落ち葉
一瞬、翔太が何を言ったのか、脳が理解することを拒むかのように、時間が完全に停止したような感覚に陥る。次の瞬間、頭のてっぺんから足の先まで、カッと熱い火が点いたように顔が激しく赤くなっていくのが分かった。
あまりの衝撃に、言葉が喉の奥でつっかえて、息をすることさえ忘れてしまいそうになる。
「えっ、あ、翔太くん…?それは、その…」
美里は完全に動転してしまい、テーブルの向こう側の恵介へと、救いを求めるように視線を向けた。
恵介もまた、完全に不意を突かれたようで、湯呑みを口元に運ぼうとした姿勢のまま、呆然と大きく目を見張っていた。いつもどんな時でも、洗練された所作と物腰柔らかさで完璧に客をあしらっていたあの店主が、まるで子どものように口を少し開けて、驚きに満ちている。
部屋の中に、張り詰めた、けれどどこかどうしようもなく甘やかな沈黙が、数秒間だけ横たわった。
やがて、恵介はハッと我に返ったように湯呑みをテーブルに置くと、その端正な顔立ちを耳まで真っ赤に染め上げ、ひどく狼狽したように、困ったような苦笑いを浮かべた。
「しょ、翔太…!何を言っているんだ。そんな風に、小泉さんを困らせるようなことを言ったらダメだよ」
恵介は慌てて腰を浮かせると、美里の膝の上にいる息子の元へと手を伸ばし、その小さな頭を愛おしそうに、けれど諭すように優しく撫でた。
「小泉さんには、小泉さんのお家があって、お仕事もあるんだからね。いつもお店に来てくれたり、こうして遊んでくれるだけでも、本当に有り難いことなんだよ。…すみません、小泉さん。勝手な理想を口にしてしまって…。どうか、気にしないでください」
恵介は、美里と視線が合うと、すぐに照れくさそうに視線を泳がせ、恐縮したように何度も頭を下げた。彼のその、いつになく余裕をなくした、少年のような慌てぶりを見ていると、美里の胸の奥で、ドギマギとした緊張の裏側から、小さくて温かい愛おしさが、ふつふつと湧き上がってきた。
翔太の言葉は、ただの無邪気な子どもの我が儘かもしれない。
けれど、母親を早くに亡くし、お父さんの前では心配をかけないようにといつも明るく振る舞いながら、その小さな胸に深い傷を隠していた翔太が、自分の内側をこんなにも素直に開いて、甘えてくれたのだ。それは、保育士としても、一人の女性としても、これ以上ないほどに嬉しく、胸が締め付けられるほどに尊いことだった。
「ううん、早川さん、謝らないでください」
美里は、まだ顔の火照りが引かないのを感じながらも、膝の上の翔太を、そっと自分の両腕で包み込むようにして抱きしめた。
「おねえちゃんね、翔太くんにそう言ってもらえて、本当に嬉しいよ。おねえちゃんも、翔太くんと早川さんと一緒にご飯を食べて、こうしておもちゃで遊ぶの、世界で一番楽しいもん」
美里の腕の中で、翔太は「ホント?」と嬉しそうに声を弾ませ、美里の体にぎゅっと抱きついてきた。小さな手のぬくもりと、柔らかな髪の香りが、美里の胸いっぱいに広がる。
美里が翔太の頭を優しく撫でながら、そっと視線を上げると、そこには、手を伸ばしたまま立ち尽くしていた恵介の姿があった。
恵介は、美里が翔太を抱きしめているその光景を、息を呑むようにして、じっと見つめていた。
その澄んだ瞳には、先ほどまでの狼狽はもうなかった。ただ、一人の大人の男性として、自分の息子をこれほどまでに深く愛し、受け止めてくれている小泉美里という女性に対して、言葉にならないほどの深い愛おしさと、そして、これからの未来を予感させるような、真摯で、熱い眼差しが、そこには確かに宿っていた。
お互いの視線が、リビングの空気の中で静かに交錯する。
それは、ただの店主と客という境界線を、そして保育士と児童という役割を完全に越えて、お互いのこれからの人生に、新しく大切な存在として向かい合い始めた、大人の大いなる一歩の瞬間だった。
窓から差し込む秋の斜光が、二人の横顔を、どこまでも優しく、仄赤く縁取っていた。
「…それじゃあ、そろそろ、お暇しますね。今日は本当に、ごちそうさまでした」
夕方の四時を回る頃、美里は名残惜しさを覚えつつも、立ち上がってストールを巻き直した。翔太はたくさん遊んで眠くなったのか、お気に入りの毛布にくるまりながら、ソファーの上ですやすやと可愛い寝息を立て始めていた。
「こちらこそ、突然お誘いしてしまったのに、遅くまで翔太の相手をしていただいて、本当にありがとうございました」
恵介は玄関まで美里を見送るために並んで歩いた。
カチャリ、と静かにドアを開けて、外の鉄製階段へと出る。
一歩外へ踏み出した瞬間、昼間のぽかぽかとした陽気とは一転して、少し冷たくなった秋の夕風が、美里の頬をひんやりと撫で抜けていった。遠くの西の空は、燃えるような鮮やかな茜色から、次第に深い濃紺へとその色彩を移し変えようとしており、街路樹のシルエットが夕闇の中にくっきりと浮かび上がっている。
「本当に、冷え込んできましたね。風邪をひかないように、気をつけて帰ってください」
恵介は階段の踊り場で足を止め、美里を見上げて優しく微笑んだ。
「はい、早川さんも、翔太くんも暖かくして過ごしてくださいね」
美里は手すりに手をかけ、一段、階段を降りかけたところで、ふと足を止め、振り返って恵介の真っ直ぐな瞳を見つめた。
「あの、早川さん」
「はい、何でしょうか?」
「さっきお話ししてくれた、金曜日の夜営業。私、本当に楽しみにしています。始まったら、一番に暖簾をくぐりますね」
美里が、夕闇の光の中で満面の笑顔を浮かべてそう告げると、恵介は一瞬だけ驚いたように目元を緩ませ、それから、溢れんばかりの決意と信頼を込めて、深く、深く頷いた。
「はい。小泉さんのために、最高の料理を用意して、お待ちしています」
「ふふ、約束ですよ。それでは、おやすみなさい」
「おやすみなさい。気をつけて」
鉄製の階段を、トントンと小気味よい音を立てて降りていく。
住宅街の狭い路地へと出ると、カサカサと音を立てる落ち葉を踏みしめながら、美里は駅の方へと向かってゆっくりと歩き出した。
首元に巻いたストールに顔を少し埋めると、まだ、あの二階の部屋に満ちていた白檀の優しい香りと、恵介が作ってくれた鶏おこわの香ばしい匂いが、かすかに残っているような気がした。
親友の楓が、あの夏祭りの夜に投げかけてくれた言葉。
『美里、店主さんのこと、どう思ってるの?』
その問いに対する答えは、まだはっきりとした形のある恋愛という言葉には、できないかもしれない。男性不信という暗い檻から救ってくれた彼らへの感謝も、翔太への保育士としての愛おしさも、すべてが混ざり合っているからだ。
けれど、今日のあの食卓の時間を通じて、そして翔太が握りしめてくれた小さな手のぬくもりを通じて、美里の胸の奥には、確かな、揺るぎない予感が灯っていた。
新しく始まる、みかんの金曜日の夜営業。
一週間の仕事が終わり、誰もがホッと息をつくあの特別な時間のどこかに、そして、あの誠実な店主と、愛おしい小さな案内人が歩んでいくこれからの未来の時間に、自分もまた、一人の大切な存在として、そっと寄り添い、共に歩んでいきたい。
少し冷たくなった秋の夕風が、美里の背中を優しく押し抜けていく。
美里は、ポケットの中で翔太からもらったつやつやのどんぐりをぎゅっと握りしめ、新しく動き出そうとしている温かな日常の灯火を見つめるように、前を向いて、一歩一歩、確かな足取りで家路へと歩み進めていった。




