無邪気
十二月に入った途端、街を駆け抜ける風は一段と刃の鋭さを増した。
灰色の雲が低く垂れ込める冬の空の下、庄司しのぶは自宅のベランダで、冷たく乾いた洗濯物を一枚ずつ丁寧に取り込んでいた。ハンガーから外したバスタオルを腕に抱えると、おひさまの匂いの代わりに、どこかツンとした冬の北風の香りが鼻腔をくすぐる。
ふう、と小さく息を吐くと、白い吐息が目の前で揺れて、すぐに冷気の中へと溶けて消えた。
「もう、二年になるのね…」
取り込んだ洗濯物を抱えたまま、しのぶは静まり返ったリビングの飾り棚に目を向けた。そこには、生前と変わらない天真爛漫な笑顔を浮かべた娘、すみれの遺影が佇んでいる。
三十一歳という若さで癌に冒され、あっという間に遠いところへ旅立ってしまった愛しい娘。あの通夜の席で、まだ一歳だった翔太を抱き締めながら、声を殺して泣き崩れていた夫・恵介の背中を、しのぶは今でも鮮明に思い出すことができる。
あの日の絶望から丸二年。残された男二人の生活を心配し、胸を痛めない日は一日たりともなかった。けれど、時間は残酷なほど平等に、そして確かに流れ去り、季節はまた本格的な冬を迎えていた。
しのぶの脳裏に、二ヶ月前の温かい記憶が鮮やかによみがえる。
それは、街中が歓声と熱気に包まれた、あの賑やかな商店街の夏祭りが終わってしばらく経った、十月のことだった。
お祭りでの食事処みかんの出店は大盛況だった。作務衣の袖をまくり、汗を流しながら実直に冷やし稲荷を仕上げていく恵介の姿は、商店街の誰もが目を見張るほど立派なものだった。
そして、そんな父親の背中を、客としてじっと見つめていた翔太。親子の確かな歩みと成長を特等席で見届けたしのぶと、夫の信之は、ある夜の夕食後、温かい緑茶をすすりながら深く話し合ったのだった。
「恵介くん、本当に大したもんだよな」
定年退職後、穏やかな日々を送る信之が、眼鏡の奥の目を細めてしみじみと言った。
「ああやって街の人に認められて、店も少しずつ軌道に乗ってきた。だけどな、平日のランチ営業だけで、これから翔太が大きくなっていくための蓄えまで作れるかというと、やっぱり親としては心配なところもある。何より、彼の腕前が、昼間だけで終わってしまうのは、料理人として、あまりにももったいないじゃないか」
「ええ、私もそう思っていたのよ、お父さん」
しのぶは深く頷いた。すみれが繋いでくれた大切な義理の息子である恵介を、自分たちは本当の子供のように愛している。だからこそ、シングルファザーという境遇にもがき、彼が自らの夢や可能性を狭めてほしくはなかった。
「翔太くんも大きくなったわ。私たちがもっと積極的にサポートすれば、恵介くんも新しい一歩を踏み出せるんじゃないかしら」
夫婦の意見は完全に一致していた。翌週、翔太を預けに来た恵介を庄司家のリビングに招き入れ、信之は真っ直ぐに彼の目を見て伝えたのだ。
「恵介くん。お店のことで何か悩みがあったり、新しくやりたい挑戦があるなら、いつでも俺たちに相談してくれ。もし時間が足りないなら、翔太くんはいつだって私たちが責任を持って預かるから。じいじとばあばの特権を、もっと使わせておくれよ」
その言葉を聞いた瞬間、恵介は驚いたように小さく目を見開いた。それから、何かを堪えるように何度か瞬きを繰り返し、膝の上で大きな手をぎゅっと握り締めた。
「…ありがとうございます。お義父さん、お義母さん。実は…ずっと、考えていたことがあったんです」
恵介はゆっくりと顔を上げ、誠実そのものの瞳で二人を見つめた。
「気が早いと思われるかもしれませんが、翔太が少しずつ言葉を覚え、生活のリズムも安定してきた今だからこそ、週に一日…金曜日の夜だけでも、夜間営業を始めてみたいと考えているんです。昼間は仕事が忙しくて来られない方や、いつもお世話になっている商店街の皆さんが、一週間の終わりにホッと一息つけるような、そんな場所を作れたらと、ずっと思っていました」
少し照れたようにはにかみながらも、その声には料理人としての揺るぎない情熱と、店を守り抜くという強い覚悟が満ちていた。しのぶと信之は、そんな恵介の背中を、満面の笑みで力強く押したのだった。
そして迎えた、初の金曜夜営業の当日。
時計の針が午後四時半を回る頃、しのぶは厚手のダウンコートに袖を通し、長めのウールマフラーを首元へ厳重に巻き付けた。冬の夕暮れはせっかちだ。
外に出ると、西の空の低い位置にわずかな茜色が残っているだけで、街はすでに深い群青色の闇に包まれ始めていた。冷たい空気が容赦なく頬を刺し、吐く息は真っ白な塊となって後ろへ流れていく。
しのぶは足早に歩き、翔太が通う保育園へと向かった。
「あ!ばあば!」
園舎の引き戸を開けると、奥から小さな身体が弾むように飛び出してきた。黄色の帽子をちょこんと頭に乗せた翔太が、短い足を一生懸命に動かして駆けてくる。
「はいはい、翔太くん。お待たせいたしました」
しのぶがしゃがみ込んで両手を広げると、翔太は小さな胸をどん、としのぶの身体にぶつけて甘えてきた。その身体はぽかぽかと温かく、抱き締めるだけで冬の寒さがどこかへ吹き飛んでいくようだった。保育士の先生に挨拶を済ませ、翔太に厚手のジャンパーを着せ、手袋をはめさせる。
「さあ、お家に帰る前に、ちょっとだけパパのお顔を見に行こうか」
「ととの顔見ていく!」
翔太は嬉しそうに声を弾ませ、しのぶの手をぎゅっと握り返した。子供の小さくて柔らかい手のひらから伝わる体温が、しのぶの心をじんわりと満たしていく。
保育園を出て、住宅街の静かな路地を少し歩くと、前方にオレンジ色の暖簾が見えてきた。入り口の格子戸には、まだ準備中の木札がかけられているが、窓からは柔らかい電球色の光が漏れ、路地を小さく照らしている。
ガラガラと木製の引き戸を開けた瞬間、しのぶと翔太は、その場に立ち尽くしそうになるほどの圧倒的な香りに包み込まれた。
それは、気が遠くなるほど優しく、どこまでも芳醇な出汁の香りだった。
冷え切った身体に、その温かい香気の湯気が染み渡っていく。ただ鰹節の匂いが強いというような安直なものではない。利尻昆布のまろやかな旨味と、上品に燻された鰹節が、調和を保って融合した、最高級の和の香り。
五臓六腑を優しく揺さぶるようなその匂いを嗅いだだけで、しのぶの口の中には自然と唾液が溢れてきた。
「あ、お義母さん、ありがとうございます。翔太、おかえりなさい」
厨房の奥から、白く立ち上る湯気の向こうから、作務衣姿の恵介が顔を出した。その表情は、料理人としての鋭い集中力に満ちている。
「とと!」
翔太がカウンターに駆け寄り、爪先立ちになって厨房を覗き込もうとした。
しのぶが目を留めたのは、大きなおでん鍋だった。この中身こそが、恵介が初の夜営業の目玉として用意した特製おでんだった。
「素晴らしい香りね、恵介くん…。思わず息を呑んでしまったわ」
しのぶが感嘆の声を漏らすと、恵介は少し目元を緩め、はにかむように微笑んだ。
「ありがとうございます。夜営業の最初ですから、冬の寒い中、足を運んでくださるお客様が一番温まるものを、と思って。料亭時代に叩き込まれた基本に立ち返って、昨日からずっと出汁を引いていたんです」
おでん鍋の中を覗き込むと、しのぶは再びその美しさに胸を打たれた。
鍋の中の出汁は、底まで澄み切っている。濁りは一滴もなく、黄金色の液体が、極小の弱火でコトコトと、しかし決して沸騰させない絶妙な加減で、静かに波打っている。
そこに佇む具材たちの佇まいは、まるでひとつの芸術品のようだった。
大根はすべて正確に同じ厚さで切り揃えられ、角という角が綺麗に丸く面取りされている。一度、米のとぎ汁でじっくりと下茹でされ、特有の苦味や雑味を完璧に抜かれた大根は、すでに黄金色の出汁をたっぷりとその身に吸い込んで、内側から透明感のある琥珀色の光を放っているように見えた。
こんにゃくには、等間隔で美しい鹿の子の切れ目が丁寧に入れられており、味が染み込みやすいよう細やかな細工が施されている。
さらに、さつま揚げやちくわといった練り物類も、完璧な油抜きが行われているのだろう、出汁の表面に余計な油が浮くことはなく、ただ具材の旨味だけが出汁の中に静かに溶け出している。結び昆布は鍋の端で美しく形を保ち、主役たちを引き立てていた。
「これだけの仕込みをするのに、どれだけの手間暇をかけたの…。本当に、大したものね。これなら、いらっしゃるお客様もみんな大喜びするわよ」
しのぶの言葉に、恵介は額の汗を拭いながら、力強く頷いた。
「昼間の定食とは違って、夜はお酒と一緒に一品ずつ、ゆっくり味わっていただくものですから。妥協だけはしたくなかったんです。これでお客様が喜んでくだされば、報われます」
かつてすみれが「恵介の料理はね、世界一優しくて、世界一凄いのよ」と誇らしげに語っていた言葉が、しのぶの胸の中でリフレインする。娘が惚れ込んだその才能は、孤独な二年の月日を経て、さらに深く、味わい深く磨き上げられていた。
「それじゃあ、私たちはこれで帰るわね。初日の夜営業、無理はしないで、しっかり頑張るのよ」
「はい。翔太のこと、よろしくお願いします」
恵介は深く一礼し、翔太の目線に合わせてしゃがみ込んだ。
「翔太、じいじとばあばの言うことをよく聞いて、お利口にしてるんだぞ。とと、お仕事頑張ってくるからね」
「うん!とと、がんばれー!」
翔太は小さな拳を突き上げて、元気いっぱいに声援を送った。恵介はその頭を愛おしそうに何度も撫で、二人の出発を見送った。
店を出ると、外界の空気は先ほどよりもさらに一段と冷え込んでいた。すっかり日が落ちて、街灯の白い光がコンクリートの路面を寒々と照らしている。けれど、店内で浴びた温かい湯気とおでんの余韻のせいか、しのぶの身体の芯は不思議なほどポカポカと温まっていた。
「さあ、翔太くん。ばあばの手をぎゅってして、歩こうね」
「はーい!」
再び小さな手を握り締め、庄司家への家路につく。
夜の帳が下りた住宅街を歩いていると、翔太がしのぶの手を前後にぶんぶんと振りながら、実にご機嫌な様子で口を開いた。
「あのね、ばあば」
「なあに、翔太くん」
「おねえちゃんがね、たくさんあそんでくれたの」
しのぶは歩調を緩めることなく、耳を傾けた。
翔太の言うおねえちゃんとは、一人目の客として店を訪れて以来の常連であり、保育士という職業柄、昨年の秋に翔太が熱を出した際には恵介を助け、今年の夏祭りでもみかんの出店を親身になって手伝ってくれたという、美里だ。恵介の口からも、最近その名前を聞く機会が少しずつ増えていた。
「へえ、おねえちゃんとあそんだの?」
「そう!おうちきたの!」
翔太は嬉しそうに胸を張り、何度も頷いた。
「とと、わらってた!」
無邪気に笑う翔太の横顔を、街灯の光が優しく照らし出す。
「おねえちゃんと、またあそびたいなぁ」
「ふふ、きっとまた来てくれるわよ」
しのぶは優しく微笑みながら、翔太の歩幅に合わせてゆっくりと足を前に進めた。
けれど、その胸の奥には、冬の北風とは違う、かすかなさざ波のようなざわめきが静かに広がっていた。




