エプロン
七月下旬の金曜日。夕暮れ時を迎えてもなお、アスファルトを焦がした昼間の熱気は容赦なく街に居座っていた。窓の外からは、夜の帳が下りるのを惜しむような油蝉の鳴き声が、遠く、低く響いている。
西日がわずかに差し込む新居の台所で、若林楓、旧姓井上楓は小さく息を吐きながら、お気に入りのエプロンの紐を腰の後ろできゅっと結んだ。
目の覚めるような、けれどどこか落ち着きのある、深く澄んだアースブルーのリネン。粗く引かれた麻の糸が、指先に心地よい摩擦を残していく。仕立ての良いそのエプロンは、三歳からの幼馴染である美里が贈ってくれた結婚祝いだった。
あのとき、美里の部屋で受け取ったリネンの手触りを、楓は料理をするたびに思い出す。触れるたびに生地は柔らかく肌に馴染み、今では楓の生活になくてはならない、大切なお守りのようになっていた。
「よし、冷やし鉢はこれで大丈夫かな」
楓は冷蔵庫を開け、ガラスの器をそっと覗き込んだ。
中には、出汁をたっぷりと吸い込んだ夏野菜が綺麗に並んでいる。お昼のうちに仕込んでおいた、ナスとパプリカ、そしてオクラの揚げ浸しだ。素揚げにすることで鮮やかさを増したナスの紺紫色と、パプリカの赤、オクラの緑が、冷やされたガラスの器の中で涼しげにきらめいている。
ひと口大に切ったナスには、出汁が奥まで染み渡るように細かく格子状の隠し包丁を入れておいた。箸で持ち上げれば、出汁が溢れるはずだ。
まな板の上には、今しがた湯通しして氷水できゅっと締めたばかりの豚肉が、薄いピンク色の山を作っている。今夜のメインは、たっぷりの薬味を添えた豚の冷しゃぶだ。
楓は瑞々しいミョウガと大葉、そして長ネギを、包丁の刃先を使って極力細く、丁寧に刻んでいく。トントントン、と規則正しい音が静かなキッチンに響く。自炊の手際は、昔から美里に教わることが多かった。美里のように繊細な千切りはできなくても、大切な人のために作る料理には、自然と指先に力がこもる。
同じ地方銀行に勤める夫の若林健司は、真面目で、少し大人しいけれど、誰よりも誠実な男性だった。営業や融資の数字に追われる日々の中で、二人が揃って囲む夜の食卓だけは、何にも代えがたい穏やかな時間だった。
カチャリ、と玄関の鍵が回る音が静かな廊下に響いた。
「ただいま。うわあ、すごくいい匂いがする」
ネクタイを少し緩めた健司が、いつも通りの穏やかな笑みを浮かべてリビングに入ってきた。夏の厳しい外回りで、ワイシャツの背中にはうっすらと汗が滲んでいる。
「おかえりなさい、健司くん。暑かったでしょう。すぐご飯にするから、先にシャワー浴びちゃって」
「ありがとう。本当に、外はサウナみたいだよ。…お、そのエプロン、やっぱりよく似合ってるね」
健司は楓の腰回りに視線を送り、嬉しそうに目を細めた。
「ふふ、美里が選んでくれたんだもん。私の好みを一番分かってるのは、やっぱりあの子だなって思う」
「小泉さん、元気にしてる?最近、なかなか会えてないけど」
「うん、相変わらず保育園は忙しいみたい。でもね、最近の美里、なんだかちょっと雰囲気が変わったのよ」
楓は薬味の皿にラップをかけながら、ふと胸の奥に灯った温かい光について思いを馳せた。
シャワーを浴びてすっきりとした部屋着に着替えた健司がテーブルにつくと、楓は手際よく料理を並べていった。
ガラスの器に盛られた夏野菜の揚げ浸し。大皿にこんもりと盛られた冷しゃぶには、細切りにしたきゅうりを敷き、上から刻みたての薬味を雪のように散らしている。自家製のポン酢には、ほんの少しだけ隠し味に生姜の搾り汁を利かせておいた。さらに、お豆腐屋さんで買ったばかりの濃厚な絹ごし豆腐に、冷たい麦茶。
「いただきます」
二人の声が重なり、静かな夕食が始まる。
健司はまず、ナスの揚げ浸しを箸でそっと持ち上げ、口に運んだ。とろけるような食感とともに、かつおと昆布の優しい出汁が口いっぱいに広がったのだろう。健司の眉が、美味しそうに小さく跳ねる。
「…あぁ、美味しい。冷たくて、出汁の旨味が体に染み渡るよ。隠し包丁がすごく丁寧に入ってるから、ナスが本当に柔らかい」
「よかった。お昼休みに一度家に戻って仕込んでおいた甲斐があったわ」
「こっちの冷しゃぶも、薬味がシャキシャキしていて最高だ。夏の疲れが全部吹き飛んでいくみたいだよ」
健司は冷しゃぶをポン酢にくぐらせ、実においしそうに頬張った。彼の「美味しい」という言葉には、お世辞や誇張が一切ない。その素朴な誠実さに、楓の心はいつも満たされる。
「ねえ、健司くん。さっきの美里の話なんだけどね」
楓は麦茶のグラスを包み込みながら、少しだけ声を落とした。
「去年の春、新宿のレストランでプロポーズのことを報告したときのこと、覚えてる?」
「もちろん。僕も二人の仲の良さは知っていたから、小泉さんが喜んでくれたって聞いて、心底ホッとしたよ」
「あのときね、美里は心からお祝いしてくれたの。それは本当。でも…あの子の瞳の奥に、言葉にできない寂しさとか、諦めみたいなものが、ほんの少しだけ透けて見えた気がしたんだよね」
三歳からの幼馴染。美里がどれほど容姿に恵まれ、それゆえにどれほど多くの男性から身勝手な好意を押し付けられてきたか、楓は誰よりも近くで見てきた。児童の父親からさえも、都合の良い母性や全肯定の包容力を求められ、男という生き物そのものに深い不信感を抱くようになってしまった美里。
『私は、お付き合いとか結婚とかは、もう遠慮したいな』
あの夜、高級なイタリアンの明かりの中で、美里はそう言って静かに笑っていた。自分はそちら側の幸せからは距離を置いて、子どもたちの成長を仕事として見守るだけでいい、と。まるで自分の人生の半分を、自ら静かに切り離してしまったかのような、そんな頑なな決意が、楓にはたまらなく切なかった。
「でもね」
楓は顔を上げ、健司の真っ直ぐな瞳を見つめた。
「最近、美里と話すとね、声のトーンが全然違うの。なんて言えばいいのかな…日常の中に、すごく大切な、心の拠り所を見つけたような、そんな瑞々しい声をするのよ」
「へえ、それはよかった。何か新しい趣味でも見つけたのかな?」
「ううん、趣味っていうか…一軒の、小さなお食事処なんだって。隣駅の商店街の少し先にある、食事処みかんっていうお店」
楓はその店名を口にするだけで、美里の弾んだ声が耳の奥に蘇るようだった。
「平日のランチしかやってないらしいんだけど、和洋中の定食が毎日三種類あって、どれを食べても次元が違うくらい美味しいんだって。美里、自炊もすごく頑張る子だけど、『あの店主さんの料理には、絶対に敵わない』って、本当に嬉しそうに、尊敬を込めて話すの」
「和洋中を、一人の店主が全部?それはすごいね。相当な腕利きなんだろうな」
健司が、興味深そうに顎をさする。
「そうなの。それでね、明日の商店街の夏祭り、あるでしょう?」
「うん。地元の信用金庫として、僕も明日は夕方から融資先や商店街の挨拶回りで歩くつもりだよ」
「その夏祭りに、そのみかんが初めて屋台を出すらしくてね。美里、なんと明日、そのお店のお手伝いをするんだって。お会計とか、接客をやるらしいの」
健司は驚いたように目を見開いた。
「えっ、小泉さんが?ただの常連客じゃなかったんだね」
「びっくりでしょ?私も最初に聞いたときは耳を疑っちゃった。でも、美里は『いつもお世話になってるし、今回は商店街の会長さんからの強い頼みもあったみたいだから、人手が足りないなら私にできることをしたくて』って」
美里が、誰かのために自ら境界線を越えて、その日常の手助けをしようとしている。それは、以前の美里からは想像もつかないほどの、大きな、そして優しい変化だった。
「美里がそこまで心を寄せるお店がどんな場所なのか、私、ずっと気になってたんだよね。明日は健司くんの挨拶回りにも同行させてもらいながら、そのお店の屋台を絶対に見に行きたいの」
「なるほどね。そういうことなら、喜んでお供するよ。僕としても、そんなに腕の良い、しかも地域の人たちに必要とされているお店なら、ぜひ一度ご挨拶しておきたいな。将来的に何か力になれることがあるかもしれないしね」
健司の、融資マンとしての真面目さと、夫としての優しさが混ざり合った言葉が、楓の心をじんわりと温める。
「ありがとう、健司くん。明日、本当に楽しみだね」
「うん。小泉さんが活き活きと働いている姿を見たら、僕たちも元気をもらえそうだ」
食卓を囲む二人の会話は自然と弾み、夏の夜は穏やかに更けていった。
夕食を終え、食器を二人で仲良く洗い流した後、楓は台所のフックから外したエプロンを、リビングのテーブルの上で丁寧に、シワを伸ばしながら畳んでいった。
アースブルーのリネンは、夜の照明の下でも、変わらず美しい色を保っている。
美里がこのエプロンを選んでくれたとき、きっと私の新しい生活が、こんな風に温かく、穏やかなものであるようにと願ってくれたのだろう。今度は、私が美里の背中を、そっと優しく見守る番だった。
明日のお祭りは、きっと素晴らしいものになる。
窓を開けると、夜風がカーテンをわずかに揺らした。昼間のうだるような熱気はいくらか形を潜め、夜の空気が、楓の火照った肌を優しく撫でていく。
楓は畳み終えたエプロンをそっとキッチンの引き出しへ仕舞い、明日、親友の新しい居場所に出会えるその瞬間に向けて、静かに胸を高鳴らせるのだった。




