大輪のひまわり
「あ、楓!健司くんも!」
ついに順番が巡ってきたその瞬間、お会計用のタブレットから顔を上げた美里が、パッと大輪のひまわりのような笑顔を弾けさせた。その声の弾み具合に、楓は胸の奥がくすぐったくなるように嬉しくなる。
「美里、お疲れ様!すごい大盛況じゃない。並んでいる間、ずっと二人の手際の良さに見惚れちゃった」
「もう、恥ずかしいからやめてよ。でも、来てくれて本当に嬉しい。ありがとう」
美里は少し照れたように頬を染めながら、すぐ隣で手を動かしている店主に声をかけた。
「早川さん、私のいちばんの親友の楓と、旦那さんの健司くんです」
恵介はトッピングの手を一度止め、作務衣の襟を正して、楓と健司に向かって深く、綺麗な一礼を捧げた。
「はじめまして、早川です。小泉さんにはいつも店を支えていただいて、本当に感謝しています。今日はわざわざお越しいただき、ありがとうございます」
向けられた笑顔は、驚くほど爽やかで、どこまでも誠実だった。物腰は柔らかく洗練されており、その場を包み込むような静かな落ち着きがある。
楓は彼の一言、そして一瞥を受けただけで、美里がこの男性にこれほど深い信頼を寄せている理由を直感的に察した。ここには、美里がこれまで毛嫌いしてきたような、下品な下心や身勝手な甘えの気配が、一ミリたりとも存在しないのだ。
隣の健司も、恵介の立ち振る舞いに襟を正すようにして一礼を返す。
「はじめまして、若林です。小泉さんからお噂はかねがね伺っていました。本当に素晴らしい手際ですね」
そう言いながらも、健司の視線は、屋台の前に貼られた「一個二百円、三個セット五百円」というお品書きの短冊へと注がれていた。電卓を叩くような鋭い光が、一瞬だけ彼の瞳をかすめる。
「では、和洋中、三種の冷やし稲荷セットを二つください」
「はい!セットが二つですね。千円になります」
美里が嬉しそうにタブレットを操作し、健司がスマートにお会計を済ませる。恵介の手によって、出来立ての、光り輝く三色の冷やし稲荷が乗った舟皿が、楓たちの手へと手渡された。
「ありがとうございます。どうぞ、ごゆっくり楽しんでいってください」
恵介と美里に見送られ、楓と健司は少し人混みを離れ、商店街の脇にある小さな公園のベンチへと移動した。大きな木が木陰を作り、いくらか風が通り抜けるその場所で、二人は舟皿を真ん中にして腰を下ろした。
「うわあ…近くで見ると、本当にお祭り屋台のクオリティじゃないわね」
楓は割り箸を割りながら、感嘆の息を漏らした。夕暮れ時の淡い光の中で、三つの冷やし稲荷はそれぞれが主役としての存在感を放っている。
「まずは、和食の夏野菜からいただこうか」
健司に促され、楓は夏野菜の冷やし稲荷を箸でそっと持ち上げ、口に運んだ。ふっくらと炊かれたお揚げは、ずっしりとした重みがあり、出汁を極限まで含んでいる。
口に運んだ瞬間、楓の瞳が大きく見開かれた。
「っ…!美味しい…!」
まず驚いたのは、その清涼感だった。お揚げの上にのった透明な特製出汁ジュレが、口の中の体温でスッと、魔法のように溶けていく。その瞬間、かつおと昆布の濃厚で、上品な旨味が口いっぱいに洪水のように溢れ出した。
そこに、完璧な歯ごたえを残して下茹でされたオクラのシャキシャキとした食感と、ヤングコーンの微かな甘みが小気味よいアクセントとなって弾ける。
お揚げ自体は、驚くほど優しく、まろやかな甘みに煮付けられており、それが夏野菜の瑞々しさを決して邪魔していない。酢飯の酸味も角が立っておらず、すべてが出汁のジュレによって完璧な一つの円として調和していた。
「これは…本当に凄いね」
隣で同じものを口にした健司も、言葉を失っていた。普段、真面目で冷静な彼が、お稲荷さんを噛み締めたまま、じっと目を閉じて味わいに没頭している。
「出汁の引き方が、完全に一流の和食店のそれだよ。冷やすことで、むしろ旨味が凝縮されているのに、塩気は強すぎない。いくらでも食べられそうだ」
「本当ね。じゃあ、次は洋食のテリーヌにいってみましょう」
二人は興奮冷めやらぬまま、真ん中にあるテリーヌの冷やし稲荷へと箸を伸ばした。仕上げに恵介がその場で挽いた大粒の黒胡椒が、お揚げの表面に点々と散らばっている。
口に入れると、先ほどの和食とは全く異なる、重厚で華やかな衝撃が走った。
「…嘘、お稲荷さんとテリーヌが、こんなに合うなんて」
楓は思わず頬を押さえた。中に入っている鶏肉と夏野菜のコンソメテリーヌは、信じられないほど滑らかで、お肉の濃厚な旨味が凝縮されている。それが、出汁の染みた和風のお揚げの甘みと出会った瞬間、まるでお互いを探し求めていたかのような、驚異的なマリアージュを生み出していた。お揚げの醤油と砂糖の甘みが、コンソメの洋風のコクを何倍にも引き立てているのだ。
そして何より、仕上げの黒胡椒が完璧な仕事をしていた。噛むたびにピリッとした鮮烈な刺激が走り、その爽快な辛みと華やかな香りが、テリーヌの濃厚さを上品に引き締めながら、鼻腔を贅沢に抜けていく。お祭りというカジュアルな場で提供されているのが信じられないほど、奥深く、洗練された大人の贅沢な味わいだった。
「これには脱帽だよ」
健司が感嘆の溜息をつく。
「和と洋の融合なんて、口で言うのは簡単だけれど、お揚げの甘みとテリーヌの滑らかさ、そして黒胡椒の量が完璧に計算されている。早川さんという料理人の、底知れない技術の高さが伝わってくるようだ」
「美里が次元が違うって言っていた意味が、本当に分かったわ。…最後は、中華ね」
二人は、期待に胸を膨らませて冷やし中華風冷やし稲荷を口に運んだ。
それは、夏の食欲を極限まで刺激する、立体的で力強い美味しさだった。
ツルンとした喉越しの中華麺に、とろりと絡みつく自家製の特製胡麻ダレ。白胡麻の濃厚なコクと、黒酢特有の、まろやかで芳醇な酸味が、お揚げの甘みと見事に絡み合う。そこに、極細に切り揃えられたキュウリのシャキシャキ感、錦糸卵の優しい甘み、そしてクラゲのコリコリとした独特の歯ごたえが、噛むたびに楽しいリズムとなって口の中で躍動する。
胡麻ダレのクリーミーな濃厚さをお揚げがしっかりと受け止め、黒酢の酸味が後味をさっぱりとさせてくれるため、濃厚なのに次の一口が止まらなくなる。
「美味しい…!食べ終わるのがもったいないくらい」
楓は最後の一口を惜しむように飲み込み、ふぅ、と深い、至福の溜息をついた。夏の暑さで少し疲れれていた身体の細胞ひとつひとつに、極上の旨味がじわじわと染み渡り、エネルギーが満ちていくのが分かった。
時計の針が午後七時半を回る頃、空は深い藍色へと移り変わり、商店街のあちこちに吊るされた提灯に温かい灯りが灯り始めていた。お祭りの熱気は最高潮を迎えつつあったが、夕食時のピークを少し過ぎたのか、食事処みかんの前を埋め尽くしていた行列の波も、少しずつ落ち着きを見せ始めていた。
「健司くん、少し行列が短くなったみたい。お皿を返しがてら、もう一度美里たちに声をかけてみましょう」
「うん、そうだね」
二人は立ち上がり、再び屋台へと向かった。屋台の前へと戻ると、美里は額の汗を実になじんだ手つきで拭いながら、ふぅ、と小さく息を吐いているところだった。
「美里、ごちそうさま!本当に、信じられないくらい美味しかったわ!」
楓が声をかけると、美里は嬉しそうに顔を上げた。
「あ、楓!健司くんも。口に合ってよかった。早川さんの料理、本当に凄いのよ」
自分のことのように誇らしげに胸を張る美里の姿に、厨房の奥から恵介が、優しい、包み込むような眼差しを向けた。
「ありがとうございます。美味しく召し上がっていただけたようで安心しました」
恵介はそう言うと、美里の足元に視線を落とし、それから彼女の顔を真っ直ぐに見つめた。その澄んだ瞳には、細やかな気遣いが宿っている。
「小泉さん、ちょうど行列も落ち着きましたし、ここからは僕一人でも十分回せます。お二人もせっかく来てくださったんですから、少し休憩してください。午後からずっと、立ちっぱなしで頑張ってくれましたから」
「えっ?でも、まだ仕込み箱にお稲荷さん残ってますし、私は大丈夫ですよ?」
美里は慌てて手を振ったが、恵介の口元には、優しくも譲らない、大人の男としての毅然とした微笑みが浮かんでいた。
「普段のお仕事でお疲れなんですから、無理は禁物です。それに、若林さんたちとゆっくりお話もしたいでしょう?冷たいお茶もありますから、皆さんと一緒にあそこで休んできてください」
「早川さん…」
美里は少し恐縮しながらも、その細やかでスマートな優しさに、抗いきれないように嬉しそうに甘えることにした。
「じゃあ…お言葉に甘えて、少しだけ休憩させていただきますね。すみません」
「いってらっしゃい。ゆっくりしてきてくださいね」
恵介の温かい言葉に送られ、美里はハンカチで汗を拭いながら、屋台の外へと一歩を踏み出した。
三人はお祭りの喧騒からほんの少しだけ外れた場所にある、休憩所へと移動した。テントの日陰にはプラスチック製の丸椅子がいくつか並べられており、少しぬるいけれど心地よい夜風が通り抜けている。
並んで丸椅子に腰を下ろしたところで、健司がずっと胸に引っかかっていたような顔をして、一呼吸置いてから美里を振り返った。彼の真面目な眼差しが、美里に向けられる。
「それにしても小泉さん、さっきの冷やし稲荷だけど…。食べてみてその圧倒的なクオリティには心から感動したんだけど、やはりあの手間暇と原価を考えると、三個セットで五百円というのは安すぎないかな?正直、利益がほとんど残らないんじゃないかと、ハラハラして…」
健司らしい、実直で真面目な心配だった。美里はそれを聞くと、クスッと小さく悪戯っぽく笑って、深く頷いた。
「ふふ、やっぱり健司くんもそう思いますよね。私もね、最初の仕込みの段階で『これじゃボランティアですよ、飾り切りまで妥協しないんですから!』って呆れちゃったんです。でもね、早川さん、今回の出店は儲けのためじゃなくて、このお祭りに貢献したいからだって言うんです。普段、平日のランチしか営業できなくて街の人に申し訳ないから、この機会に恩返しがしたいって。一人でも多くの人が、この祭りに来てよかったって思ってもらえればそれでいい、って。…あ、でもね、一応赤字にはならないようにだけは、ちゃんと考えながら材料を調整してます、とも言っていました」
美里はそう言って、誇らしげに目を細めた。数字の損得ではなく、街への感謝と誇りのために腕を振るう恵介の心意気。それを語る美里の言葉には、彼への深い尊敬の念がこれ以上ないほどに滲み出ていた。
「…なるほど。赤字にならない計算のうえでの、そのお心意気ですか。本当に素晴らしい料理人さんですね」
健司が深く感心したように呟いた、まさにその時だった。




