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食事処みかん  作者: 蜜柑次郎
秋茄子の回鍋肉

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22/46

ほうじ茶

 あれほど街を容赦なく焼き尽くしていた夏の熱気が、まるで嘘のように、ある朝を境にしてふっと引き下がっていった。


 十月も半ばを過ぎると、朝晩の風は明確な冷たさを帯びるようになる。街路樹のイチョウやサクラの葉は、鮮やかな黄色や深い赤へとその装いを変え、風が吹くたびにカサカサと乾いた音を立てて歩道へと舞い降りていた。


 小泉美里は、首元に薄手のストールを緩く巻き、少し肩をすくめるようにして歩いていた。今日は平日のシフト休み。保育園での勤務から解放されたこの日は、彼女にとって一週間の中で最も心が凪ぐ時間だった。


 保育園では、子どもたちが小さな手いっぱいにどんぐりや色とりどりの落ち葉を拾っては、「せんせー、みて!」と無邪気な笑顔を向けてくれる。子どもたちの可愛らしさには毎日癒やされているが、それでも、一人の大人の女性として頭を空っぽにできる時間はどうしても必要だった。


 駅前で買い物を済ませ、賑やかな通りから外れ、人通りの落ち着いた住宅街へと足を進める。目指す場所が近づくにつれて、美里の足取りは自然とほんの少しだけ早くなった。


 角を曲がると、築年数の経った古い建物の軒先で、鮮やかなオレンジ色の暖簾が秋の澄んだ風を受けて誇らしげに揺れているのが見えた。この一年半の間、美里の止まっていた心を少しずつ、けれど確実に溶かし続けてくれた大切な場所だった。


 美里は暖簾の手前で一度足を止め、小さく息を整えた。かつて自分を苦しめていた、男性に対する強い警戒心や不信感は、この店の前に来るときだけは不思議なほど影を潜める。


 ガラガラ、と引き戸を開けると、店内に満ちていた温かい空気と、食欲を激しくそそる香ばしい匂いが美里を優しく包み込んだ。


「いらっしゃいませ。あ、小泉さん。こんにちは」


 カウンターの向こう側で、いつもと変わらない清潔な作務衣に身を包んだ店主の恵介が、物腰の柔らかい微笑みを浮かべて深く一礼した。その洗練された佇まいと、相手の領域に決して踏み込みすぎない絶妙な距離感は、相変わらず美里に深い安心感を与えてくれる。


「こんにちは。今日は遅い時間になっちゃいました。まだ大丈夫ですか?」


「ええ、もちろん。どうぞ、お好きな席へ」


 ピークタイムを過ぎた店内では、数人の常連客が静かに箸を動かしているだけだった。美里はいつものように、厨房の様子が一番よく見えるカウンターの端の席へと腰を下ろした。


 恵介が手際よく冷たいお水を出してくれる。美里はそのお礼を言いながら、厨房の脇に掲げられた黒板のメニューへと視線を向けた。この店のランチは、和食、洋食、中華の三種類の定食が日替わりで提供される。どれを選んでも間違いなく美味しいのだが、今日の美里の目は、一番下に書かれた文字に釘付けになった。


【和定食】秋鮭ときのこと銀杏のホイル焼き

【洋定食】さつまいものグラタン

【中定食】秋茄子の回鍋肉


(回鍋肉…しかも、秋茄子)


 恵介の中華料理は、一般的な定食屋のそれとは一線を画す、驚くほど繊細で奥深い味わいを持っていることを美里は知っていた。


「今日は、中定食をお願いします」


「はい、中定食ですね。ありがとうございます。すぐに作りますね」


 恵介はそう言って、すぐに調理に取りかかった。


 美里は、顎を軽く手に乗せながら、恵介の無駄のない動きをじっと見つめていた。中華鍋を火にかけ、油を馴染ませる手つき。パチパチと食材が爆ぜる軽快な音が狭い店内に響き渡り、続いて醤が熱せられる際特有の、甘辛く芳醇な香りが一気に店内に広がっていく。その香りを嗅いだだけで、美里の胃袋がぎゅっと切なく鳴った。


 やがて、カウンター越しに美里の目の前へと運ばれてきた秋の中定食は、思わずため息が出るほど美しさだった。


 メインの回鍋肉は、大ぶりの秋茄子が主役として鎮座していた。油をたっぷりと吸って、まるで紫色の宝石のようにツヤツヤと輝いている。そこに、柔らかそうな豚バラ肉、鮮やかな緑色のピーマン、そしてシャキシャキ感を残したキャベツが、濃厚な甜面醤のタレをたっぷりとまとって絡み合っていた。


 脇を固める副菜は、蓮根の甘酢和え。透き通るような白さに、細かく刻まれた大葉が散らされている。スープは、たっぷりのきのこと、ふわふわの溶き卵が浮かぶ中華スープだ。そして、器にこんもりと盛られた炊きたての白いご飯。


「いただきます」


 美里は小さく手を合わせ、まずは主役である秋茄子に箸を伸ばした。


 口に含んだ瞬間、美里は驚いて目を丸くした。歯を立てる必要がないほどにとろりと柔らかく仕上がった茄子から、茄子自身の甘みと、閉じ込められていたジューシーな水分、そして豚肉の旨味がじゅわりと溢れ出してきたのだ。


(美味しい…っ!)


 プロの確かな技で炒められた甜面醤のタレは、ただ甘辛いだけでなく、深いコクと、ほんの少しのピリッとした辛みが絶妙なバランスで成り立っている。茄子がその濃厚なタレをこれでもかと吸い上げており、噛むたびに幸福感が口いっぱいに広がっていく。


 すかさず白いご飯を口に追いかける。つやつやとした新米の甘みが、回鍋肉の濃厚な味付けを完璧に受け止め、最高のハーモニーを奏でた。箸を動かす手が止まらなくなる。


 続いて、キャベツとピーマン、豚肉を一緒に口へと運ぶ。キャベツはしっかりと火が通っているのに、驚くほどシャキシャキとした小気味よい食感が残っており、噛むたびに野菜本来の甘みが弾ける。豚バラ肉のカリッとした香ばしさと脂の旨味が、全体の満足感をさらに引き上げていた。


 少し口の中が濃厚になったところで、蓮根の甘酢和えに箸を伸ばす。


 シャキッと響く蓮根の涼やかな食感とともに、爽やかな酸味が口の中をさっぱりと洗い流してくれた。清涼感のある香りが鼻に抜け、またすぐに回鍋肉へと向かう準備が整う。


 さらにスープを一口すする。きのこと卵の中華スープは、鶏ガラの優しい出汁をベースに、ほんのりとごま油の香りが漂う丁寧な仕上がりだ。とろみのついたスープの中に、椎茸やしめじの旨味がしっかりと溶け込んでおり、冷えた身体の芯からじんわりと温まっていくのが分かった。


 無我夢中で食事を進めながら、美里の胸の奥には、美味しさとはまた別の、切ないような、もどかしいような感情が静かに湧き上がっていた。


 器を空にしていく心地よいリズムの中で、ふと、あの熱い夏の夜の光景が脳裏に鮮やかに蘇る。


 商店街の夏祭り。みかんの屋台を精一杯手伝い、熱気の残る夜風に吹かれながら、親友の楓と二人で休んでいたときのことだ。楓は美里の顔をじっと見つめ、悪戯っぽく、けれどどこか心配そうにこう尋ねてきたのだ。


『美里、早川さんのこと、どう思ってるの?』


 あの時は、動揺してしまい、しどろもどろに答えてしまった。その問いは秋になった今でも、美里の心の中に小さな棘のように残り続けている。


 学生の頃から、男性たちから向けられる理不尽な好意や打算的な言葉に深く傷つき、美里は、男性に対する期待は捨てよう、他者と深く関わる恋愛や結婚の世界とは距離を置いて生きようと心に決めていた。傷つかないための自衛の壁。それを頑なに守ってきたはずだった。


 それなのに、なぜこの店の暖簾をくぐるとき、自分の心はこんなにも弾むのだろう。


 なぜ、カウンターの向こうで真摯に料理と向き合う恵介の後ろ姿を、こんなにも愛おしい目で追ってしまうのだろう。


 そして、彼の幼い息子、翔太くんが小さな手で美里の服を掴み、おねえちゃんと呼んでくれるあの声が、どうしてこれほどまでに胸を締め付けるのだろう。


 それは、かつての自分が恐れていたような、男の身勝手さや打算とは全く無縁の、あまりにも誠実で、温かい世界だった。恵介という人は、どこまでも優しく、そして一本の芯が通った、尊敬できる大人の男性だ。


(だけど…ダメだよね)


 美里は、蓮根を噛み締めながら、心の中で自分にそう言い聞かせた。


 恵介には、若くしてこの世を去った、かけがえのない妻・すみれがいる。彼が今でも奥さんのことを深く愛し、その面影を大切にしながら、男手一つで翔太くんを育てていることは、これまでの会話や彼の端々に見える所作から痛いほど伝わってきた。


 自分はあくまで、この店の料理を愛する常連客の一人に過ぎない。そして、翔太が通うのとは別の保育園で働く、ただの保育士だ。


 これ以上、彼らの特別な領域に踏み込んでいいわけがない。この温かい日常を壊したくないという臆病さと、亡くなったすみれへの敬意、そして自分自身の割り切れない感情が混ざり合い、美里の心は秋の冷たい風に吹かれる落ち葉のように、ただ静かに揺れ動いていた。


「小泉さん、お味はいかがですか?」


 不意にかけられた優しい声に、美里はハッとして顔を上げた。いつの間にか他のお客は全員退店しており、店内には美里と恵介の二人だけになっていた。恵介は、空になった回鍋肉のお皿を見て、嬉しそうに目を細めている。


「あ、すみません、ちょっと考え事をしていて…。すっごく、美味しかったです!茄子が信じられないくらいトロトロで、タレの味がご飯にぴったりで、あっという間に食べちゃいました」


「それは良かったです。秋の茄子は皮が柔らかくて、油との相性が抜群に良いんです。醤の火入れも少し工夫してみたので、そう言っていただけると安心しました」


 恵介はそう言ってはにかむように笑うと、丁寧に淹れた温かいほうじ茶の湯呑みを美里の前に置いてくれた。


「最近冷えてきましたからね。どうぞ、ゆっくりしていってください」


「ありがとうございます」


 温かいほうじ茶を両手で包み込み、一口すする。香ばしい香りが胸いっぱいに広がり、張り詰めていた心の強張りが、ふっと解けていくような気がした。


 自分の感情に、まだ名前をつけることはできない。青春時代に経験するような激しい熱でもなければ、ただの同情でもない。けれど、この温かいお茶のぬくもりのように、彼らの傍にいると、自分の心がじんわりと満たされていくことだけは確かだった。


 美里は湯呑みを見つめながら、静かに息を吐いた。自分の気持ちを大きく動かすことはせず、ただ、この愛おしい日常の一コマを、今は大切に守っていこう。そう自分を律しながら、美里は温かいほうじ茶をもう一口、ゆっくりと喉に流し込んだ。


 ほうじ茶が喉を通り抜ける香ばしいぬくもりを感じながら、美里の意識は数ヶ月前のうららかな春の日へとゆっくりと遡っていった。


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