで食う熱々の麻婆豆腐なんて、身体が温まらないわけがない。俺もそれにします!」
衛の目が、子供のように輝く。大吾もその隣に並び、列が進むのを待ちながら、ガラス窓越しに店内の様子をそっと窺った。
こぢんまりとした店内は、客たちの熱気と、料理から立ち上る湯気で白く曇っている。カウンター席では、常連とおぼしき年配の男性が嬉しそうに箸を動かしており、その奥には、たまに見かける、お気に入りの綺麗な女性の姿があった。名前も知らないが、いつも品良く、本当に美味しそうにここの料理を食べる常連さんだ。今日もどこかホッとしたような穏やかな表情で、運ばれてきた料理を眺めている。
厨房の奥では、店主の恵介が、相変わらず無駄のない洗練された動きで動き回っていた。時折、客に声をかけられたときに見せる、あの柔らかくも芯のある微笑み。その姿を見るだけで、この店がどれほど丁寧に、そしてどれほど誠実に作られているかが伝わってくる。
「…本当に、いい店だよな」
ぽつりと呟いた大吾の言葉に、衛は深く何度も頷いた。
「ええ。大吾さんに初めてここに連れてきてもらったとき、俺、マジで感動したんすよ。世の中に、こんなに真っ当なご飯を食べさせてくれる店があるんだって。大吾さんが最初にお酒を断られた理由も、今ならよく分かります」
「おいおい、昔の傷口に塩を塗るなよ」
大吾は苦笑しながら、肩をすくめた。
そう、この店との出会いは、営業マンとしての彼の完全な敗北から始まったのだ。
暖簾の隙間から漏れ出てくる、えも言われぬ芳醇な香りに誘われながら、大吾は心の中で思った。
衛と二人でこの街の店を巡り、美味いものを食って、バカみたいに夢を語り合った日々。そのすべての思い出が、いま、この冬の澄んだ空気の中で、鮮明に愛おしく蘇ってくる。
年の近い、気心の知れた友のような同僚。彼がいなくなる寂しさは、この冬の寒さよりも深く、大吾の胸に染み込んでいた。だけど、だからこそ、最高の飯で送り出してやりたい。
「よし、中に入れるぞ」
前の客が店内に吸い込まれ、二人の番が回ってきた。
オレンジ色の暖簾をくぐり、引き戸を開けると、一瞬にして冷え切った身体が温かい湯気と、ピリッとした山椒と出汁の香りに包み込まれた。
店内に一歩足を踏み入れた瞬間、ガラス戸の向こうの世界とは完全に切り離された。
外の狂おしいほどの寒さが嘘のように、そこは温かな湯気と、鼻腔を心地よくくすぐる香気で満ちていた。平日の昼時とあって、こぢんまりとした十数席ほどの店内は文字通りの満員御礼だった。大吾と衛は、入り口のすぐ脇にある、二人ほどが辛うじて待てるスペースに身を寄せ合いながら、席が空くのを待つことにした。
厨房の熱気が、冷え切った二人の頬をじんわりと緩めていく。カウンターの向こう側からは、小気味よい包丁の音や、中華鍋が火と擦れ合う激しい金属音が響いていた。
「相変わらずすごい活気ですね。これだけ忙しいのに、恵介さん、全然バタバタして見えないのがまた憎いな」
衛が感心したように声を潜めて言った。
その視線の先では、店主の恵介が流れるような動きで白い大皿に麻婆豆腐を盛り付けているところだった。無駄のない所作、研ぎ澄まされた集中力。大吾はその背中を見つめながら、厨房の奥から漂ってくる独特の香りに目を細めた。
ただの中華の匂いではない。辣油や山椒の刺激的な香りの奥に、どっしりとした、けれど決して主張しすぎない和の出汁の深みが確かに存在している。その香りを胸いっぱいに吸い込んだ瞬間、大吾の記憶は、数ヶ月前の抜けるような青空が広がっていた秋の日へと、一気に引き戻されていった。




