永遠
公園の出口を抜けて数分、見慣れた建物の前へと戻ってきた。
店の正面には、相変わらず鮮やかなオレンジ色の暖簾が秋風に揺れている。しかし、恵介が美里と翔太を促したのは、その暖簾の架かる引き戸ではなく、建物の脇にある狭い私道に面した小さな勝手口だった。少し急な鉄製の外階段は、店内を経由せずに直接自宅部分へと続いていた。
「おねえちゃん、きをつけてね!ここ、トントンってのぼるの」
翔太は、美里の手をしっかりと握りしめたまま、小さな短い足を一生懸命に伸ばして、一段一段、誇らしげに階段を上がっていく。その小さな後ろ姿をすぐ後ろから見守りながら、美里の心臓は、緊張で小さくトクトクと鳴り続けていた。
階段を上りきった先にある木目調のドア。恵介がポケットから鍵を取り出してシリンダーに差し込み、カチャリと静かな音を立てて扉を開けた。
「どうぞ、狭いところですが、上がってください」
「お邪魔します…」
玄関に一歩足を踏み入れると、そこには一階の店舗とはまた違う、けれどどこか地続きの、優しくて温かい生活の匂いが漂っていた。
美里がこの二階の自宅に上がるのは、これが二度目だった。一度目は、一年前に翔太が保育園で突然の高熱を出し、シングルファザーとしてパニックになりかけていた恵介を助けるために、留守番と看病を買って出た、あの日のことだ。
あの時はとにかく必死だった。ぐったりと横たわる翔太を抱きしめ、冷えピタを貼り、スポーツドリンクを飲ませることだけで頭がいっぱいで、周囲の情景をまともに見る余裕などなかったのだ。
靴を脱ぎ、恵介に導かれるようにしてリビングへと足を踏み入れる。
部屋の中は、相変わらずすっきりと綺麗に片付けられていた。フローリングの床には、翔太くんが怪我をしないようにと敷かれた柔らかいコルクマット。壁際の棚には、可愛らしい絵本や木製のおもちゃが綺麗に整頓されて並んでいる。
恵介の几帳面で、息子を何よりも大切にしている暮らしぶりが、部屋の隅々から伝わってくるようだった。
しかし、美里の視線は、リビングの隣、明け放たれた襖の先、秋の穏やかな斜光が静かに差し込んでいる一角で、ぴたりと止まった。以前も見たが、やはり形容し難い、複雑な感情が芽生える。
そこには、部屋の雰囲気に馴染むような、白い木製の小さくモダンな仏壇が置かれていた。仏壇の中央には、一枚の遺影が飾られている。
早川すみれ。恵介の亡くなった妻であり、翔太の、天国にいるお母さん。
写真の中の彼女は、お団子ヘアで、大きな瞳を輝かせて、本当に生き生きとした、美しい笑顔を浮かべていた。
テキパキと物事をこなし、恵介を支え、オープン直前までこの店のために奔走していたという彼女の、ひたむきな魂がそのまま残っているかのような、まばゆい笑顔だった。
先ほどまで公園で、まるで本物の家族であるかのように早川親子と笑い合っていた自分。翔太に手を引かれ、恵介と視線を合わせて微笑んでいた自分。その姿を、この写真の中の彼女は、どんな想いで見つめているのだろうか。
常連客としての、あるいは保育士としての境界線を越えて、この神聖なプライベートの空間に足を踏み入れてしまったことへの、小さなおののきと自制心が、美里の背中を硬直させた。
けれど、美里はすぐにその場に佇み、居住まいを正した。ここで臆病になって目を逸らすことこそ、この部屋に遺された彼女に対して一番不誠実なことだと思ったからだ。
「あの…早川さん」
美里は振り返り、キッチンへと向かおうとしていた恵介の真っ直ぐな瞳を見つめた。
「すみれさんに、ご挨拶をさせていただいてもいいですか?」
恵介は一瞬だけ、驚いたように小さく目を見張った。美里の真剣で、どこまでも誠実な眼差しを受け止めると、彼の端正な顔立ちが、これ以上ないほどに柔らかく、穏やかに変わっていった。
「…ありがとうございます。すみれも、きっと驚いて、それからすごく喜ぶと思います」
恵介は仏壇の前に歩み寄ると、手慣れた所作でマッチを擦り、ろうそくに火を灯した。仄かな炎が揺らめき、小さなお香立てから、白檀の清々しく優しい香りがリビングの空気にゆっくりと溶け出していく。
美里は、仏壇の前の座布団の上に静かに正座した。遺影のすみれと、真っ直ぐに向き合う。
(はじめまして、すみれさん。小泉美里と申します)
美里は心の中で、静かに語りかけた。
(いつも、早川さんの美味しいお料理に救われています。そして、翔太くんの元気な笑顔に、たくさんの元気をいただいています。今日はお休みの日に、突然お邪魔してしまってごめんなさい。お二人の大切な日常の場所を、少しだけ、お借りしますね)
深く頭を下げ、胸の前で両手を合わせる。チーン、と静かに鳴り響いた鈴の音が、秋の澄んだ部屋の中にどこまでも優しく染み渡っていった。目を閉じると、白檀の香りと共に、写真の中のすみれが、明るい声で笑ってくれたような、不思議な温かさが美里の胸を包み込んだ。
ゆっくりと目を開けて立ち上がると、傍らで見守っていた恵介が、本当に嬉しそうに目元を緩ませていた。
「小泉さん、ありがとうございます。すみれは生前、飲食コンサルタントとしてたくさんの人と関わっていたので、賑やかなことが大好きだったんです。こうして、お店の大切な常連さんであり、僕たちを支えてくださる小泉さんが家に来てくれたこと、絶対に特等席で自慢していますよ」
「そんな…。私の方こそ、ご挨拶をさせていただけて、なんだかすっと心が落ち着きました」
美里が微笑むと、足元から「おねえちゃん、おてて!」と翔太が再び服の裾を引っ張ってきた。
「しょーたも、なむなむした!」
「そうだね、翔太も上手になむなむできたね。じゃあ、お父さんはお昼ご飯の準備をするから、翔太は小泉さんとリビングで待っていてくれるかい?」
「はーい!」
恵介はエプロンを身に着けると、手際よくキッチンへと向かった。
美里はリビングのコルクマットの上に腰を下ろし、翔太が次々と持ってきてくれる絵本を読み聞かせながら、キッチンの様子をそれとなく眺めていた。
一階のプロ仕様の厨房とは違い、二階のキッチンは一般的な家庭用のものだ。けれど、恵介がそこに立つと、トントントントン、と響く包丁の音が驚くほど軽快で、均一なリズムを刻み始める。
お鍋から立ち上る湯気とともに、どこか懐かしい、けれど出汁の芯がしっかりと通った素晴らしい香りが、リビングへと漂ってきた。
「お待たせしました。本当に、冷蔵庫にあるもので簡単に作ったものですが、どうぞ」
しばらくして、恵介がトレイに乗せて運んできた昼食がテーブルに並べられた瞬間、美里は思わず「わあ…っ」と歓声を上げてしまった。
それは、一階のお店で提供される洗練された定食とはまた違う、けれど料理人としての圧倒的な技量と愛情が隠された、究極の秋の家庭料理だった。
お皿の上には、小ぶりで可愛らしい三角形に握られた鶏おこわおにぎりが三個、綺麗に並んでいる。もち米独特のツヤツヤとした気品ある輝きを放ち、中には細かく刻まれた鶏肉、人参、油揚げ、そして旬のしめじがたっぷりと混ぜ込まれていた。ほんのりと香る醤油とみりんの香ばしい匂いが、お米の湯気と一緒に立ち上っている。
そして、大きめの器にたっぷりと注がれた秋野菜の豚汁。
驚いたのは、その具だくさんぶりだった。出汁の効いた合わせ味噌のスープの表面には、うっすらと良質な豚バラ肉の脂の玉がきらきらと浮かんでいる。その下からは、大ぶりのさつまいも、輪切りの大根、ささがきのごぼう、人参、そしてこんにゃくが、これでもかとゴロゴロと顔を覗かせていた。器全体が、まさに秋の収穫祭のような豊かさに満ちている。
「美味しそう!早川さん、これ、本当にお家にあるものでパパッと作ったんですか?」
「ええ。おこわは今朝、翔太が食べたいと言うので少し多めに蒸しておいたものですし、豚汁は昨日の夜に仕込んでおいたものに少しアレンジを加えただけです。さあ、温かいうちに食べましょう。翔太も、いただきまーすは?」
「いただきまーす!」
三人で手を合わせ、美里はまず、温かい豚汁の器を両手で持ち上げてひと口すすった。
その瞬間、身体の奥底にじんわりと染み渡るような、圧倒的な旨味が五感を満たした。
(お、美味しい…っ!)
ベースとなっている出汁の丁寧さは言うまでもないが、何より驚いたのは、具材の甘みだった。大きくカットされたさつまいもは、口に含むとホクホクとした見事な甘みが広がり、それが味噌の程よい塩気と、豚肉の濃厚なコクに絶妙なグラデーションで溶け合っている。大根やごぼうといった根菜類には、芯までしっかりと出汁と豚肉の旨味が染み込んでおり、噛むたびに秋の土の豊かな香りが鼻へと抜けていく。
野菜それぞれの食感が完璧に残るよう、火を入れるタイミングが緻密に計算されていることが、ひと口食べるだけでよく分かった。
続いて、まだ温かい鶏おこわおにぎりを手に取り、そっと口に運ぶ。
もちもち、とした、もち米ならではの心地よい弾力が歯を押し返した。噛み締めるたびに、じっくりと下味がつけられた鶏肉のジューシーな旨味と、油揚げが吸い込んでいた出汁のコクが、お米一粒一粒から溢れ出してくる。
おにぎりとして優しく結ばれたその食感は、口の中でハラリと絶妙に解け、いくらでも食べられてしまいそうなほど軽やかだった。
「本当に、美味しいです…。お店のメニューも素晴らしいけれど、このおにぎりも豚汁も、なんだか食べると心の底からホッとして、体中がポカポカしてきます」
美里が本当に感動してそう言うと、恵介は少し照れくさそうに、けれどどこかホッとしたように微笑んだ。
「ありがとうございます。お店ではお客様に感動していただくための料理を意識していますが、この二階のキッチンで作るものは、僕にとって、翔太の身体を作り、翔太をホッとさせるための料理なんです。だから、かなり家庭料理寄りの、不格好な味付けですが…小泉さんにそう言っていただけると、本当に嬉しいです」
恵介の言葉を聞きながら、美里は、自分の隣で小さなお口をいっぱいに開けておにぎりを頬張っている翔太を見た。翔太の口の周りには、おこわの粒がひとつ、ちょこんと付いている。
「おねえちゃん、これ、おいしいね!」
「うん、すっごく美味しいね、翔太くん」
美里が指先でその米粒を優しく取ってあげると、翔太は嬉しそうに目を細めて笑った。
厨房の作務衣姿のときには、どこか凛とした料理人としてのオーラをまとっている恵介。けれど、このエプロンを着けて、息子の食べ進めるペースを優しく見守っている今の彼は、どこまでも大らかで、温かいお父さんの顔をしていた。
その柔らかい空気感に包まれていると、美里の胸の奥にあった男性への警戒心は完全に消え去り、ただただ、この愛おしい食卓の時間が永遠に続けばいいのに、という静かな願いだけが膨らんでいく。




