仲間
水曜日の午後六時。
商店街の中心部にある居酒屋、鳥政の周辺には、香ばしい焼き鳥の煙と、賑やかな笑い声が溢れていた。
縄のれんをくぐると、店内はすでに熱気で満ちていた。使い込まれた木製のテーブルがいくつか並べられ、壁には年季の入ったメニューの木札がずらりと並んでいる。夏祭りの出店を担当する商店街の店主たちが、すでに何人か集まって冷えたビールジョッキを傾けていた。
恵介は、いつも店で見せる作務衣姿ではなく、落ち着いた私服姿で、店の入り口付近に少し遠慮がちに佇んでいた。
周囲の店主たちは皆、長年この街で共に商売をしてきた気心の知れた仲間たちだ。あちこちで大声での掛け合いが始まっており、その出来上がった輪の中に、商店街の外で小さな店を営む自分がどう入っていくべきか、タイミングを計りかねているようだった。背筋を少し伸ばし、鞄の紐をぎゅっと握るその姿は、まるで初めての場所に迷い込んだ少年のようにも見える。
武彦が恵介の姿を見つけ、声をかけようと腰を浮かせかけた、その時だった。
「おーい!みかんの店主じゃねえか!こっちこっち、こっち空いてるぞ!」
店内の奥から、地鳴りのような太い声が響き渡った。
声を上げたのは、商店街で一番の元気を誇る八百屋の店主だった。丸坊主がトレードマークの巨漢が、恵介の姿を見つけるなり、豪快に手を振っている。
「ほら、何突っ立ってんだよ!魚屋のオヤジも肉屋の旦那も、みんなここに揃ってるぜ!」
八百屋の店主の隣では、いつも恵介に新鮮な魚を卸している魚屋の店主がニカッと笑い、その向かいでは肉屋の店主が「早く座れよ、ビールが温まっちまう」と、すでに用意されていたジョッキをトントンと叩いていた。
「あ…こんばんは。お邪魔します」
恵介は驚いたように目を丸くしながらも、お世話になっている仕入れ先の面々に導かれるようにして、店内の最も賑やかなテーブル席へと引っ張り込まれていった。
「なんだよ、お前、こういう席は初めてか?緊張すんなって!」
八百屋の店主が恵介の肩をバンバンと力強く叩き、無理やり座らせる。恵介は「あはは、ちょっと圧倒されてしまいまして」と苦笑いを浮かべながらも、その表情には、先ほどまでの張り詰めた気後れはすっかり消え失せていた。
武彦はその様子を少し離れた席から眺めながら、満足そうに目を細めて冷えたビールを喉に流し込んだ。
心配する必要など、最初からなかったのだ。恵介が日々、仕入れの際に見せる誠実な態度や、食材を大切に扱う姿勢を、彼らは誰よりも間近で見てきた。商店街の中か外かなどという些細な線引きは、彼らが恵介に抱く信頼の前には、最初から何の意味も持っていなかったのだ。
「よし、みかんの店主も揃ったことだし、今年の夏祭り、盛り上げていこうじゃねえか!かんぱーい!」
大谷の音頭とともに、無数のガラスジョッキがカチンと小気味よい音を立ててぶつかり合った。
店内に響き渡る歓声と、炭火で焼かれる肉の脂の爆ぜる音。恵介が少し照れくさそうに、けれど本当に嬉しそうにジョッキを傾ける姿を見ながら、武彦は動き始めた温かな街の夜に、心地よい充足感を覚えていた。
赤提灯の仄赤い光がガラス窓を縁取り、店内に立ち込める炭火とタレの香ばしい煙が、集まった店主たちの顔をどこか大らかに照らし出している。
乾杯の勢いのまま、宴席は一気に賑やかさを増していった。大谷が注文した大皿の焼き鳥が次々と運ばれてきても、それは育ち盛りの体育会系のごとく、あっという間に店主たちの胃袋へと消えていく。
恵介は最初のビールをごくりと喉に流し込むと、「ぷはっ」と小さく息を吐いた。普段の店で見せる張り詰めた料理人の顔から、少しずつ肩の力が抜けていくのが、隣の席に座る武彦の目にもはっきりと分かった。
「いやぁ、美味しいですね。鳥政さんのレバー、絶妙な火入れです。タレのコクも深くて素晴らしい」
「おう、分かってくれるか!うちのタレは親父の代から注ぎ足しでな。お前さんみたいなプロに褒められると、焼き甲斐があるってもんだよ」
厨房の奥から、ねじり鉢巻きを締めた鳥政の店主が嬉しそうに声を張り上げる。恵介はただお酒を楽しむだけでなく、運ばれてくる一皿一皿の仕事ぶりに自然と敬意を払っていた。その素直な感嘆が、職人気質の強い商店街の面々にはたまらなく心地よいようだった。
武彦は手元のジョッキを置き、恵介の横顔を見つめながら、ふと気になっていたことを口にした。
「そういえば、恵介くん。今夜は付き合わせちゃって大丈夫かい?翔太くんは…」
「あ、はい。ご心配をおかけしてすみません」
恵介はジョッキを置き、穏やかな微笑みを浮かべて答えた。
「今夜は、近くに住んでいる義理の両親が家に来てくれていまして。僕がこういうお付き合いに出かけるのを、本当に喜んで応援してくれているんです。翔太も、おじいちゃんとおばあちゃんが大好きなので、今頃は家で大はしゃぎしていると思います」
隠すわけではないけれど、大々的に触れるまでもない、彼の家庭の事情。けれど、恵介を支えるもう一つの温かい家族の絆が、彼の口から静かに語られた。義理の両親という存在が、男手一つで幼い息子を育てる恵介の背中を、どれほど優しく支えてくれているか。武彦はその短い言葉の裏にある深い愛情を感じ取り、胸の奥がじんわりと温かくなるのを覚えた。
「そうか、義理のご両親がね…。それは本当に心強いことだ。あんたがこの街で一歩を踏み出したことを、周りのみんなが応援してくれているんだね。夏祭りの日も、安心して任せられそうだ」
「はい。本当に、感謝してもしきれません」
恵介はそう言って、嬉しそうに目を細めた。その澄んだ瞳には、自分は一人で背負わなければならないという孤独な強がりは、もうどこにもなかった。
夜が更けるにつれ、お酒の力も手伝って、店主たちの会話はさらに熱を帯びていった。夏祭りの出店の配置や、仕込みの機材についての情報交換がフランクに交わされる。
「お祭りの時は、必要ならうちの店のプロパンガスを一本融通してやるよ」「冷やしメニューをやるなら、うちの氷の仕入れ先を安く紹介するぜ」といった、気合が入りすぎていない、けれど生活の延長線上にある実用的な優しさが、飛び交う言葉の中に溢れていた。
恵介はその一つ一つを漏らさぬように、真剣な面持ちで何度も頷きながら、小さなメモ帳にペンを走らせている。
まだ見ぬ夏の夜、アーケードに立ち込める熱気や、提灯の光に照らされた人々の笑顔。その真ん中で、恵介がどんな顔をして自分の料理を差し出しているのだろうか。
他のお決まりの定番メニューに負けないくらい、この誠実な男が作る一皿は、きっとお祭りにやってくる人たちの心と胃袋を掴むに違いない。そんな確信が、武彦の胸を高鳴らせていた。
そんな中、大ジョッキを何杯も空けてすっかり上機嫌になった八百屋の店主が、ドスンとテーブルを叩いて立ち上がった。
「いやぁ、それにしてもよ!俺は最初から、みかんの店主のファンだったんだよな!」
その太い声に、周囲のテーブルからも、何事だ?と視線が集まる。恵介は突然の指名に驚いた。
「みんな聞いてくれよ。こいつが、商店街の外れのあの場所で店を開いたばかりの時さ。俺のところに仕入れに来てな。まだ客も少なくて大変そうだったから、俺、形が不揃いだったり傷がついたりした規格外の余りもの野菜を、格安でまとめて譲ってやったんだよ。そしたらさ…」
八百屋の店主は恵介の肩に太い腕を回し、自慢げに胸を張った。
「次の日の昼過ぎ、こいつがわざわざうちの店まで、小さなタッパーを持って現れたんだ。開けてみたらさ、俺が渡したあの不揃いの大根や人参が、見たこともないくらい綺麗な、出汁の染みたピカピカの小鉢に化けてやんの。深々と頭を下げられてさ。…俺、あの姿を見てよ、あぁ、この男は食材にも、俺たち仕入れ先にも嘘をつかない、本物の料理人だなって、一発で惚れ込んじまったんだよな!」
熱い独白に、周囲の店主たちから「へえ、いい話じゃねえか」「やるな!」と歓声と拍手が沸き起こる。恵介は耳まで真っ赤にして、「あの時は本当に助かったので、お礼をしたくて…」と照れくさそうに頭を掻いた。
すると、その様子をニヤニヤと眺めていた鳥政の店主が、焼き台の前に立ったまま、さらに言葉を重ねた。
「お前だけじゃねえぞ。実は俺もさ、オープンして二週間目くらいの時に、客のフリしてみかんに偵察に行ったんだよ」
鳥政の店主はハハハと豪快に笑った。
「商店街の外に、美味い店ができたって噂は聞いてたからな。同業者としてどんなもんかと思って、昼飯を食いに行ったんだ。そしたらさ、料理の味が抜群なのはもちろんだけど、俺が一番驚いたのは、お前さんの手元だよ」
鳥政の店主は、手に持ったトングを置き、真面目な顔をして恵介を見つめた。
「客が帰った後、お前さんがカウンターを磨く姿。お盆の汚れを一枚一枚、本当に丁寧に、隅々まで拭き取っていく手つき。他にお客がいない時間だってのに、一ミリの妥協もなく店を綺麗に保とうとしていた。あの姿を見た時にさ、俺は確信したよ。この店は絶対に本物だし、こんなに誠実な男なら、いつか絶対に商店街のイベントに来てほしい、一緒にこの街で商売をしたいってな。だから、会長からお前が出店を迷ってるって聞いた時は、みんなで絶対に口説き落としてくれって裏で話してたんだぜ」
店内に流れる、温かく、けれど圧倒的な肯定の空気。
恵介はただ、呆然としたように店主たちの顔を見つめていた。自分が商店街の外の人間だから、まだ始めて一年の新参者だからと、勝手に遠慮の壁を作って気後れしていた。しかし、自分の知らないところで、この街の大人たちは彼のひたむきな背中を、その誠実な仕事を、ずっと前からちゃんと見ていてくれたのだ。
恵介の澄んだ瞳の奥に、じわりと熱いものが込み上げていくのが分かった。彼は一度、ぎゅっと唇を噛み締め、それから溢れんばかりの感謝を込めて、テーブルの上の店主たち、そして厨房の奥へと向かって、頭を下げた。
「…ありがとうございます。そんな風に、見ていてくださったなんて…。僕、本当に、この街で店を始めて良かったです」
「水臭えこと言うなよ!もうお前は、うちの仕入れ仲間であり、大事な飲食店仲間だ。祭りの当日は、みんなで大暴れしようじゃねえか!」
皆の豪快な笑い声とともに、再びジョッキが合わさる。恵介の顔には、もう迷いも遠慮も残っていなかった。ただ、この温かい街の仲間たちと共に歩んでいこうという、確かな誇りと喜びが、彼の表情を何よりも輝かせていた。
午後九時を過ぎる頃、賑やかだった宴は一旦お開きとなった。
外へ出ると、四月の柔らかな夜風が、火照った身体を心地よく撫でていく。喧騒を離れ、静まり返った商店街のアーケードを、武彦と恵介は並んでゆっくりと歩いていた。
街灯の白い光が、二人の足元に長い影を落としている。恵介は、まだ先ほどの余韻が残っているのか、どこか夢見心地のような、けれど本当に嬉しそうな顔をして夜空を見上げていた。
「会長さん。今日は本当に、ありがとうございました。あんなに温かく迎えていただけるなんて、思ってもみませんでした」
恵介の少し掠れた、けれど芯のある声が、静かな夜の空気に溶けていく。武彦は歩幅を合わせながら、ポケットに手を突っ込み、深く包み込むような笑みを浮かべた。
「ほらね、言っただろう?商店街の区域がどうとか、そんな細かいことを気にする人間は誰もいないって」
武彦は一度足を止め、恵介の真っ直ぐな瞳を見つめた。
「たった一年で、みかんがこれだけみんなに受け入れられたのはね、恵介くん。料理の味が良いのはもちろんだよ。だけどそれ以上に、恵介くんが毎日、あの小さな店でどれだけ誠実に料理と向き合ってきたか、その姿勢をね、みんなちゃんと分かっているからなんだよ」
武彦の言葉は、夜風に乗って恵介の胸の奥深くへと染み渡っていくようだった。
「仕入れ先を大切にし、道具を大切にし、一品一品に魂を込める。あんたのその誠実な背中をね、八百屋も、鳥政のオヤジも、みんなちゃんと見ていたんだ。商売人はね、他人の嘘や手抜きには敏感だけど、その分、本物の誠実さには誰よりも早く気づくものさ。恵介くんが紡いできた努力が、今日、あの輪を作ったんだよ。自分を誇っていい」
武彦が太鼓判を押すようにそう告げると、恵介は一瞬、言葉を失ったように立ち尽くした。やがて、その澄んだ瞳から一筋の涙がこぼれそうになるのを堪えるように、ふっと顔を綻ばせ、本当に子供のような、無防備で嬉しそうな笑顔を見せた。
「…はい。ありがとうございます。僕、もっともっと頑張ります」
「うん。期待しているよ。夏の夜空の下で、あんたの料理が食べられるのを、僕も楽しみにしているからね」
武彦と別れ、恵介は商店街の出口へと歩き出した。




