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食事処みかん  作者: 蜜柑次郎
鰆の西京焼き

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打診

 店の場所が商店街から外れていること、あるいは店を始めてまだ一年しか経っていないこと。それが、恵介の中で目に見えない壁になっているようだった。自分なんかが伝統ある祭りの輪に加わっていいのだろうか、という気後れが伝わってくる。


 武彦は首を横に振り、温和に、しかしはっきりとした口調で言った。


「何を言っているんだい。確かに店の場所は少し外れているかもしれない。だけど、恵介くんが毎日ここで一生懸命に暖簾を出して、街の人たちにおいしいご飯を届けているのは、みんなちゃんと知っているよ。商店街の区域がどうとか、そんな細かいことを気にする人間は誰もいないさ。だからこそ、僕は恵介くんに出てほしいんだ」


 武彦の熱を帯びた言葉に、恵介はハッとしたように顔を上げた。


 しかし、彼の表情にはまだ、もう一つの深い悩みの影が差していた。それは立地や遠慮といった問題ではなく、彼の生活の根幹に関わる切実な問題だった。


「土曜日、ですよね…」


 恵介はぽつりとその言葉を呟き、少し困ったように視線を落とした。自身の手を見つめるその顔に、言葉にできない複雑な葛藤がにじみ出る。


 昼のピークを過ぎたとはいえ、店内にはまだポツポツと遅い昼食をとる客の姿があった。恵介が定休日にしている土曜日の事情について、ここで大々的に口にするつもりはないのだろう。


 隠すわけではないが、他人の耳がある場所で自らの私生活を事細かに説明するのは、いかにも公私の線引きを重んじる恵介らしい慎み深さだった。


 だが、この店に通い詰めている武彦には、その短い呟きだけで彼の胸中が痛いほど伝わってきた。


 男手一つで幼い息子の翔太を育てる恵介にとって、土日は何よりも優先すべき大切な時間だ。お祭りへの出店となれば、朝早くからの仕込みに始まり、移動、そして夜遅くの片付けにいたるまで、丸一日、完全に時間を拘束されることになる。


 その間の翔太の過ごし方をどうするか。それは彼にとって、何よりも重く、簡単には割り切れない問題に違いなかった。


 武彦は、恵介の緊張をほぐすように、他のお客に配慮して声を潜めながら、柔らかいトーンで言葉を重ねた。


「…曜日と、時間のことが心配なのはよく分かるよ。丸一日、どうしても拘束されることになるからね。恵介くんにとって、その日がどれだけ特別な意味を持つ日なのかは、僕も少しはわかっているつもりだからさ」


 武彦のどこまでも優しく、すべてを察したような配慮に、恵介の瞳が驚いたようにわずかに揺れた。


「無理を言って、大切なものを犠牲にしてくれなんて誰も思っちゃいないんだ。だからね、今日ここで返事をくれとは言わないよ。まだお祭りまでは時間がある。少しの間、考えてみてもらえないかい?」


「会長さん…」


 恵介は一度言葉を呑み込み、それから小さく息を吐いた。お祭りに声をかけてもらったことへの感謝と、料理人として挑戦してみたいという前向きな気持ち。


 それらが、彼の澄んだ瞳の奥で静かに火を灯しているのが見える。商店街の期待に応えたい、けれど家族のことも妥協はできない。そんな大人の男としての責任感が、彼の背中を支えていた。


「なんとかしてみようとは思うんです。会長さんがせっかくそうやって言ってくださったお話ですし、最初から無理だと諦めてしまうのは、なんだか悔しいですから」


 恵介はカウンターに手をつき、少しだけ身を乗り出すようにして、武彦に真っ直ぐな視線を向けた。


「なので、ちょっと当たってみて、どうにか都合がつきそうか、目処を確認してからのお返事でも良いですか?自分の中で調整できる道を、少し探してみたいんです」


 その言葉を聞いた武彦は、深く、包み込むような笑みを浮かべて頷いた。恵介が言葉を濁しながらも、決して後ろ向きではないこと。そして、何よりも大切なものを守りながら、必死に方法を模索しようとしていることが、武彦には何よりも嬉しかった。


「ああ、もちろん、もちろんとも!工夫できる道が少しでもありそうなら、ぜひ前向きに考えてみておくれ。さっきも言った通り、商店街の連中はみんな、恵介くんが作る料理のファンだし、この街の一員として心から歓迎しているんだからね」


 武彦は湯呑みを置き、最後にもう一度、太鼓判を押すように微笑んだ。


「お祭りの役員としてもそうだけど、一人の客としてもね、夏の夜空の下でみかんの出店が見られたら、それは最高に嬉しいことだからさ。ゆっくりでいいからね」


「ありがとうございます、会長さん。そう言っていただけて、本当に心が軽くなりました。はい、できる限りの方法を考えてみます」


 恵介は照れくさそうに笑いながら、カウンター越しに、深く、深く頭を下げた。


 武彦は湯呑みを空にし、心地よい満腹感とともに席を立った。


 ガラガラと引き戸を開けて外へ出ると、四月のうららかな陽光が、頭上に降り注いだ。


 住宅街を吹き抜ける風はまだ少し涼しいが、確実に次の季節の匂いを孕んでいる。振り返れば軒先で、鮮やかなオレンジ色の暖簾が、春の風を受けて誇らしげに揺れていた。


 武彦は再び商店街のアーケードの方へと歩き出した。


 あの誠実な青年店主が、商店街の真ん中でたくさんの人々に囲まれて笑顔を見せている賑やかな光景が、武彦の脳裏には不思議とはっきりと浮かんでいた。


「うまくいくといいんだがな」


 武彦はもう一度、誰に言うでもなくそう呟き、新緑の若葉がきらめく街路樹を見上げながら、温かな余韻に包まれて歩みを進めていった。


 打診から、一週間ほどの時が流れていた。


 四月も終わりに近づき、街を吹き抜ける風には、ほんのりと初夏の瑞々しい匂いが混じり始めている。日中の陽射しは汗ばむほどに暖かく、商店街を行き交う人々の上着は薄手のものに変わっていた。


 武彦は、夏祭りの企画書を鞄に仕舞い込み、商店街の外へと足を向けた。


 この一週間、武彦の頭の片隅には常に、あの誠実な青年店主の曇った表情があった。出店を強制するつもりは毛頭ない。だが、もし彼が何らかの理由で断らざるを得なくなったとしたら、それは商店街にとっても、一人のファンである武彦にとっても、あまりに惜しいことに思えてならなかったのだ。


「いらっしゃいませ。あ、会長さん、こんにちは」


 引き戸を開けると、いつもと変わらない、けれどどこか少し晴れやかな恵介の声が響いた。


 開店直後の店内で、客はまだ一人だけ。カウンターの最も奥の席に女性が一人座っていた。そのどこか弛緩した、穏やかな横顔を見るだけで、彼女がいかにこの店を気に入っているかが伝わってくるようだった。


 恵介はといえば、厨房で根菜の皮を丁寧に剥いていた。シャッ、シャッ、と規則正しく響く小気味よい音が、静かな店内に心地よいリズムを作っている。


「やあ、恵介くん。今日は早くにお邪魔するね」


「いらっしゃいませ。どうぞ、お好きな席へ」


 武彦はいつものカウンター席に腰を下ろし、お冷を受け取った。


 恵介は一度、手元の作業を区切ると、調理台を綺麗に拭き上げてから武彦の前に立った。その澄んだ瞳には、一週間前のような躊躇いや迷いの影は見当たらず、どこか決意を秘めたような光が宿っている。


「会長さん。先日の、夏祭りの出店のお話なんですけれど」


 恵介は少し照れくさそうに、けれど真っ直ぐに武彦の目を見つめて微笑んだ。


「ぜひ、出店させていただきたく思います。よろしくお願いします」


 その言葉を聞いた瞬間、武彦は思わず「おお!」と声を上げてしまった。胸の奥に仕舞い込んでいた小さな懸念が、一瞬にして爽快な達成感へと変わっていく。


「本当かい!いやぁ、それは嬉しいな。商店街のみんなも、きっと大喜びするよ。…じゃあ、上手く調整がついたのかい?」


 武彦が少し声を潜めて尋ねると、恵介ははにかむように頷いた。


「ええ。実は、実の両親に相談してみたんです。僕がこうして店を始めてから、ずっと心配していたみたいで…。今回、商店街の大きなイベントに声をかけてもらったんだと話したら、まるで自分のことのように喜んでくれましてね。『そんな名誉なことはない、土曜日は私たちが面倒を見るから、しっかりやってきなさい』って、背中を押してくれたんです」


 家族の温かな支え。男手一つで店を切り盛りする息子を、遠くからずっと見守り、支えようとしてくれている両親の存在が、恵介の口からサラリと、けれど確かな熱を持って語られた。


 武彦はグラスを握る手にじわりと力を込め、深く、深く頷いた。


「そうか、ご両親が…。それは本当に有り難いことだね。恵介くんがこの一年、どれだけ誠実に商売と向き合ってきたか、ご両親にもちゃんと伝わっていたんだよ。だからこそ、街の人たちに認められたことを、それほど喜んでくれたんだと思うな」


「はい。僕も、両親の言葉を聞いて、なんだかすごく救われた気がしたんです。これまで、どこかで周りに迷惑をかけないようにって、一人で背負い込みすぎていたのかもしれません」


 恵介の表情から、まとっていた目に見えない強張りが、ふっと解けていくのが分かった。自分の選択が間違っていなかったと、最も身近な家族に肯定された喜びが、彼の優しい笑顔に溢れている。


「よし、それなら話は早い。実はね、来週の水曜日に、商店街の居酒屋で夏祭りの顔合わせ兼飲み会があるんだよ」


 武彦は鞄から手帳を取り出しながら、恵介に視線を向けた。


「ガッツリした難しい打ち合わせじゃなくてね、出店を出す連中が集まって、今年もよろしくって酒を酌み交わすだけの、ごく気楽な席なんだ。機材の貸し借りとか、仕込みのちょっとしたコツなんかをフランクに情報交換できる場でもあるから、恵介くんもぜひ顔を出してみないかい?」


「顔合わせ、ですか…」


 恵介は一瞬、やはり商店街の外の人間である自分がという遠慮の表情を浮かべた。新参者がそんな身内の集まりに飛び込んでいいのだろうか、という気後れが、彼の眉尻をわずかに下げさせる。


「大丈夫だよ。みんな、恵介くんが来るのを心待ちにしているんだから。肩肘張らずに、ただ美味しいお酒を飲みに行くくらいの気持ちで来ておくれ」


「…分かりました。会長さんがそう言ってくださるなら、ぜひ参加させてください。勉強させていただきます」


 恵介は深く一礼し、清々しい声でそう答えた。その真面目な受け答えに、武彦はまた一つ、彼が街の人間たちに愛される未来を確信したのだった。


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