温かい瞳
丸椅子の足元、少し離れた暗がりの方から、パタパタという小さな足音が近づいてきた。キャラクターの顔が描かれた風船を握りしめた男の子が、美里の姿を見つけた瞬間、顔全体に歓喜の光を弾けさせた。
「おねえちゃん!」
「あ、翔太くん!」
美里の顔から、さっきまでの大人の表情が消え、いつもの優しい保育士の笑顔になる。小さな身体でトコトコと駆け寄ってくる翔太を受け止めるために、その場にふわりとしゃがみ込んだ。
翔太は嬉しそうに何度も名前を呼びながら、美里の膝の中へぽんと飛び込み、首に細い腕を回して甘えるように頬を寄せる。
そんな翔太の様子を見て、少し離れた丸椅子に座っていた夫婦が、驚いたように顔を見合わせ、弾かれたように立ち上がった。
「あら…?もしかして、小泉さん?」
品の良いシャツを綺麗に着こなした、洗練された佇まいの女性、千鶴が、目を丸くしながら美里の顔を覗き込んできた。その隣に立つ、恵介によく似た穏やかな目元をした男性、宗一もまた、驚きと喜びが混ざり合った表情を浮かべている。
美里は翔太を抱きすくめたまま、小さく瞬きをして夫婦を見上げた。そして、二人の佇まいや綺麗な所作にハッと気づいたように、少し声を上ずらせる。
「えっ、あ、はい。小泉です。…もしかして、早川さんのご両親、ですか?」
「まあ、やっぱり!ええ、そうなのよ。恵介の母の千鶴です。こっちは父の宗一さん」
「はじめまして、小泉さん。いつも息子と孫が大変お世話になっています」
宗一が物腰柔らかに深く一礼し、千鶴は嬉しそうに何度も頷いた。二人は今回の祭りのためにわざわざ海外から休暇を取って帰国し、翔太の子守りを引き受けているのだ。美里は顔を真っ赤にしながら、丁寧に頭を下げた。
「はじめまして、小泉です。こちらこそ、いつも早川さんの美味しいお料理には元気をいただいていて…。お二方とも、ご挨拶が遅れてしまいすみません」
「いいのよ、いいのよ!恵介からいつも聞いていたの。小泉さんがどれほど熱心に通ってくださっているか。それにね、美里さん…」
千鶴は溢れんばかりの感謝を込めた眼差しで美里を見つめた。
「あの子から聞いていたわ。昨年、翔太くんが保育園で急にお熱を出してしまった時。あなたが我がことのように心配して、お店の留守番やこの子の看病を真っ先に手伝ってくださったって。恵介はね、一人で何でも気負いすぎてしまうところがあったから、あのとき小泉さんが差し伸べてくれた手が、どれほど有り難かったか。本当に感謝しているのよ」
「本当に、ありがとうございます。あの風邪の時以来、翔太くんが家でもよく、おねえちゃん、おねえちゃんって本当に楽しそうに話すようになったみたいでね。今日もこうして小泉さんに会えるのを、この子は誰よりも楽しみにしていたんですよ」
千鶴も宗一も揃って、美里に対する感謝を伝えた。
「そんな…。私は保育士ですから当然のことをしたまでです。早川さんには、いつもそれ以上の元気を料理でもらっていますから…」
美里は恐縮しつつも、その腕の中にいる翔太の頭を、愛おしそうに何度も優しく撫でている。楓は、その光景を静かな感動とともに見つめていた。小さな関わりを重ね、美里と早川家の人々がこれほどまでに温かい信頼と絆を育んできたのだという時間の経過が、胸に染み渡る。
「さてと、宗一さん。私たちはそろそろ、この甘えん坊さんを連れて、あっちのヨーヨー釣りにでも行ってあげましょうか。小泉さんもせっかくの休憩なんだから、お友達とゆっくりお話ししたいでしょうしね」
千鶴が茶目っ気たっぷりにウインクをすると、宗一が笑って翔太をひょいと抱き上げた。
「じじ、ヨーヨー!ください!」
「よしよし、いっぱい釣ろうな。それじゃあ小泉さん、お友達の皆さんも、ゆっくり休んでいってくださいね」
嵐のように賑やかで温かい夫婦は、翔太を真ん中にして、再びお祭りの人混みの中へと楽しそうに消えていった。美里は丸椅子に腰を下ろし、ようやく長い溜息をついた。その顔は、心地よい疲労感と、温かい充足感でいっぱいに満ちている。
健司が自分の麦茶を飲み干し、ふと商店街の方へと視線を向けたとき、人混みの中に、紺色の浴衣を着た見覚えのある男性の姿を見つけた。城南信金の大事なお得意様であり、地元の地主でもある八百屋の店主だ。
「あ…楓、ごめん。あそこにいつもお世話になっているお客さんがいらっしゃるみたいだ。ちょっとお祭りのご挨拶に行ってきてもいいかな?」
「ええ、もちろん!行ってきなよ、健司くん。私はここで美里とゆっくりお喋りして待ってるから」
「ありがとう。小泉さん、少し席を外しますね。ゆっくり休憩してください」
健司は真面目に頭を下げると、人混みの中へ足を運んでいった。
健司の後姿が人混みの向こうへと完全に消えていくのを見送ってから、楓は手に持った麦茶をそっと丸椅子の脇へ置き、隣の美里を振り返った。
提灯のオレンジ色の光が、美里の横顔を柔らかく縁取っている。額にわずかににじんだ汗が、光を受けてきらきらと輝いていた。いつになく充足した、それでいてどこか遠くを見つめるような親友の瞳。それを見つめているうちに、楓の胸の奥には、前夜から抱いていた温かな好奇心がにわかに頭を覗かせた。
「ねえ、美里」
風の音に紛れるような、静かな声で話しかける。美里は「ん?」と小さく首を傾げて、弾むような笑顔を楓に向けた。
「実際のところ、あの店主の早川さんとはどうなの?」
「えっ?」
美里の動きが、まるで見えない糸で縛られたかのようにぴたりと止まった。
次の瞬間、彼女の白い頬が、お祭りの金魚すくいの袋の底で揺れる金魚の朱色のように、みるみるうちに真っ赤に染まっていく。美里は慌てて両手を振り、普段の落ち着いた保育士の顔を完全に忘れたように、声を上ずらせた。
「な、何言ってるの、楓!なんにもないよ、本当に、なんにもないから!」
「本当に?でも、あんなに息の合った様子で楽しそうに働いて、ご両親ともあんなに自然に仲良くなって。翔太くんに至っては、もう完全に美里にベタ惚れじゃない」
「それは、私が保育士だからだよ。子どもと接するのが仕事だし、翔太くんはただ、あの風邪の時に遊んでくれたお姉さん、ってきっかけで懐いてくれているだけで…。それに、早川さんはシングルファザーで、奥様との夢だったあのお店を、一人で必死に守ろうとしている人なの。私はただ、その一生懸命な佇まいとか、作られるお料理の優しさに救われたから、一人のファンとして、このお店と料理の力になりたいって思ってるだけ。下心とか、そういうのは本当に、絶対にないの!」
一気に捲し立てるような美里の言葉は、まるで自分自身に言い聞かせ、分厚い防壁を必死に築こうとしているようだった。
男性から向けられる身勝手な好意に傷つき、いつしか自分から誰かを特別に想うことを諦めてしまった美里。彼女にとって、恵介はかけがえのない存在なのだろう。
だからこそ、その聖域のような関係に、自分から不純な感情を持ち込んで壊したくない。そんな頑なな自制心が、彼女の言葉の端々から痛いほど伝わってきた。
(…そっか。美里のなかでは、まだそういうことになってるのね)
楓は「そっかそっか、意地悪言ってごめんね」と優しく微笑み、それ以上は深く追及せずに言葉を流した。
けれど、三歳の頃から彼女の喜怒哀楽をすべて隣で見てきた楓の目は、誤魔化せなかった。
早川さんの心意気を語るときの、誇らしげに潤んだ瞳。彼のスマートな気遣いを受け入れたときの、少し引き締まった、けれどどこか甘えたように綻んだ唇の端。そして今、必死に何もないと否定しながらも、熱を持ったまま隠しきれないその頬の色。
それは、紛れもなく、恋をしている女の子の顔だ。本人がどれほど下心ではない、ただの尊敬だと理屈で蓋をしようとしても、胸の奥から溢れ出てしまう、世界でいちばん瑞々しい感情の色。
楓はあえてそれを口には出さず、ただ胸の中で、愛おしさを込めてそっと見守ることに決めた。美里が自分でその心の鍵を開けるその日まで、親友としての優しい距離を保ち続けよう、と。
「あ、健司くん、戻ってきたよ」
人混みの向こうから、挨拶を終えた健司が、いつも通りの生真面目な足取りでこちらへと歩いてくるのが見えた。
「お待たせしました。皆さん、みかんさんの冷やし稲荷を絶賛されていましたよ。…小泉さん、そろそろ早川さんのところへ戻らなくて大丈夫ですか?遠目に見ても、用意されていた仕込み箱がかなり軽くなっているようでしたから」
「えっ、本当ですか!?」
美里はハッと時計を見つめ、それから丸椅子から勢いよく立ち上がった。
「大変、もう休憩終わりにしなきゃ。楓、健司くん、本当に来てくれてありがとう!私、戻るね!」
「うん、あと少し頑張ってね、美里!熱中症には気をつけるのよ」
「ありがとう!お二人も、お祭りを最後まで楽しんでいってね!」
美里はそう言い残すと、夏の夜の熱気の中へと、迷いのない足取りで力強く駆け戻っていった。その背中は、以前の新宿の夜に見た、どこか頼りなげで寂しげなものとは、まるで違っていた。
夜の八時を回る頃、商店街の夏祭りは最高潮の盛り上がりを迎えていた。
楓と健司は、人混みに揺られながら、もう一度食事処みかんの屋台の見える場所へと足を運んだ。提灯の光に照らされたテントの下で、美里が「ありがとうございました!」と晴れやかな声を響かせ、最後のお客さんへと深く一礼していた。
恵介が仕込み箱の蓋をそっと閉じる。見事に、用意された数百個の冷やし稲荷が、すべて完売した瞬間だった。
「終わったみたいだね、楓」
「ええ、本当。凄いわね…」
屋台の周りには、片付けを手伝うためにヨーヨー釣りから戻ってきた宗一と千鶴、そして千鶴の腕の中で満足そうにうとうとしている翔太の姿があった。さらに、商店街の会長である武彦や、他の出店の店主たちも集まってきて、恵介の初めての健闘を称えて肩を叩き合っている。
恵介は一度、ぎゅっと唇を噛み締め、それから溢れんばかりの感謝を込めて、美里へ、そして集まってくれた街の仲間たちや厨房の奥に向かって、深く、深く頭を下げていた。
「みなさん、本当に、ありがとうございました」
拡声器を通さなくても、彼の芯のある、誠実な声が、夏の夜の空気に美しく響き渡るのが、遠目からでもはっきりと分かった。その輪のなかに、美里もまた、一人の大切な仲間として、確かな居場所を持って笑っている。
ドーン、と地響きのような大きな音が、突如として夜の街に鳴り響いた。
遥か遠くの夜空に、鮮やかな大輪の光の花が咲き誇る。夏祭りのフィナーレを飾る、打ち上げ花火が始まったのだ。
赤、青、金、緑。次々と夜空を染め上げるきらびやかな光が、お祭りに集まった人々の顔を五色に照らし出す。行き交う人々が足を止め、歓声を上げながら夜空を見上げる。
「綺麗だね、楓」
「本当に、綺麗」
楓は、隣を歩く健司の手を、そっと握りしめた。健司は一瞬だけ楓を見て、それから嬉しそうに、その温かい大きな手で楓の手をぎゅっと握り返してくれた。
心地よい疲労感と、火照った肌を撫でる夜風を感じながら、二人は駅へと向かってゆっくりと帰路についた。家路を急ぐ人々の波に乗りながら、喧騒を抜け、隣駅へと向かう静かな夜道を歩いていく。
楓はふと、今日の美里の様子や、あの休憩所での慌てた顔を思い出し、胸の奥から込み上げてくる愛おしさに、小さく口元を綻ばせた。
「…なんにもない、って言っていたけれど」
ぽつりと、口の中で呟く。
「ん?何か言った、楓?」
健司が不思議そうに覗き込んできたので、楓は「ううん、なんでもないの」と笑って首を振った。
なんにもない、なんて、そんなわけがない。
あの、早川さんの細やかな優しさに触れたときのはにかんだ表情。ご両親から感謝の言葉を贈られたときの、泣き出しそうなほど温かい瞳。そして、翔太くんを我が子のように愛おしそうに抱きしめていた、あの柔らかい腕のなじみ方。
あれは、絶対に恋をしてる顔だよなぁ、と、楓は確信して、しみじみとした喜びを噛み締めていた。
美里がこれほどまでに誰かの日常に深く溶け込み、誰かの存在そのものを愛おしそうに見つめているところを、楓は一度も見たことがなかった。
男性を信じられず、自分は独りで生きていくのだと、心を冷たいシャッターで閉ざそうとしていた親友。そんな彼女が、時間をかけて、あの誠実な料理人と、愛らしい男の子と出会い、そしてその温かい家族の輪のなかで、自覚のないままに新しい幸せの形へと一歩を踏み出している。
美里が贈ってくれたあのアースブルーのエプロンに込められた優しさが、今度は巡り巡って、美里自身の未来を優しく照らし始めようとしているのだ。
「健司くん、少し急ぎましょ。明日も早いものね」
「うん、そうだね。冷たい麦茶、まだ冷蔵庫に残っていたかな」
「ええ、冷やし鉢の残りもあるから、お家に帰ったらまた少し食べましょう」
他愛のない会話を交わしながら、楓は健司の手を、さっきよりもほんの少しだけ強く握りしめた。




