自宅
十月も終わりが近づくと、秋の深まりは一層その速度を増していった。
雲一つない高い青空から降り注ぐ陽光は、きらきらと眩しいほどに澄んでいる。けれど、通り抜ける風は確実に冷たさを増し、肌を優しくかすめるたびに身震いを誘う。街路樹の葉はすっかり鮮やかな赤や黄色の衣をまとい、役目を終えた落ち葉が歩道に敷き詰められて、一歩進むごとにサクサクと心地よい乾いた音を奏でていた。
日曜日の午前中。美里は、お気に入りのアイボリーのニットにキャメルのロングスカートを合わせ、首元にチェック柄のストールを巻いて、近所の住宅街をあてもなく歩いていた。
平日は、子どもたちと一緒に秋の自然を探す毎日だが、こうして休日に一人で静かに季節の移り変わりを感じる時間も、彼女にとっては大切な心の保養だった。
歩きながら、頭の片隅には数日前にみかんで食べた秋茄子の回鍋肉の味が、そしてその時に胸の奥でぐるぐると渦巻いていた割り切れない葛藤が、まだかすかに残っていた。
恵介へのほのかな憧れと、彼の幼い息子である翔太への愛おしさ。それらが膨らめば膨らむほど、亡くなった奥さんへの敬意と、自分自身の、これ以上踏み込んではいけないという自制心が、美里の心に冷たい歯止めをかける。
この関係を自分の身勝手な感情で壊したくない。そんな臆病な想いが、ぐるぐると胸の中に渦巻く。
(…あ、あそこ、綺麗だな)
ふと視線を上げると、少し開けた場所にある大きな公園の入り口が見えた。クヌギやサクラ、イチョウの大木が並ぶその公園は、いまや見事な紅葉に彩られ、まるで絵画のような美しさを放っている。美里は誘われるように、カサカサと音を立てる落ち葉を踏みしめながら、公園の敷地内へと足を踏み入れた。
休日の公園は、穏やかな活気に満ちていた。ベンチで読書をするお年寄りや、犬の散歩をする人、そして元気に走り回る子どもたちの声が、高い空へと溶けていく。
美里は大きなクヌギの木の木陰に差し掛かったところで、ふと、前方の視界に入ってきた小さな人影に目を留めた。
色鮮やかなブルーのウインドブレーカーを着た、小さな男の子だ。
男の子は、地面にしゃがみ込み、小さな手で一生懸命に何かを拾い集めている。そのすぐ傍らには、落ち着いたグレーのカーディガンを羽織り、優しい眼差しで男の子を見守っている、背筋のすっと伸びた男性の姿があった。
(あ…)
美里の心臓が、トクン、と小さな音を立てた。
見間違うはずがなかった。カウンターの向こうで見せる凛とした作務衣姿とは違い、どこか柔らかい私服をまとっているけれど、あの端正な横顔と洗練された佇まいは、間違いなく恵介だった。そして、その足元で夢中になって地面をいじっているのは、息子の翔太だ。
声をかけるべきか、それとも邪魔をしないようにこのままそっと立ち去るべきか。
美里の胸の中で、いつもの自制心が瞬時に働いた。休日は、彼ら親子にとって何よりも大切な、二人きりの時間のはずだ。そこに自分が割り込んでいくのは、やはり迷惑ではないだろうか。
そう思って、美里が一歩後ろへ足を引きかけた、その時だった。
「あ!」
地面から顔を上げた翔太が、偶然にも美里の方へと視線を向けた。
その丸い瞳が、驚いたように一瞬だけ大きく見開かれる。次の瞬間、翔太くんの小さな顔が、まるでひまわりが咲いたかのように、くしゃくしゃの、まばゆいばかりの笑顔に変わった。
「おねえちゃん!!」
公園の澄んだ空気を震わせるような、元気いっぱいの大声だった。
翔太は、両手に握りしめていた何かを自分のウインドブレーカーのポケットに押し込むと、タタタッと小さな靴音を響かせながら、一直線に美里の方へと駆け寄ってきた。
「おねえちゃん!おねえちゃん!」
「わあ、翔太くん!」
美里は慌ててその場にしゃがみ込み、両手を広げた。翔太は勢いよく美里の胸へと飛び込んできた。小さな体から、秋の風の冷たさと、それ以上にぽかぽかとした子ども特有の温かい体温が伝わってくる。
「翔太くん、こんにちは。元気だった?」
「うん!げんき!」
翔太くんは美里の顔を見上げて嬉しそうに何度も頷くと、すぐに美里の手を、自分の小さな両手でぎゅっと力強く握りしめた。驚くほど温かくて、けれど意外なほどしっかりとした力強さで、美里の指を引っ張る。
「おねえちゃん、こっち!こっちきて!」
「えっ、あ、翔太くん…?」
「どんぐり!おっきいどんぐり、いっぱいあるの!いっしょにやろ!おねえちゃん、いっしょに!」
翔太は、早く美里に見せたくて堪らないといった様子で、ぐいぐいと美里の手を引いていく。その無邪気で真っ直ぐな積極性に、美里の胸の奥にあった強張りが、一瞬にしてふっと溶けていくようだった。
手を引きずられるようにして立ち上がると、その先では、恵介が驚いたような表情のまま、けれどすぐにいつもの穏やかな微笑みを浮かべてこちらを見つめていた。
「小泉さん、こんにちは。奇遇ですね。こんなところでお会いするなんて」
「早川さん、こんにちは。すみません、お散歩をしていたら、偶然翔太くんが見つけてくれて…」
美里は少し頬を赤らめながら、恐縮したように会釈をした。恵介は首を横に振り、本当に嬉しそうに目を細めた。
「いえ、謝ることなんて何もありませんよ。翔太、小泉さんに会えたのが、本当に嬉しいみたいです。ほら、見てください、あんなに興奮して」
恵介の言う通り、翔太くんは美里の手を握ったまま、ぴょんぴょんと足元で跳ねている。
「おねえちゃん、みて!これ、おっきいの!」
翔太はポケットから、つやつやとした見事なクヌギのどんぐりを取り出し、美里の目の前に差し出した。帽子のような殻斗が綺麗に残った、立派などんぐりだった。
「わあ、本当だ!すごく大きいね、翔太くん。上手に見つけたね」
「うん!ととと、いっぱいひろったの!おねえちゃんにも、あげる!」
そう言って、翔太は美里の掌に、小さな宝物をぽつんと乗せてくれた。その純粋な優しさに、美里の胸の奥がキュンと切なくなる。
「ありがとう、翔太くん。大切にするね」
「おねえちゃんも、いっしょにさがそ!あっちに、もっとあるの!」
気がつけば、美里は完全に早川親子の輪の中に巻き込まれていた。
保育士としての本能も手伝ってか、美里はロングスカートの裾を少し気にしながらも、翔太と一緒にしゃがみ込み、カサカサと鳴る落ち葉の山をそっとかき分け始めた。
「翔太くん、こっちの葉っぱの下にも、何か隠れているよ?」
「どこ?あ、あった!どんぐり!」
「あ、こっちには、すごく綺麗な赤い葉っぱもあるよ。お星さまみたいな形」
「おほしさま!きれい!」
翔太は、美里が何かを見つけるたびに、「わあ!」と歓声を上げて大喜びした。美里の隣にぴったりと寄り添い、小さな手で次々とどんぐりや落ち葉を拾い集めては、恵介が持っている小さなビニール袋へと嬉しそうに放り込んでいく。
恵介は、そんな二人の様子を、一歩引いた場所から本当に愛おしそうに見つめていた。
「小泉さん、さすがですね。僕が探すときよりも、翔太がずっと楽しそうです。僕だと、どうしても、そこは泥があるから気をつけてとか、小言が多くなってしまって」
恵介が少し照れくさそうに言うと、美里は顔を上げ、落ち葉を手に持ったままふふっと笑った。
「そんなことないですよ。早川さんがいつも優しく見守ってくれているから、翔太くんは安心してこんなにのびのび遊べるんです。早川さんの翔太くんを見る目って、本当に温かいですから」
美里の言葉に、恵介は一瞬だけ驚いたように瞬きをし、それから少し耳を赤くして、はにかむように微笑んだ。
「…そうですか。ありがとうございます。そう言っていただけると、父親として少し自信が持てます」
カウンターを挟んで対峙しているときには、どこか店主と客という目に見えない境界線が、お互いの間にうっすらと存在していた。けれど、この秋晴れの広々とした公園の中、カサカサと鳴る落ち葉に囲まれていると、その境界線が自然と薄れ、ただの一人の男性と、一人の女性として、穏やかな時間を共有しているような感覚に陥る。
尖った感情は、この優しい親子の前では完全に鳴りを潜めていた。それどころか、いま胸を満たしているのは、これまで経験したことのないような、静かで、おだやかな幸福感だった。
三人でひとしきり落ち葉の山を探検し、砂場の周りを歩き回った頃、ようやく翔太の足取りが少しだけゆっくりになった。
小さな両手には、拾い集めたどんぐりが何個も握られている。美里は翔太の頭についた小さな枯れ葉を優しく取ってあげながら、「たくさん歩いたね、翔太くん」と声をかけた。
その時だった。
きゅ~う。
静かになった公園の一角に、なんとも可愛らしい、小さな小さな音が響き渡った。
翔太のお腹から聞こえてきた音だった。
「あ…」
翔太は、自分の小さなお腹を両手でぽんぽんと叩き、少し照れくさそうに美里を見上げた。
「おなか、ぽんぽん、なった」
「ふふ、本当だね。お腹の虫さんが、ご飯の時間だよって教えてくれたんだね」
美里が笑うと、恵介も堪えきれないといった様子で吹き出し、携帯電話の時計を確認した。
「ああ、気がつけばもう一時を過ぎていましたね。夢中になりすぎて、時間を忘れていました。翔太、お腹が空くわけだ」
恵介はしゃがみ込み、翔太の目線に合わせて優しく語りかけた。
「翔太、お片付けして、お家に帰ってお昼ご飯にしようか」
「おひるごはん!」
翔太は目を輝かせたが、すぐに美里の手を再びぎゅっと握りしめた。その小さな瞳に、寂しそうな、そして何かを期待するような強い光が宿る。
「おねえちゃんも!おねえちゃんも、いっしょ!」
「えっ…?」
美里が戸惑うと、恵介はゆっくりと立ち上がり、少し申し訳なさそうに、けれどとても誠実な眼差しで美里を見つめた。
「小泉さん、もしこの後、特にご予定がなければ…なんですけれど」
恵介は少し照れくさそうに、けれど温かいトーンで言葉を続けた。
「ちょうどお昼時ですし、冷蔵庫にあるもので簡単なものしか作れませんが、店の上で何か作りますので、小泉さんも一緒に食べていきませんか?夏祭りでお世話になったお礼も、まだちゃんと言い切れていませんでしたし…」
恵介からの、まさかの自宅への誘いだった。
美里の心臓が、今度はドキンと大きく跳ね上がった。顔がカッと熱くなっていくのが自分でもよく分かる。
「えっ、あ、そんな!とんでもないです!急にお邪魔したら、ご迷惑ですし、お休みの日の大切な二人の時間を奪っちゃいますから…!」
美里は慌てて手を振って遠慮しようとした。看病のあの日は緊急事態だったから上がらせてもらったけれど、何もない休日に、彼のプライベートな自宅へ上がるなんて、それはもう常連客の域を完全に超えてしまうような気がしたからだ。
自分の揺れ動く感情が、これ以上近づくことで抑えきれなくなってしまうのではないかという、恐怖にも似た自制心が働いた。
けれど、そんな大人の複雑な葛藤など、翔太には関係がなかった。
「おねえちゃん、おうちいこ!」
翔太は、美里のロングスカートの裾を小さな手でぎゅっと掴み、全体重をかけるようにしてグイグイと引っ張った。その瞳は、涙がこぼれそうなくらい真剣で、無邪気な熱意に満ちていた。
「おねえちゃんといっしょに、ごはんたべるの!いっしょにいくの!」
何度も何度も美里の名前を呼び、一生懸命に小さな体で案内しようとする翔太。
恵介は、そんな息子の姿を見て困ったように苦笑しながらも、美里に向けて、どこか覚悟を決めたような、深い包容力を感じさせる瞳で微笑みかけた。
「翔太が、こんなに誰かに固執して甘えるのは、本当に珍しいことなんです。小泉さんが、それだけ翔太にとって特別だということですね。…僕からも、ぜひお願いします。簡単な家庭料理しかお出しできませんが、お腹、空いていませんか?」
「早川さん…」
翔太のグイグイと手を引くぬくもりと、恵介の誠実で優しい眼差し。二人の真っ直ぐな好意に包まれて、美里の胸の奥にあった、頑なな自制の壁が、音を立てて崩れ去っていくのが分かった。
ここで断る理由なんて、本当はどこにもなかった。ただ自分が臆病なだけだったのだ。
美里は一呼吸置き、赤くなった顔を隠すように、翔太の目線に合わせて優しく微笑みかけた。
「…うん、分かった。おねえちゃんも、翔太くんと一緒にご飯食べたいな。お邪魔しても、いい?」
「おうち、いく!やったー!」
翔太は両手を上げて大喜びし、公園の地面が揺れるほど元気に跳ね回った。
美里が立ち上がると、恵介は本当に嬉しそうに目元を緩ませていた。
「ありがとうございます、小泉さん。では、行きましょうか。僕たちの家へ」
「はい。よろしくお願いします」
冷たくなり始めた秋の風が、三人の背中を優しく押し抜けていく。
美里は、翔太にしっかりと右手を引かれ、その少し斜め後ろを歩く恵介の存在を間近に感じながら、公園の出口へと向かって歩き出した。これから向かう、あのオレンジ色の暖簾の上の空間に、どんな時間が待っているのだろう。
緊張で胸を高鳴らせながらも、美里の心には、秋の陽射しのような温かい光が静かに灯り始めていた。




