現状維持
長く、どこか憂鬱だった冬がようやく重い腰を上げ、街に柔らかな陽光が戻ってきた。
四月の風はまだ少し肌寒さを残しているものの、桜の季節を過ぎた街路樹には、瑞々しい新緑の若葉が顔を覗かせている。
梶原武彦はいつものように、商店街のアーケードを抜け、少し足早に歩いていた。目指す場所は、商店街の賑やかさから外れた住宅街にあった。
全国あちこちのシャッター通りがニュースになる昨今、この街の商店街は幸いにもまだ活気を保っている。
だが、会長である武彦にしてみれば、それは綱渡りのような現状維持に過ぎなかった。ただ古い歴史に胡坐をかいているだけでは、街は必ず飽きられ、衰退していく。
だからこそ、夏祭りのような伝統行事をただの慣例にせず、常に新しい風を取り込みながら、地域に根差した場所であり続けなければならない。それが、会長としての武彦の譲れない責任感だった。
一年前、みかんが商店街の外にオープンすると知った時、武彦が人一倍ハラハラしたのはそのためでもあった。
もし彼のような若い店主の店が、街の少し外側でしっかりと根を張って成功してくれれば、それは商店街にとっても、街全体にとっても素晴らしい、新しい血のモデルケースになる。失敗してほしくない、潰れてほしくないという、どこか義務感に近い親心が最初はあった。
しかし、そんな大人の理屈は、初めてあの暖簾をくぐった日に一瞬で吹き飛んでしまった。
オープン初日、お祝いがてら注文した和定食。それが、鰆の西京焼きだった。一口含んだ瞬間、武彦は自分の目論見を恥じるほど衝撃を受けた。西京味噌の芳醇なコクをまとった鰆は、箸を入れるとふっくらと解け、上品な魚の脂が舌の上で踊った。
付け合わせの細部に至るまで高級料亭に引けを取らない丁寧な仕事が施されており、本物の実力がそこにはあった。
(心配なんて、とんでもない。ただ、この美味い飯のファンになっただけだ)
我を忘れてご飯を貪り、気づけば器を空にしていたあの日の幸福な満腹感を、武彦は今でも思い出すことができる。
オレンジ色の暖簾がかかった食事処。お世辞にも立派とは言えない、間口の狭い小ぢんまりとした佇まいだ。築年数の経った古いテナントを居抜きで使っているため、外壁のあちこちには年季が入っているし、派手な看板が出ているわけでもない。
通りがかる人が意識して目を向けなければ、うっかり通り過ぎてしまいそうなほど、ひっそりとそこに建っている。
だが、この店の引き戸を開けるとき、武彦の胸はいつも小さな期待で弾むのだ。
「いらっしゃいませ。あ、会長さん、こんにちは」
ガラガラと戸を開けると、爽やかな声が武彦を迎えてくれた。
カウンターの向こうで作務衣に身を包み、深く一礼したのは店主の恵介だ。相変わらず、一本筋の通った誠実そうな佇まいをしている。店の奥からは、出汁の優しく芳醇な香りがふわりと漂ってきて、それだけで武彦の胃袋が心地よく刺激された。
「やあ、恵介くん。今日もいい匂いだね。少し遅い時間になっちゃったけれど、まだ大丈夫かい?」
「もちろんです。どうぞ、お好きな席へ」
時刻は午後一時を回ったところ。昼のピークタイムを過ぎているため、客席はポツポツと空いていた。武彦はいつものカウンター席に腰を下ろした。
食事処みかんがこの場所に暖簾を掲げてから、ちょうど一年が経ち、二年目の春を迎えていた。
思い返せば、この店がオープンした日のことは、武彦にとって今でも鮮明に記憶に残っている。武彦はこの店の二人目の客だった。
最初に出店を知った時には、正直に言ってハラハラしたものだ。商店街の外にある、人通りの決して多くない場所。そこで、まだ若い男が一人で定食屋を始めるという。店構えも素朴で、資本力があるようにはとても見えなかった。
(味が抜群に良いのは一口食べれば分かった。だからこそ、こんな場所で始めて、本当にやっていけるんだろうか。すぐに潰れてしまっては可哀想だ)
そんな余計な心配が頭をよぎり、武彦は最初の数ヶ月、まるで自分の身内の店であるかのように見守っていた。少しでも力になれればと、ちょくちょく顔を出しては料理を食べ、時には知人や商店街の仲間を「美味い店があるんだ」と連れてきたりもした。
しかし、武彦の心配をよそに、恵介は一歩一歩、確実にこの場所で根を張っていった。
恵介が作る料理には、一切の妥協がない。小鉢一つ、味噌汁の一滴にいたるまで、丁寧に手をかけられていることが伝わってくる。そのひたむきな姿勢が、一人、また一人と客を呼び、今では地域の隠れた名店として愛されるようになっていた。
厨房の脇には、恵介の丁寧な筆致で書かれた黒板が掲げられている。
この店のランチは、和食、洋食、中華の三種類の定食から選ぶシステムになっていた。どれを選んでも間違いない美味しさなのだが、元々和食の料亭で修行を積んだという恵介のルーツを聞いたこともあり、武彦はこの店に来るといつも、迷わず和定食を選ぶことにしている。
【和定食】鰆の西京焼き
【洋定食】春キャベツのロールキャベツ
【中定食】新筍の青椒肉絲
黒板の文字を確認し、武彦は満足そうに目を細めた。
(鰆か…。あの日を思い出すな)
オープン初日に食べたあの感動が、一瞬にして脳裏に蘇る。二年目の春を迎えた今日もまた、同じメニューに出会えたことに、武彦は不思議な縁を感じていた。
「今日もいつも通り、和定食を頼むよ。鰆は春らしくていいね」
「ありがとうございます。すぐに用意しますね」
恵介は微笑み、すぐに調理に取りかかった。
小気味よい包丁の音、そしてパチパチと軽やかな音が狭い店内に響く。その無駄のない動きを見ているだけでも、彼がこの一年間でどれほどこの厨房に馴染み、腕を磨いてきたかがよく分かる。
やがて、カウンター越しに武彦の目の前に運ばれてきた和定食は、思わずため息が出るほど美しかった。
ほんのりと黄金色に焼き上がった鰆の西京焼き。絶妙な火入れで表面には綺麗な焦げ目が浮かび、上品な味噌の香ばしさが湯気とともに立ち上っている。
そして、脇を固める副菜たちも、春の彩りに満ちていた。
一つは、新筍とワカメの若竹煮。出汁をたっぷりと含んだ筍の薄黄色が、器の中で優しく佇んでいる。
もう一つは、菜の花の辛子和えだ。茹で上げられた鮮やかな緑色に、細かく削られた鰹節がふんわりと踊っていた。
「いただきます」
武彦は箸をつけ、まずは鰆の身を口に運んだ。
ふっくらとした身から、上品な魚の甘みと西京味噌の深いコクが広がった。パサつきは一切なく、驚くほどしっとりとしている。
(美味いなぁ…。相変わらず、完璧な焼き加減だ。いや、一年前よりもさらに、味噌の馴染ませ方や火の通し方に洗練されたキレがあるな。恵介くん、この一年でさらに腕を上げたか)
続いて、新筍に箸を伸ばす。口に含むと、出汁の優しい旨味の後に、新筍ならではのシャキシャキとした心地よい食感と、気品のある特有の香りが鼻を抜けた。丁寧にアク抜きがされているため、エグみなど微塵もない。
さらに菜の花の辛子和えを口に運べば、特有の心地よい苦味の奥から、爽やかに抜ける辛子の風味が、鰆の濃厚な旨味を綺麗に引き締めてくれる。全体のバランスが、まるで一枚の美しい絵画のように完成されていた。
「…美味いなぁ。本当に恵介くんの料理は、いつ食べても心がホッとするよ。この筍も素晴らしいね」
「ありがとうございます。鰆は今朝、商店街の魚屋さんで一番良いものを仕入れさせてもらったんです。筍と菜の花も、八百屋のご主人が『今朝入ったばかりの、一番いいやつを持っていけ』って融通してくれたんですよ」
恵介は嬉しそうに目元を緩ませた。こうした、仕入れ先への感謝を忘れないところも彼の素晴らしい美徳だった。
美味しい料理を綺麗に平らげ、武彦は今日ここへ来たもう一つの目的を切り出すタイミングを計っていた。
実は、夏に開催される商店街の夏祭りについて、武彦を含めた役員の間で準備が始まっていたのだ。毎年、地域の住民が大勢集まる大きなイベントで、商店街の店主たちが様々な出店を並べる。
先日の幹部会合の際、武彦は「ぜひ、今年は食事処みかんさんに出店をお願いしてはどうか」と提案した。商店街の連中も、恵介の店の評判は耳にしている。満場一致で「それはぜひお願いしたい」という話になり、武彦がこうしてメッセンジャーとして白羽の矢を立てられたわけだ。
武彦は湯呑みを置き、少し居住まいを正して恵介に視線を向けた。
「ところで、恵介くん。今日はちょっと、折り入って相談というか、お願いしたいことがあってね」
「はい、何でしょうか?」
恵介は手を止め、真っ直ぐに武彦を見た。
「実はね、七月の終わりに、商店街の夏祭りがあるんだ。土曜日の夕方から夜にかけて、アーケードを歩行者天国にして大々的にやるお祭りなんだけどね。そこで…みかんの出店をぜひ出してほしいんだよ。商店街の若い力として、祭りを一緒に盛り上げてほしくてね」
武彦の言葉を聞いた瞬間、恵介は驚いたように目を丸くした。まさかそんな依頼が自分に来るとは夢にも思っていなかったのだろう。少しの間、言葉を失ったように武彦を見つめていたが、やがて困ったような、ひどく恐縮したような苦笑いを浮かべた。
「えっ…商店街の夏祭り、ですか? お声がけいただけるのは本当に、光栄というか、嬉しいのですが…」
恵介は少し視線を落とし、躊躇うように言葉を続けた。
「でも、会長さん。うちは、商店街の外にある小さな店ですから…。歴史のある商店街の皆さんのイベントに、僕のような新参者が、しかも外の店が出張っていくのは、なんだか申し訳ないというか、遠慮してしまって。他のお店の方々には、よく思われないんじゃないでしょうか」
彼の口から出たのは、予想通りというか、実に彼らしい遠慮の言葉だった。




