ブレーキ
それは四月も終わりに近づき、街を吹き抜ける風にほんのりと初夏の瑞々しい匂いが混じり始めた頃のことだった。
あの日、美里は開店直後のまだ早い時間にみかんを訪れていた。店内にはまだ他にお客の姿はなく、美里はカウンターの最も奥の席に座って、のんびりと遅めの朝食を兼ねた昼食をとっていた。厨房では恵介が静かに根菜の皮を剥いており、シャッ、シャッという規則正しい音が店内に心地よく響いていた。
ガラガラ、と引き戸が開いたのは、そんな時だった。
「やあ、恵介くん。今日は早くにお邪魔するね」
入ってきたのは、商店街の会長である武彦だった。
実はその一週間ほど前、武彦が恵介に「七月の終わりに開催される商店街の夏祭りに、みかんの出店を出してほしい」と熱心に打診していたのだそうだ。
男手一つで翔太を育てる恵介にとって、土曜日開催の祭りに丸一日拘束されることは、あまりにも高いハードルだ。その間の翔太の預け先をどうするか。恵介は一週間前、複雑な葛藤を瞳ににじませながら「少しの間、考えさせてください」と言葉を濁していたのだという。
武彦がカウンターに腰を下ろすより早く、恵介は一度手元の作業を区切り、調理台を綺麗に拭き上げてからその前に立った。その澄んだ瞳には、一週間前のような躊躇いや迷いの影は見当たらず、どこか決意を秘めたような光が宿っていた。
「会長さん。先日の、夏祭りの出店のお話なんですけれど、ぜひ、出店させていただきたく思います。よろしくお願いします」
恵介は少し照れくさそうに、けれど真っ直ぐに武彦の目を見つめて微笑んだ。
その言葉を聞いた瞬間、武彦が「おお!」と歓声を上げたのを、美里はすぐ傍の特等席で驚きとともに見つめていた。武彦が嬉しそうに理由を尋ねると、恵介ははにかむように頷き、海外で暮らす実の両親に相談したのだと明かした。
店を始めて以来、ずっと遠くから心配してくれていた両親が、街の大きなイベントに声をかけてもらったことをまるで自分のことのように喜び、土曜日は私たちが面倒を見るから、しっかりやってきなさい、と背中を押してくれたのだという。
「よし、それなら話は早い。実はね、来週の水曜日に、商店街の居酒屋で夏祭りの顔合わせ兼飲み会があるんだよ」
武彦は嬉しそうにお冷を飲み干しながら手帳を取り出し、出店を出す連中が集まる気楽な席だからと、恵介を誘った。
恵介は新参者の自分がと少し気後れする表情を浮かべたものの、武彦の、みんな、恵介くんが来るのを心待ちにしているんだからという温かい言葉に背中を押され、ぜひ参加させてくださいと深く一礼して承諾した。武彦は本当に嬉しそうな顔をして、そのまま機嫌よく店を去っていった。
美里はカウンターの奥で、その一部始終を微笑ましく見守りながら、恵介が街の人々に受け入れられていく様子に、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じていた。
そして、お祭りの手伝いが決まったのは、それからさらに時が経った、五月の初めのことだった。
その日も食事を終え、静かになった店内でほうじ茶をすすっていた美里は、ふと思い出してカウンターの向こうの恵介に声をかけた。
「そういえば早川さん、お祭りの食事、メニューとかは、もう決めてるんですか?」
恵介は手を止め、困ったように眉尻を下げて微笑んだ。
「それが、まだなんにも決まっていないんです。お店の定食をそのまま出すわけにもいかないですし、お祭りの屋台にふさわしくて、食べ歩きがしやすいもの…となると、なかなか難しくて」
「みかんらしいお祭りメニュー、ですか。うーん、何がいいでしょうね」
そこから、二人の間で和気あいあいとしたアイデア出しが始まった。
「やっぱり定番の唐揚げとか、おにぎりでしょうか」
「早川さんの唐揚げなら、冷めても絶対に美味しいですよ!和風の醤油麹唐揚げとか、洋風のハーブフライドチキン、中華の油淋鶏風とか、三種類あったら面白いかも」
「なるほど、うちの和洋中のコンセプトを屋台でも出すわけですね。ワンコインで手軽に買えるサイズにして、いくつか組み合わせられたら楽しそうです」
「あ、それ素敵ですね!子どもたちのお小遣いでも買えるくらいの価格だったら、保育園の子たちもきっと喜びます」
恵介は美里の意見を熱心にメモしながら、「それはいいアイデアですね」と料理人らしい楽しそうな笑顔を浮かべていた。美里も大好きなみかんの料理についてあれこれと想像を膨らませ、会話は大いに盛り上がった。
しかし、いくつかの魅力的なメニュー案が出揃ったところで、美里はふと、ある重大な事実に思い至り、ぴたりと声を止めた。
手元のメモを愛おしそうに見つめている恵介の横顔をじっと見つめ、美里は少し表情を引き締めて尋ねた。
「…あの、早川さん。これ、もしかして当日一人でやろうとしていませんか?」
恵介はペンを持ったまま、不思議そうに瞬きをした。
「ええ、そのつもりですが…。何か問題があるでしょうか?」
「大ありですよ!」
美里は思わず身を乗り出した。
「当日、翔太くんの面倒はご両親に見てもらえるとしても、ですよ?朝からの仕込み、機材の搬入、それに本番の調理に呼び込み、会計まで、お祭りのあの混雑の中で全部一人で回すつもりなんですか?」
「まあ…屋台自体はそんなに大きくないですし、メニューを絞り込んで事前に準備をしておけば、一人でもなんとかなるかと」
恵介は、いつも通りどこかのんびりとした、けれど生真面目にすべてを一人で抱え込もうとする口調で、事もなげに言った。他人に迷惑をかけたくないという彼らしい頑なさが、その言葉の裏に見え隠れしている。
美里は呆れたように小さく息を吐き、それから真剣な眼差しで恵介を見つめた。
「早川さん、自分の腕前とお客さんの数を甘く見すぎです。さっき話したメニューを早川さんが作って屋台に出すんですよ?ひと口食べた人が美味しいって騒ぎ出して、口コミであっという間に行列ができちゃいます。絶対に、商店街のどこのお店よりも大繁盛します!」
「はは、それはいくらなんでも買い被りすぎですよ、小泉さん」
「買い被りじゃありません!断言しますけど、一人で調理しながらお釣りを渡して、呼び込みまでやるなんて絶対に無謀です。そんなことしたら、早川さんが途中で倒れちゃいます」
美里は一呼吸置き、トクトクと速くなる鼓動を感じながら、真っ直ぐに提案した。
「私、その夏祭りの土曜日、休みます。だから、私に、会計や呼び込みをお手伝いさせてくれませんか?」
恵介は驚いたように目を見張った。
「そんな、小泉さんにそこまで甘えるわけにはいきません。いつもお店に来ていただいているだけで有り難いのに、貴重な休日を僕の手伝いで潰してしまうなんて、申し訳なさすぎます」
案の定、すぐに遠慮の言葉が返ってくる。けれど、美里は引き下がらなかった。
「早川さん、お父さんが無理をして倒れたら、翔太くんが一番悲しみます。それに、大好きなみかんの料理をたくさんの人に食べてもらえる晴れ舞台を、私も一緒に応援したいんです。水臭いことは言わずに、手伝わせてください」
美里の濁りのない、真っ直ぐな熱意がカウンターを挟んで恵介の胸へと届く。恵介はしばらくの間、美里の瞳をじっと見つめていたが、やがて何かを堪えるように視線を落とした。
自分のために、そこまで真剣に怒り、手を差し伸べようとしてくれる人がいる。その事実が、彼の頑なな強がりを優しくほどいていくようだった。
恵介はゆっくりと顔を上げると、溢れんばかりの感謝を瞳に湛え、深く頭を下げた。
「…ありがとうございます、小泉さん。そこまで言ってくださるなら、お言葉に甘えさせてください。実は、一人でどう回すか、内心不安だったんです。本当に、助かります」
頭を上げた彼の顔には、それまでの緊張が嘘のように消え去り、心からの安堵と信頼の笑みが浮かんでいた。その温かい笑顔を見たとき、美里の胸には、言葉にできないほどの深い充実感が広がったのだった。
「あの時は、本当にお世話になりました」
カウンターの向こうからかけられた静かな声に、美里はハッとして回想から現在へと引き戻された。
気がつけば、手の中の湯呑みからは湯気が消えかけていた。恵介は美里の空になったお皿を片付けながら、しみじみとした表情で微笑んでいる。
「小泉さんが隣でずっと笑顔で呼び込みをして、手際よく会計をこなしてくださったからこそ、なんとかなりました。僕の両親も、小泉さんのことをすごく褒めていましたよ。聡明で、太陽のように温かいお嬢さんだ。恵介は良い常連さんに恵まれたねって、話すたびに言っているんです」
「そんな…お義父さんもお義母さんも、大袈裟ですよ。私はただ、早川さんの美味しいお料理をみんなに知ってほしかっただけですから」
美里は急に顔が熱くなるのを感じて、照れくささを隠すように、新しく淹れ直してもらったほうじ茶を口に含んだ。ご両親の言葉が、そして恵介の口から、僕の両親という言葉が自然に出たことが、なんだか二人の距離が少しだけ縮まった証拠のような気がして、気恥ずかしくも嬉しかった。
けれど、温かいお茶を飲み下すとともに、美里はそっと胸の内で自制のブレーキを踏み込んだ。
嬉しかった。本当にお祭りのあの時間は、まるで自分も小さな家族の輪に入り込めたかのような、夢のように温かい時間だった。
だからこそ、これ以上を望んではいけない、と自分に言い聞かせる。
恵介には、若くして病で先立った、かけがえのない妻・すみれがいる。お祭りの成功を誰よりも近くで喜び、そして誰よりも恵介の隣で支えたかったはずの人は、自分ではなく、写真の中で優しく微笑んでいるすみれなのだ。自分はどこまでいっても、この店の料理を愛する一人の客であり、翔太の遊び相手に過ぎない。
男性不信という暗い殻に閉じこもっていた自分を、この店と、この優しい親子が救ってくれたのは事実だ。けれど、その感謝の気持ちが、いつの間にか、もっと近くにいたいという淡い期待に変わってしまっていることに、美里は気づいていた。
それが亡くなった奥さんに対して不誠実なような気がして、そして、この壊したくないほどに優しい関係を失ってしまうのが怖くて、美里はそれ以上、心の奥に踏み込むことができなかった。
秋の冷たい風が、店の引き戸を小さくガタガタと揺らす。
美里は、自分の胸の真ん中で揺れ動く割り切れない感情を、ほうじ茶と一緒に静かに飲み込んだ。今はただ、この心地よい距離感を大切にしよう。そう自分を律しながら、美里は遠く色づく街路樹を窓越しに見つめ、温かい湯呑みを愛おしそうに両手で包み込んでいた。




