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食事処みかん  作者: 蜜柑次郎
秋茄子の回鍋肉

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26/46

曇りなき眼

 二つ目のおにぎりを平らげ、豚汁の具を美味しそうに咀嚼する美里を見つめながら、恵介はふと、少し居住まいを正した。その表情が、父親の顔から、少しだけ真摯な商売人の顔へと引き締まる。けれど、その澄んだ瞳には、どこか未来への希望に満ちた、嬉しそうな光が宿っていた。


「小泉さん。いつも一番に店を応援してくださる小泉さんに、最初に伝えたい報告があるんです」


「え…?報告、ですか?」


 美里は箸を置き、恵介の真っ直ぐな視線を受け止めた。


「はい」


 恵介は一度、リビングの窓際にあるすみれさんの仏壇の方へと優しい視線を向け、それから再び美里を見つめて微笑んだ。


「実は、近くに住む義両親、すみれの両親も、先日の夏祭りで僕が商店街の皆さんに温かく迎えてもらっている姿を見てくれていて、本当に安心したみたいでしてね。『恵介くんがそれほど街の人たちに必要とされているなら、私たちももっと力になりたい。週末ならいくらでも翔太を見るから、自分たちを頼りなさい』って、言ってくれたんです」


「義理のご両親が…」


 美里の脳裏に、日頃からお店の近くで翔太を気遣ってくれている優しい義両親の姿が浮かんだ。本当に恵介たちのことを実の息子のように愛してくれている、温かい人たちなのだろう。


「ええ。本当に有り難いことです」


 恵介は、感謝を噛み締めるように言葉を続けた。


「元々は、すみれと二人で昼も夜も営業する予定で始めた店でした。ですが、すみれが亡くなって、翔太を一人で育てるようになってからは、どうしても時間の制限があってランチ営業だけで凌ぐしかなくて…。経営的には、正直かなりギリギリの綱渡りだったんです」


 恵介はそう言って、はにかむように苦笑した。


「でも、義両親が週末に定期的に翔太を見てくれることになって、僕の中にも、もう一歩先へ進む勇気が湧いてきました。…なので、十二月のはじめ頃から、まずは金曜日だけですが、夜の営業を始めてみようと思っているんです」


「金曜日の、夜営業っ!」


 美里は驚きのあまり、思わず声を上げて立ち上がりそうになった。


 それは、食事処みかんにとって、そして早川親子にとって、どれほど大きな、大切な新しい一歩だろうか。亡き妻との夢だった店を、周囲の温かい人々に支えられながら、恵介が自分の力で前へと進めようとしている。その決意の重さと、前向きな光が、彼の引き締まった表情から痛いほどに伝わってきた。


「はい。金曜日の夜だけ、お酒と、昼とは少し違う一品料理をいくつか出して、一週間の終わりに街の人たちがホッと息をつけるような、そんな空間を作れたらなと思っていまして」


 恵介はそう言って、カウンターで見せるのと同じ、洗練された、けれどどこまでも物腰の柔らかい微笑みを美里に向けた。


「おめでとうございます、早川さん!すごいです、本当に、素敵な一歩ですね」


 美里は、胸の奥から湧き上がる純粋な祝福の気持ちで、瞳を潤ませながら微笑んだ。


 けれど、それと同時に、美里の胸の中で、もう一つの個人的な、けれど抑えきれない喜びが、小さな花が咲くようにパッと弾けた。


(金曜日の夜なら、仕事が終わった後、いつでもここへ来られる。あのオレンジ色の暖簾をくぐって、早川さんの美味しいお料理を食べて、一週間の疲れを癒やしてもらえるんだ…)


 それは、これまでの平日のシフト休みという限られた時間だけでなく、自分の日常のすぐ傍に、この愛おしいお店の時間が新しく組み込まれるという、目眩がするほどの幸福な予感だった。


「小泉さん、金曜日の夜営業が始まったら、お仕事帰りなんかに、ぜひ立ち寄っていただけたら嬉しいです」


 恵介が少しはにかみながらそう言うと、美里は顔がカッと熱くなるのを隠せないまま、けれど満面の笑顔で力強く頷いた。


「はい!絶対に、毎週のように通っちゃいます!楽しみにしていますね、早川さん」


「ありがとうございます。そう言っていただけると、仕込みにも一層気合が入ります」


 恵介は声を立てて優しく笑った。テーブルの向こうでは、お腹がいっぱいになった翔太が、二人の楽しそうなやり取りを見て「きんよーび!よるのごはん!」と、意味が分かっているのかいないのか、無邪気にはしゃいでいる。


 リビングの窓から差し込む秋の陽光が、三人の座る食卓を、そして窓際で微笑むすみれの遺影を、どこまでも優しく、温かく照らし出していた。


 新しく動き出そうとしている、みかんの時間。美里は、鶏おこわおにぎりをもう一口頬張りながら、胸の真ん中が高鳴るのを止められずにいた。それはまだ、はっきりとした名前のつかない感情だったけれど、この親子の歩む未来のどこかに、自分もそっと寄り添っていけるかもしれないという、静かで確かな予感に満ちていた。


 美味しかった昼食の余韻に包まれながら、二階のリビングには、どこまでも穏やかで緩やかな時間が流れていた。


 空になったお皿や器をトレイにまとめ、手際よくキッチンへと運んでいった恵介は、すぐに温かいほうじ茶を淹れ直してくれた。新しく注がれた湯呑みから立ち上る、香ばしく芳醇な香りが部屋の空気に混ざり合い、美里の鼻腔を優しくくすぐる。


「おねえちゃん、これ、みて!これもしょーたの!」


 美里の膝のすぐ隣にぴったりと体を寄せた翔太が、小さな両手で抱えるようにして次々とお気に入りのおもちゃを持ってくる。木製のレールを器用に繋ぎ合わせるミニカーのセットや、少し色褪せた動物の絵本。


「これはね、くまさん。こっちはね、ぞうさん」


 翔太は少し舌足らずな言葉で一生懸命に説明してくれた。


「わあ、ぞうさん大きいね。翔太くん、よく知ってるね」


 美里が相槌を打つたびに、翔太は嬉しそうに目を細め、何度も何度も小さな頭を縦に振る。


 美里は、自分の膝の上にちょこんと乗せられた翔太の小さな手のぬくもりを感じながら、胸の奥から湧き上がる深い安らぎに、ただじっと身を委ねていた。


 ふと、自分の心の中を見つめ直してみる。


 学生の頃から、そして保育士になってからも児童の父親や周囲の男性たちから向けられた、理不尽で打算的な好意にひどく傷ついていた自分。


 男性という存在そのものに強い恐怖と不信感を抱き、傷つかないために、誰も自分の内側に入らせないと頑なに心を閉ざし、一人の世界で諦めるように生きていこうと決めていたはずだった。


 あの頃の、自分を縛り付けていた尖った、冷たい氷のような感情が、この遮るもののない温かいリビングの中では、跡形もなく完全に溶けてなくなっていることに、美里は改めて気づかされた。


(どうして、こんなに心が落ち着くんだろう…)


 カウンター越しに見つめていた恵介の姿も、今、エプロンを外してテーブルの向こう側に静かに腰を下ろし、ほうじ茶の湯呑みを両手で包み込んでいる彼の姿も、美里にとってはただただ、深く尊敬できる、一人の誠実な大人の男性だった。


 それは、十代の頃に経験したような、あるいは親友の楓たちが紡いできたような、胸が引き裂かれるほど激しく燃え上がる、青春の恋愛の熱とは、少し違うものかもしれない。けれど、お互いの背負っている人生や、大切にしている時間を少しずつ思いやり、静かに、けれど確実に引き寄せ合っている。そんな、ぐっと近づいた確かな距離感が、今の二人にはあった。


「翔太、あまり小泉さんを独り占めして困らせちゃ駄目だよ。小泉さんだって、お休みの日なんだから、少しはゆっくり休みたいはずだしね」


 恵介が、ほうじ茶を一口すすりながら、困ったような、けれどどうしようもなく愛おしそうな眼差しで息子をたしなめた。


「ううん、全然困ってなんていませんよ。私、保育園でもこうして子どもたちと遊ぶのが一番大好きなんです。それに、翔太くんがこんなにたくさん、自分の宝物を見せてくれるのが本当に嬉しくて」


 美里は顔を上げ、恵介に真っ直ぐな笑顔を向けた。


「お店でお仕事をしているときの早川さんも素敵ですけれど、こうしてお家で翔太くんと過ごしているお父さんの早川さんも、本当に優しくて…温かいですね」


 美里の飾らない、心の底からの言葉に、恵介は一瞬だけ驚いたように瞳を揺らした。それから、少しだけ耳のあたりを赤くして、はにかむように目元を緩ませる。


「…ありがとうございます。そう言っていただけると、普段、一人で手探りで子育てをしている身としては、本当に救われます。すみれが亡くなってから、翔太には寂しい思いばかりさせているんじゃないかと、いつも不安でしたから」


 恵介は、リビングの窓際にあるすみれの仏壇の方へと、優しく、深い情愛の込もった視線を向けた。白檀のお香の煙はすでに消えていたけれど、遺影の中で、頼もしい笑顔で彼らの食卓を見守っている。


 彼が奥さんを今でも大切に想い、その約束を守るためにこの場所で必死に生きていること。その歴史があるからこそ、今の早川恵介という、深く洗練された、どこまでも誠実な男性が存在しているのだ。美里は、その事実に改めて深い敬意を抱くとともに、その大切な絆を壊したくないという、いつもの自制心をそっと胸の中で握りしめた。


 今の、この常連客としての、そしておねえちゃんとしての距離が、きっと一番正しいのだ。これ以上を望むのは、自分の身勝手な我が儘に過ぎない。


 そう、自分自身にそっと言い聞かせ、ほうじ茶の湯呑みに手を伸ばそうとした、その時だった。


 美里の膝の上に、完全に自分の小さな体を預けるようにして座り込んでいた翔太が、突然、絵本をめくる手をぴたりと止めた。


 そして、美里の右手の指を、自分の小さな小さな両手で、ぎゅっと力強く握りしめてきたのだ。子ども特有の、ぽかぽかとした、驚くほど温かいぬくもりが、美里の指先から腕を伝って、心臓へと真っ直ぐに流れ込んでくる。


「…翔太くん?」


 美里が不思議に思って声をかけると、翔太はゆっくりと小さな顔を上げ、その丸くて純粋な、一点の曇りもない瞳で、美里の顔を真っ直ぐに見上げてきた。


「おねえちゃん」


 その小さな唇から、ぽつりと、けれど驚くほどはっきりとした声が溢れた。


「おねえちゃんが、いつもお家にいてくれたら、もっと楽しいのになぁ」


 トクン。


 静まり返ったリビングの中で、美里の心臓が、耳が痛くなるほどに大きな音を立てて跳ね上がった。


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