真っ直ぐな光
それは、大吾にとって営業マンとしてのプライドを綺麗にへし折られた、忘れられない敗北の日だった。
当時、住宅街の入り口に、食事処みかんという妙な店がオープンしたという噂を、大吾は近所の馴染みの居酒屋の店主から耳にしていた。平日の昼間しか開いていない店。お酒のメニューは一切置いていない店。酒販営業マンとして、その情報は大吾の嗅覚を大いに刺激した。
「ランチだけだとしても、これだけ評判になり始めているなら、いつか必ず夜営業を始めるはずだ。その前に、うちの蔵の酒をねじ込んでおくべきだ」
そんな、いかにもサラリーマンらしい打算が、大吾の足をあのオレンジ色の暖簾へと向かわせたのだった。
営業バッグに、蔵元自慢の純米吟醸や、食中酒として最適な本醸造のパンフレットを詰め込み、大吾はランチ営業が始まる一時間前の、仕込みの時間帯を狙って店の戸を叩いた。
「ごめんください。宮城野酒造の峰松と申します」
営業用の完璧な笑みを貼り付け、声をかけると、厨房の奥から怪訝そうな、けれど穏やかな目をした若い男が現れた。それが恵介だった。
大吾はすかさず名刺を差し出し、流暢な口上でアプローチを開始した。うちの酒がどれほど料理を引き立てるか、地元の飲食店にいかに愛されているか、熱を込めて語った。いつか夜の営業を始める予定があるなら、ぜひ今からでも付き合いを始めさせてほしいと。
恵介は大吾の言葉を遮ることなく、じっと真摯に耳を傾けてくれた。その誠実な態度に、いけるかもしれないと内心で手応えを感じていた。
しかし、大吾が話し終えると、恵介は深く頭を下げ、申し訳なさそうに、けれど微塵の揺らぎもない口調できっぱりと言い放ったのだ。
「大変ありがたいお話ですが、うちは平日ランチ専門ですから、当面、お酒を出す予定は無いんです。せっかく足を運んでいただいたのに、本当にすみません」
その言葉には、営業マンの小手先のテクニックや押しを一切寄せ付けない、強固な壁のようなものがあった。理由を尋ねようにも、恵介の佇まいがあまりにもブレないため、これ以上食い下がるのはただの迷惑にしかならないと、プロとして察せざるを得なかった。
「そうですか…。いや、こちらこそ仕込みの邪魔をしてしまい、申し訳ありませんでした」
大吾はすごすごと引き下がるしかなかった。打算は見事に打ち砕かれ、心がチクリと痛んだ。
だが、大吾の足を店の外へ向かわせるのを引き止めたのは、他でもない、その時に厨房から立ち上ってきた香りだった。
恵介が振り返ってコンロの火を調節した瞬間、大きな鍋から溢れ出た湯気が、大吾の鼻腔を直撃した。
それは、言葉を失うほど見事な出汁の香りだった。鰹節の華やかな香りと、昆布の重厚な旨味が、完璧な比率で調和している。酒のプロとして、毎日のように様々な飲食店の味を利いている大吾だからこそ、その匂いが持つ、異常なまでの真っ当さが瞬時に理解できてしまった。
業務用の濃縮液体出汁や、化学調味料の混ざった安易な香りが蔓延する今の時代に、これほど丁寧に、時間をかけて引かれた出汁が、個人の小さなランチ専門の店で存在しているということ。
雷に打たれたような衝撃だった。営業マンとしての悔しさなど一瞬で吹き飛び、代わりに一人の、食を愛する人間としての本能が、激しく警報を鳴らしていた。
この男の作る料理を、今すぐ食わなければ一生後悔する。
大吾は気づけば、まだバッグに仕舞いきれていなかった資料を慌てて押し込み、腕時計を確認していた。開店まであと十五分。
「あの、店長さん」
「はい?」
「…あと十五分で店、開きますよね。一人の客として並ばせてもらっていいですか」
恵介は一瞬だけ驚いたように目を見開いたが、すぐにふっと、いたずらが成功した子供のような柔らかい微笑みを浮かべた。
「ええ、もちろんです。少々お待ちください」
あの日のランチは、忘れもしない和食の定食だった。メインは鯖の味噌煮。
席について運ばれてきた料理を一口食べた瞬間、大吾は完全に白旗を揚げた。
鯖の身のふっくらとした火入れ、生臭さを一切感じさせない丁寧な下処理、そして何より、あの香りの通り、五臓六腑に染み渡るような味噌汁の出汁の美味さ。副菜の小さなお浸し一つをとっても、ただ醤油をかけただけのものではない、出汁の旨味がしっかりと含まれた上品な味がした。
「これは、毎日でも通わなきゃ損だ」
打算で飛び込んだはずの店に、大吾自身が完全に一本取られたのだった。
事務所に戻るやいなや、大吾はデスクに座っていた衛の肩を激しく揺さぶった。
「おい衛、とんでもない店を見つけたぞ。明日の昼、絶対に時間を空けておけ」
「大吾さん、なんですか急に。営業先で頭でも打ったんですか?」
最初は怪訝な顔をしていた衛だったが、翌日、半ば強引にみかんへ連れてこられ、洋食の煮込みハンバーグを口にした瞬間、大吾と全く同じ顔をして固まったのだった。
「…なんですかこれ。デミグラスソースなのに、信じられないくらい後味が軽くて、旨味が深い。これ、ベースに和の出汁を使ってません?」
「だよな?ここの店主、ただ者じゃないんだよ」
衛もまた、お酒と料理の相性を極めようとするプロだ。その日を境に、二人はみかんの熱狂的な信者となった。
「お待たせいたしました。カウンター、真ん中二席どうぞ」
不意に、恵介の穏やかな声が響き、大吾はハッと我に返った。
いつの間にかカウンターの客が立ち上がり、衣服を整えて店を出ていくところだった。白く曇った店内の空気が動き、大吾の鼻を、先ほどよりもさらに濃厚な、麻婆豆腐のピリッとした刺激的な香りがかすめた。
「あ、はい。ありがとうございます」
大吾は衛と顔を見合わせ、小さく頷いた。
数ヶ月前、打算と敗北から始まったこの店との関係。それが今では、自分たちの仕事の疲れを癒やし、明日への活力をくれる、人生に欠かせない場所になっている。そして今日、その大切な場所で、衛との最後の時間を過ごすのだ。
重い営業バッグを足元に置き、二人は並んで木製の椅子に腰を下ろした。
木製のカウンター席に腰を下ろすと、ほんの少しだけ厨房との距離が縮まった気がした。
恵介が「お待たせしました」と、氷の浮かんだお冷のグラスを二人の前に置く。その手際はどこまでも滑らかで、無駄がない。大吾と衛は顔を見合わせ、店頭の黒板で決めていた通りに注文を告げた。
「中華の麻婆豆腐を二つ、お願いします」
「はい、麻婆豆腐定食二つですね。少々お待ちください」
恵介は短く微笑むと、すぐに背を向けて大きな中華鍋を火にかけた。ごうごうと音を立てる青い炎が、鍋の底を舐めるように包み込んでいく。
料理を待つ間、大吾は手持ち無沙汰にグラスの表面に浮いた水滴を指先でなぞった。店内には相変わらず、食事を楽しむ客たちの和やかな話し声と、小気味よい調理の音が満ちている。
外の寒さが嘘のように居心地が良くて、だからこそ、ここに衛と並んで座っている時間のタイムリミットが近づいているという事実が、大吾の胸をかすかに締め付けた。
「それにしても」
衛がカウンターの下に営業バッグを収めながら、少し照れくさそうに頭を掻いた。
「最後の昼飯がみかんの中華定食なんて、なんか俺たちらしいっていうか、最高のご褒美ですよ」
「違いないな。お前と初めてここに来た時も、確か煮込みハンバーグを食いながら、営業の愚痴を散々言い合ってたっけ」
「そうそう。あの時、大吾さんが『この店はお酒を置いてくれないけど、悔しいくらいに米が美味い』って、涙目になりながらご飯をおかわりしてたんですよね」
「バカ言え、涙目になんてなってない。あれは熱々の味噌汁の湯気が目に染みただけだ」
大吾が気恥ずかしさを隠すように言い返すと、衛は声を殺して楽しそうに笑った。そんな何気ないやり取りの一つひとつが、明日からはもう無いのだと思うと、大吾の口の中にはどこか酸っぱい寂しさが広がっていくようだった。
「お待たせいたしました。麻婆豆腐定食です」
タイミングを見計らったかのように、恵介の声とともに、お盆に載せられた熱々の料理が二人の前に並べられた。
その瞬間、カウンターの上に一気に華やかな湯気が立ち上り、食欲をそそる香りが二人の鼻腔をジャックした。
「うわあ…」
衛が思わず、感嘆の息を漏らす。
メインの麻婆豆腐は、深さのある白い器の中で、赤黒い辣油の海がかすかにぐつぐつと泡立っていた。たっぷり入った豆腐の白と、細かく刻まれたネギの緑、そして挽肉の深い茶色が絶妙なコントラストを描いている。その表面には、仕上げに振られたのであろう花椒の粉がうっすらと浮いており、鼻を近づけるだけでツンとした心地よい刺激が脳を揺さぶった。
そして脇を固めるのは、透き通ったスープの中に繊細なフカヒレの繊維と、くたくたに煮込まれた白菜が浮かぶフカヒレスープ。さらに、箸休めとして添えられた瑞々しい大根の副菜と、胡麻の香りが香ばしいナムル。
どれ一つとっても、色合い、盛り付け、そして漂う香りに隙がない。
「よし、冷めないうちにいただこう」
「いただきます!」
大吾と衛は同時に頭を下げ、レンゲを手にした。
まずは主役の麻婆豆腐をすくい、口へと運ぶ。熱々の豆腐と餡が舌の上に載った瞬間、まず押し寄せてきたのは、豆板醤や甜麺醤の奥深いコクと、ひき肉から溢れ出る濃厚な旨味だった。そして一呼吸遅れて、唐辛子のピリッとした辛みと、花椒の痺れるような爽快感が駆け抜けていく。
「…美味い」
大吾は思わず、声を漏らした。ただ辛いだけの中華料理とは明らかに一線を画している。ベースに使われている、あの丁寧に引かれた和の出汁が、強烈なスパイスの尖った部分を丸く包み込み、信じられないほど深いコクを生み出しているのだ。
隣を見ると、衛もまた、麻婆豆腐を口いっぱいに頬張り、ハフハフと息を吐き出しながら目を丸くしていた。
「最高です、大吾さん…。この麻婆豆腐、辛いのに優しくて、いくらでもご飯が進んじゃいますよ」
衛はすかさず、お椀に盛られた真っ白なご飯をかき込んだ。みかんのご飯はいつも完璧な炊き加減で、お米の一粒ひとつぶが立っている。その甘みのある米が、麻婆豆腐のピリ辛さと混ざり合うことで、完璧なマリアージュを完成させていた。
大吾は続いて、白菜フカヒレスープに手を伸ばした。とろみのついた熱々のスープを口に含むと、今度は白菜の優しい甘みが口いっぱいに広がった。フカヒレのプチプチとした繊細な食感が贅沢なアクセントになっており、麻婆豆腐で火照った口内を心地よく癒やしてくれる。
「スープも絶品だな。白菜の旨味がこれでもかってくらい溶け込んでる」
「本当ですね。あ、この大根の副菜とナムルも凄いです。シャキシャキしてて、口の中がさっぱりします」
衛が交互に箸を動かしながら、嬉しそうに呟く。大根の副菜は、冬の大根特有のみずみずしさと甘みが活かされており、ナムルは程よい塩気とごま油の風味が食欲をさらに加速させる。中華定食のラインナップにおいて、これ以上の組み合わせは無いと思えるほど、栄養的にも味のバランス的にも計算され尽くしていた。
熱々の料理を交互に口に運び、汗をかきながら、二人はしばらく無言で食事に没頭した。美味しいものを食べている時、人間は自然と笑顔になる。別れの寂しさに沈んでいたはずの二人の空気が、恵介の料理によって、いつもの温かな温度へと引き戻されていくようだった。
お椀の半分ほどのご飯を平らげたところで、衛がふぅ、と小さく息を吐き、レンゲを置いた。その視線は、まだ湯気を立てている麻婆豆腐の器に向けられている。
「…大吾さん」
「ん?」
「俺、実は宮城に帰るって決めるまで、めちゃくちゃ悩んだんすよ」
衛のトーンが、少しだけ低くなった。おちゃらけた日常の会話から、一歩踏み込んだ本音の響きが大吾の耳に届く。大吾は麻婆豆腐を口に運ぶ手を止め、静かに衛の言葉を待った。
「親父の体調が悪いって聞いた時、最初は仕送りを増やして、地元にいる妹に任せればいいかって、逃げるようなことを考えてました。こっちの仕事は面白いし、大吾さんっていう最高の先輩がいて、街の飲食店の人たちともやっと信頼関係ができてきたところだったから…。今ここを離れたら、全部リセットになっちゃうのが怖かったんです」
衛はグラスのお冷を一口飲み、喉を鳴らした。
「嫁さんにも苦労をかけるなと思って、切り出すのも勇気がいりました。でも、嫁さんが『あなたの実家のことなんだから、みんなで行こうよ』って言ってくれて。それで、腹が決まったんです。長男として、いつまでも親から逃げてちゃ駄目だなって。宮城に戻って、親父の面倒を見ながら、地元の飲食業界でまた一から這い上がってやろうって、そう思えるようになりました」
湯気の向こうにある衛の目は、どこか吹っ切れたような、強くて真っ直ぐな光を宿していた。




