余熱
大吾は胸の奥が熱くなるのを感じた。年の近い、ただの気心の知れた同僚だと思っていた。一緒にバカな話をして、営業バッグを担いで街を駆け回っていた日々は、大吾にとって心地よい青春の延長戦のようだった。その時間が終わることへの寂しさばかりを先立たせていた自分が、少しだけ恥ずかしくなった。
衛は、ちゃんと前を向いて、自分の足で新しい人生のステージへ進もうとしているのだ。三十六歳。男としても、人間としても、大きな決断を下して旅立つ彼を、寂しさという言葉だけで縛っていいはずがなかった。
「そうか」
大吾は深く頷き、精一杯の優しい笑みを浮かべた。
「お前の奥さん、男前だな。感謝しなきゃな」
「本当にそうっすね。頭が上がらないです」
「宮城に戻っても、お前なら絶対に大丈夫だよ。うちの営業で散々鍛え上げたんだ、どんな頑固な店主だって、その人懐っこい笑顔でイチコロにできるさ」
「あはは、大吾さんのしごきに比べたら、どこの店主も優しく見えそうですよ」
「おい、人聞きが悪いな。俺はいつだって優しく指導していただろ」
二人は顔を見合わせ、またいつものように笑い合った。けれど、その笑い声の後に続いた沈黙は、さっきまでの切ないものではなく、どこか清々しい温もりを帯びていた。
大吾は再び箸を持ち、大根の副菜を口に運んだ。シャキッとした歯ごたえの奥から、丁寧な仕事の味が広がる。
恵介の作る料理は、いつだって実直で、誠実だ。奇をてらった派手さはないけれど、素材の良さを最大限に引き出し、食べる人の身体を一番に考えて作られている。一品一品に手を抜かないその姿勢が、この冷たい冬の街で、多くの人々の心を救ってきた。
大吾は、目の前で一生懸命に飯を食っている衛の姿をじっと見つめた。
(どこへ行ったってお前なら大丈夫だ)
泥臭くても、実直で、確かなもの。派手な成功じゃなくても、周りの人間を温かく幸せにするような、そんな未来が彼を待っているはずだ。
恵介の完璧な栄養バランスと、心のこもった美味しさで満たされていく身体の中で、大吾の胸の穴は、いつの間にか温かな希望の光で満たされ始めていた。衛との別れは寂しい。だけど、この最後の晩餐がみかんで本当に良かったと、大吾は心から救われるような気持ちになっていた。
「よし、衛。残さず綺麗に平らげるぞ。料理を少しでも残したら、バチが当たるからな」
「もちろんです! 一粒も残しませんよ!」
二人は競い合うようにして、最後の麻婆豆腐をご飯にかけ、綺麗に口へと運び込んだ。器が空になる頃には、二人の額にはじんわりと汗がにじみ、身体の芯までぽかぽかと温まっていた。
お盆の上の器がすべて綺麗に空になった時、大吾と衛の身体は、内側から燃え上がるような心地よい熱気に包まれていた。冬の寒さでちぢこまっていた肩の筋肉が完全にほぐれ、額ににじんだ汗がゆっくりと引いていく。
「食った食った。いや、マジで美味かったです、大吾さん」
「ああ、完璧だったな。これで思い残すことなく宮城へ行けるだろ」
「はい。この麻婆豆腐の味があれば、向こうで辛いことがあっても乗り越えられそうな気がしますよ」
衛はそう言って、満足そうにお腹をさすりながら笑った。
大吾は伝票を手に取り、椅子から立ち上がった。上着のポケットから革の財布を取り出しながら、レジへと向かう。厨房ではちょうど一段落ついた恵介が、シンクで調理器具を丁寧に洗い流しているところだった。
「恵介さん、ごちそうさまでした。お会計をお願いします」
大吾が声をかけると、恵介はすぐに手を止め、備え付けのタオルで器用に水気を拭き取りながらレジの前へと歩み寄ってきた。
「ありがとうございました。麻婆豆腐定食が二つですね。お口に合いましたか?」
「合うも何も、最高でしたよ。この冬の寒さにあのピリッとした辛みと、何より出汁の深みが体に染み渡りました。衛なんて、一粒の米も残さずに皿をピカピカにしてましたから」
大吾が後ろを指差すと、衛もカウンター越しに「本当に美味しかったです!」と元気よく頭を下げた。
恵介は嬉しそうに目を細め、「そう言っていただけると、時間をかけて仕込んだ甲斐があります」と、あのいつもの穏やかな微笑みを浮かべた。
大吾は財布から紙幣を取り出しながら、少しだけ声を落として言った。
「…実はね、恵介さん。この桜谷、今日が最後なんですよ。うちの蔵を今日で退職して、実家の宮城に帰ることになりまして」
その言葉に、恵介の動きがピタリと止まった。驚いたように丸い目を見開き、大吾と、その後ろに立つ衛の顔を交互に見つめる。
「えっ…そうなんですか?」
「ええ。親父さんの体調があまり良くないみたいで、長男として家族を連れて地元を支えに戻るんです。だから今日が、二人で食べる最後のみかんのランチだったんですよ」
恵介はしばし言葉を失ったようだったが、すぐに表情を真摯なものへと引き締め、レジのカウンターから一歩前に出るようにして衛の前に立った。厨房の料理人としてではなく、一人の人間として彼と真っ直ぐに向き合うための所作だった。
「桜谷さん、そうだったんですね。何も知らずに、いつも通りにお出ししてしまいました」
「いえいえ!むしろ、いつも通りの最高の麻婆豆腐だったからこそ、本当に嬉しかったんです。俺、この街を離れるのが寂しかったんですけど、最後にこの味が食べられて、なんだかすごく勇気をもらえました」
衛が照れくさそうに笑うと、恵介は深く、丁寧に頭を下げた。
「こちらこそ、本当にありがとうございました。まだお店を始めたばかりで、全然お客様が来なくて不安だった時期から、峰松さんと一緒に何度も足を運んでくださって…。桜谷さんがいつも『美味い、美味い』って、本当に幸せそうに食べてくれる姿に、僕がどれほど救われたか分かりません。新しい場所での生活は色々と大変なこともあるかと思いますが、桜谷さんのその温かいお人柄なら、きっと宮城でもたくさんの人に愛されるはずです。心から応援しています」
「恵介さん…。ありがとうございます。俺、向こうでも頑張ります!」
恵介の心のこもったエールに、衛の目が少しだけ潤んでいるのを、大吾は見逃さなかった。男同士の、短くも確かな絆の通い合いが、そこにはあった。
大吾は、いつものように冗談めかした口調で言葉を添えた。
「というわけだから、恵介さん。いつになるかは分からないけど、いつか、万が一にでも夜の営業をやるって決めた時は、うちの蔵の酒を真っ先に置いてくださいね。宮城から衛が飛んできて、ここで一緒に祝い酒を飲むって約束ですから」
それは、大吾がこれまでに何度も口にし、そのたびに恵介から、当面はその予定は無いんですと、誠実にはぐらかされてきた、いわば定番のお決まりの台詞だった。今日もまた、苦笑いしながら断られるのだろう。大吾は半分そう思っていた。
しかし、今日の恵介は違った。
恵介は一瞬、何かをためらうように視線を落としたが、すぐにふっと、これまで見たこともないほど柔らかく、そしてどこか決意を秘めたような微笑みを浮かべたのだ。
恵介は客席をそれとなく窺うように少しだけ声を潜め、大吾と衛に顔を近づけて、静かに打ち明けた。
「…実は、峰松さん、桜谷さん。まだ本当に、誰にも言っていない話なんですけど」
その神妙なトーンに、大吾と衛は思わず息を呑み、身を乗り出した。
「最近は周囲の、本当に温かい方々に色々と助けていただきながら、ようやく僕たちの生活のペースというものが掴めてきたんです」
恵介の横顔は、以前に飛び込み営業を断られた時のような、孤独に意地を張っている父親のそれではなく、周囲への深い信頼に満ちた、温かな光を帯びていた。
「まだまだ先の話ですし、現状では当面は絶対に無理なんですけどね…。でも、いつかは、週末だけでもいいから、夜の営業をやりたいな、とは思っているんです。お酒と、僕の料理を、ゆっくり楽しんでもらえるような時間を、いつかこの場所で」
恵介はそこまで言うと、大吾の目を真っ直ぐに見つめた。
「その時が来たら…一番最初に声をかけるのは、峰松さん、あなたのところの酒蔵って決めています。だから、その時はよろしくお願いしますね」
大吾の胸の奥で、小さな、けれど強烈な爆発が起きたような衝撃が走った。
「え…っ」
「マジですか、恵介さん!」
後ろで衛が歓喜の声を上げ、大吾もまた、言葉にならない興奮で胸が震えた。
まだ実装は先、当面は無理。恵介は確かにそう言った。ビジネスの現実的な視点で見れば、それは何一つ確定していない、不確かな未来の口約束に過ぎない。
しかし、あの鉄壁の規律を守り、シングルファザーとしてランチ営業のみに命を懸けていた恵介が、自らの口から、いつかは夜をやりたいという展望を漏らしたこと、そしてその時はあんたの酒を置くと言ってくれたことの重みを、大吾はプロとして誰よりも理解していた。
それは、打算や効率の営業では決して勝ち取ることのできない、通い詰めた時間と、誠実さへの信頼がもたらした、最高の未来の約束だった。
「恵介さん…。言いましたね?最高の酒用意して待ってますから、絶対に心変わりしないでくださいね!」
大吾が熱を込めて言うと、恵介は「はい、お願いします」と力強く頷いた。
「俺も、夜営業が始まったら、絶対に有給を取ってでも宮城から新幹線で駆けつけますからね!」
衛の言葉に、店内はドッと温かい笑いに包まれた。
「ありがとうございました。お気をつけて!」
恵介の見送りの声を背中に受けながら、大吾と衛は店の引き戸を開けた。
一歩外に出ると、やはり十二月の凍えるような寒風が容赦なく吹き付けてきた。しかし、暖簾をくぐった二人の身体は、不思議なほど寒さを感じていなかった。
熱々の中華定食の余熱だけでなく、胸の奥に灯ったばかりの、鮮やかなオレンジ色の希望の灯火が、彼らの芯をしっかりと温めていたからだ。
振り返ると、風に大きく揺れるオレンジ色の暖簾が見えた。いつの日か、あの暖簾の隙間から、冬の夜を温めるような酒と肴の湯気が漏れ出てくる未来が、大吾の脳裏にははっきりと浮かんでいた。
「…すごかったっすね、大吾さん。最後の最後に、あんな特大のプレゼントが待ってるなんて」
駅へと向かう緩やかな坂道を歩きながら、衛がしみじみと呟いた。
「ああ。営業マンとしては、これ以上ない最高の退職祝いになったな」
「本当に。俺、向こうでもみかんの恵介さんみたいな、真っ直ぐな料理人と出会えるように泥臭く回ってみます。で、いつかうちの蔵の酒を宮城の店にも引っ張りますから」
「おう。負けてられないな。俺も、恵介さんがいつ夜営業を始めてもいいように、この街の飲食店を死守して、うちの酒のファンを増やしておかないと」
そんな前向きな会話を交わしながら、二人は踏みしめるように冬の商店街を歩いた。行き交う人々、声を張り上げる店主。コンクリートに染まりきらない、手触りのある街の景色が、心なしかいつもより鮮やかに見える。
やがて、見慣れた木製の引き戸が特徴的な、自分たちの働く酒蔵の直営店兼事務所へと戻ってきた。
引き戸を開けて中に入ると、静かな事務所の空気が二人を迎えた。留守番をしていた事務員が「お帰りなさい、お昼食べられました?」と声をかけてくる。大吾は「ああ、しっかり食ってきたよ」と返し、衛は自分のデスクへと歩み寄った。
デスクの上はすでに綺麗に片付けられており、引き出しの中身も、宮城へ送る段ボール箱へと全て収まっている。衛は、自分の愛用していた営業用の手帳や、身の回りのわずかな私物を最後のカバンへと詰め込んだ。
年の近い、気心の知れた友のような同僚。彼とこの小さな事務所で過ごしたこれまでの日々は、大吾にとってかけがえのない青春の延長戦のようだった。それが本当に終わるのだという事実が、静まり返った室内で、改めて大吾の胸に切なく押し寄せてくる。
「よし、これで全部終わりです」
衛が荷物をまとめたカバンを肩にかけ、大吾に向き直った。その顔には、もう迷いや寂しさの影はなかった。すっきりと吹っ切れた、一人の大人の男の顔だった。
大吾は小さく頷き、衛を促して一緒に店の外へと出た。
冬の風が再び二人の頬を叩く。見慣れた酒蔵の直営店の看板の下。ここで、何百回と営業の出発を見送り、迎えてきた場所だ。
「じゃあ、大吾さん。本当にお世話になりました」
衛がしっかりと大吾の目を見つめた。
「今まで、本当にありがとうございました。大吾さんは、俺の最高の先輩です。ここで大吾さんと一緒に泥臭く営業をやれたこと、俺の誇りですから」
「バカ言え、水臭い挨拶はナシだ。宮城の美味い酒が見つかったら、いつでも送れよ。利いてやるから」
「はは、楽しみに待っててください。大吾さんも、お身体に気をつけて」
二人は、どちらからともなく、営業の汗と泥にまみれてきた互いの右手を強く握り締めた。言葉はそれだけで十分だった。ギュッと交わされた手の熱が、互いのこれからの道を温めるエールのように伝わってくる。
手を離すと、衛は小さく一礼し、きっぱりとした足取りで駅の方へと歩き出した。
大吾は店の前で立ち尽くし、その背中をじっと見つめ続けた。商店街の人混みの向こう、冬の澄んだ空気の中へと、衛の背中は小さくなっていく。一度だけ、角を曲がる直前に衛が振り返り、いつもの人懐っこい笑顔で大きく手を振った。大吾もまた、それに応えるように力強く手を振り返した。
そして、相棒の姿は完全に雑踏の向こうへと消えていった。
一人になった大吾は、深く息を吐き出した。口から出た白い息が、冬の空へとまっすぐに上っていく。
隣にいたはずの温もりが消え、胸の奥には確かに寂しさが残っていた。けれど、それは決して冷たいものではなかった。みかんで交わした未来の約束が、そして今ここで交わした戦友との約束が、大吾の心を強く支えていた。
「よし」
大吾は前を向き、冷たい冬の風を切り裂くようにして、再び自分の愛する商店街の雑踏へと歩み出した。
いつかあのオレンジ色の暖簾の下で、最高の相棒と最高の酒を酌み交わす、その未来の約束を守るために。大吾の足取りは、冷え切ったアスファルトを力強く踏みしめていた。




