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食事処みかん  作者: 蜜柑次郎
三種の冷やし稲荷

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19/46

夏祭り

 土曜日の夕方。美里の住む街の商店街は、すでに歩くのも困難なほどの熱気と人混みに包まれていた。


 楓と健司は、自分たちが暮らす隣駅から一駅分だけ電車に揺られ、この街へとやってきた。駅の改札を出た瞬間から、浴衣姿の熱っぽい高揚感と、どこか懐かしいお祭りの囃子の音が風に乗って鼓膜を震わせる。


「すごい人だね、楓。やっぱりここの夏祭りは規模が大きいな」


 人混みの中で、健司は楓がぶつからないようにさりげなく肩を寄せて歩いてくれる。真面目な健司は、私服姿ではあるものの、胸元には勤務先である信用金庫の小さなバッジをピンと留めていた。これからお祭りの中で融資先やお得意様の店を回り、挨拶を重ねる予定だ。


「本当、毎年来てるけど今年は一段と賑やかかも。…ねえ、健司くん、美里の言っていたお店、どのあたりかしら。奥のほうまで行ったところって言ってたけど」


「確か、駅から商店街のアーケードを通り抜けた先、少し落ち着いた住宅街の手前だったと思うよ。行ってみよう」


 立ち並ぶ屋台からは、ソースの焦げる香ばしい匂いや、綿あめの甘い香りが立ち上っている。アスファルトが放つ昼間の余熱と、行き交う人々の熱気が混じり合い、じっと歩いているだけでも肌に薄い汗が滲んでくるようだった。


 賑やかなアーケードを抜け、少し開けた通りへと出ると、にわかに人の流れが一点に集中している場所があった。


「あ、健司くん、見て。あそこ、賑わってるね!」


 楓が指差した先には、お祭りの他の屋台よりも長い列ができていた。その列の先には、お祭り用に組まれた仮設の屋台があり、そこには見覚えのある鮮やかなオレンジ色の看板、『食事処みかん』の文字が誇らしげに掲げられていた。


「間違いないね。あそこがみかんさんだ。…それにしても、ものすごい人気だな」


 健司も感心したように声を漏らす。二人は顔を見合わせ、自然と歩調を速めて列の最後尾へと並んだ。


 列が進むのを待ちながら、楓は人混みの隙間から屋台の中の様子をじっと窺った。


 白い清潔なテントの下、テキパキと小気味よく動く、見慣れた細身の後ろ姿があった。髪をすっきりと一つにまとめ、動きやすいTシャツに身を包んだ美里だ。


「あ、美里だわ…!」


 楓は思わず声を弾ませた。美里は、押し寄せる客の注文を笑顔で聞き取り、手際よくお会計を済ませては、お釣りや商品を渡している。いつもの保育園で子供たちや保護者に向ける先生の顔とも違う、どこか凛としていて、それでいて心からその場所を楽しんでいるような、瑞々しい笑顔だった。


 健司もまた、懐かしそうに列の先を見つめる。


「本当だ、小泉さんだ。以前、楓と一緒に三人で食事をしたときは、どちらかというと大人しくて奥手な印象だったけれど、あんなに活き活きと接客をしているなんて。なんだか新鮮だね」


「そうでしょう?私もあんな美里、見るの初めてかもしれない…」


 健司は、美里が深い男性不信を抱えていることまでは知らない。彼の中では、美里は、少し男性に対して慎重で、真面目な綺麗な女性という認識だ。だからこそ、健司の目にも、一人の男性が営む店の出店をこれほど精力的に手伝っている美里は、新鮮な驚きとして映っているようだった。


 列が徐々に前へと進むにつれ、屋台の調理スペースの様子が、楓たちの目にはっきりと飛び込んできた。


 美里のすぐ隣。作務衣の袖をきっちりと腕まくりし、黙々と手を動かしている男性がいた。彼こそが、美里の語っていた店主の恵介だ。


 楓は、その男性の調理の手際に、一瞬で目を奪われた。


(…綺麗。なんて無駄のない動きなのかしら)


 恵介たちがこの夏祭りに用意した特別メニューは、三種の冷やし稲荷だ。


 屋台のカウンターには、大きな木製の仕込み箱が置かれており、中にはあらかじめ丁寧に煮含められ、しっかりと冷やされたお稲荷さんのベースが、整然と並んでいる。たっぷりと出汁を含んだお揚げは、琥珀色の艶やかな光を放っていた。その表面には、一滴の余分な汁気も垂れていない。計算された水分量で、お揚げが旨味を抱え込んでいるのが遠目からでも分かった。


 恵介は、客の注文が入るたび、その美しい指先で驚くほど滑らかにお揚げの端を内側へと折り込み、中に美しく詰まった酢飯の断面を上に向ける。そこからの仕上げの作業が、まさに客の目の前で繰り広げられる、最高峰のライブキッチンだった。


 和洋中の三種類の冷やし稲荷。一つ二百円、三個セットならワンコインの五百円という破格の設定だ。


「はい、和、洋、中の三個セットですね。ありがとうございます!」


 美里の明るい声が響くと、恵介の手が魔法のように動き出す。


 まずは和の夏野菜の冷やし稲荷だ。


 端正に整えられたお稲荷さんの上には下味がつけられたオクラの小口切りと、細かく輪切りにされたヤングコーンが、並べられている。オクラの鮮やかな星形と、ヤングコーンの淡い黄色が、まるでお揚げの器の中に咲いた小さな花のようだ。


 そこへ恵介は、冷やし固められた特製の出汁ジュレを小さなスプーンですくい、ぽってりとのせた。クラッシュされたジュレは、夏の西日を浴びて、まるで水晶の結晶のようにキラキラと眩いきらめきを放つ。お揚げの茶色、野菜の緑と黄色、そしてジュレの透明な輝き。その彩りの美しさに、並んでいる客たちからは「わあ、綺麗…!」と、小さなどよめきが上がっていた。


 続いて洋のテリーヌの冷やし稲荷。


 お揚げの中に仕込まれているのは、なんと上品な鶏肉と夏野菜のコンソメテリーヌだった。お稲荷さんにテリーヌという、素人目には想像もつかない組み合わせだが、恵介の手にかかると、それは最初からそこにあるべきだったかのような調和を見せる。


 恵介は、仕上げにどっしりとした木製のペッパーミルを手に取った。手首をキュッ、キュッとリズミカルに、けれど確実なスナップで回す。その瞬間、挽きたての大粒の黒胡椒がお稲荷さんの上へと舞い落ちた。


 その刹那、熱気の立ち込める空気の中に、お揚げの甘い香りと混ざり合うようにして、黒胡椒の華やかでスパイシーな香りが一気に弾け飛んだ。風に乗ってその香りが列のこちら側まで漂ってきて、楓は思わず喉を鳴らした。視覚だけでなく、嗅覚までをも一瞬で虜にする、心憎いほどの演出だった。


 最後は中の冷やし中華風冷やし稲荷だ。


 お揚げの上には、熟練の包丁さばきを感じさせる、極細に切り揃えられた錦糸卵と、みずみずしいキュウリ、そして細切りのクラゲが山型に美しく盛られている。


 恵介は小さなレードルを手に取ると、自家製の白胡麻と黒酢を利かせた、とろりと濃厚な特製胡麻ダレをすくい上げた。そして、流れるような美しい手首の返しで、お稲荷さんの上に細い線を描くようにして、タレを回しかける。


 仕上げに、指先からパラパラと白ゴマを散らした。胡麻ダレのコクのある香りと黒酢の爽やかな酸味が、夏の熱気の中で、強烈に食欲を刺激してくる。


 三つの冷やし稲荷が、ものの十数秒の間に、まるで芸術品のように舟皿へと並べられていく。恵介の所作には、一切の迷いも、雑な音もなかった。すべてが料亭で厳しく仕込まれてきた本物の職人のそれであり、その一挙手一投足が、見る者を深く魅了して離さない。


「お待たせいたしました。和洋中、三種の冷やし稲荷です」


 恵介が、出来上がった舟皿を美里へと手渡す。美里はそれを両手で丁寧に受け取り、客へと手渡しながら、お釣りを計算する。


 二人の間に、言葉はほとんどなかった。けれど、美里が次の客の注文を受け付けるタイミングと、恵介が次のお揚げを手に取るタイミングは、完全に一致している。まさに阿吽の呼吸という言葉がぴったりの、実になじんだ、美しい連携だった。


 楓は、そんな二人をじっと見つめながら、胸の奥が熱くなるのを覚えていた。


 男性の視線から逃げるようにして生きてきた美里が、今、これほどまでに一人の男性を信頼し、そのすぐ隣で、同じ歩調で、心地よさそうに時間を分け合っている。


(美里…本当に、素敵な場所を見つけたのね)


 徐々に自分たちの番が近づいてくる。目を奪われるような調理のライブ感と、屋台の周りに満ち溢れる幸せな香りに包まれながら、楓は親友の輝くような変化を、深い感動とともにその瞳に焼き付けていた。

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