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食事処みかん  作者: 蜜柑次郎
出汁香るおでん

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29/46

足音

 すみれが亡くなってから二年間、恵介と翔太の周囲には、いつも自分たち夫婦か、あるいは遠く海外にいる恵介の両親という身内の影しかなかった。けれど今、翔太の口からこれほど自然に、そして親しげに、一人の女性の名前が紡がれている。


 それは、頑なまでに過去に立ち止まっていた恵介たちの生活に、新しい、温かい変化の足音が近づいていることの予感だった。


 寂しさと、安堵と、そして名前のつかない微かな戸惑い。


 しのぶは握り締めた翔太の手の温もりを確かめるように、もう一度ぎゅっと力を込めながら、夜の寒気の中を自宅へと急いだ。


 庄司家のリビングは、すっかり夜の温もりに満たされていた。


 外は一段と冷え込みが厳しくなり、時折、窓ガラスをガタガタと震わせるような強い北風が吹き抜けていく。防寒カーテンをきっちりと閉め切った室内では、暖房の柔らかな温風と、部屋の中央に据えられた大きな土鍋から立ち上る白い湯気が、冬の夜の寒さを完全に締め出していた。


「さあ、翔太くん。お鍋が美味しそうに煮えたわよ。じいじと一緒に食べましょうね」


 しのぶが食卓の中央にある土鍋の蓋を開けると、中からぽうっと真っ白な湯気が立ち上り、リビングいっぱいに優しく豊かな香りが広がった。


 今夜の夕食は、冬が旬の真鱈と自家製の鶏団子を主役にした寄せ鍋だ。昆布で静かに引いた澄んだ出汁の中で、一口大に切った真鱈の身が、雪のように真っ白くふっくらと弾んでいる。


 しのぶが包丁の背で丁寧に叩いて作った鶏団子には、長ネギの微塵切りと、ほんの少しの生姜が練り込まれており、出汁の中でぷっくりと丸く膨らんでいた。


 その周囲を囲むように、冬の寒さでぎゅっと甘みを蓄えた白菜の白い芯、飾り切りを施した椎茸、青々とした春菊、そして味が染み込みやすいように手でちぎった豆腐が、ぐつぐつと心地よい音を立てて躍っている。


「わあ!おなべ!」


 子供用の高椅子に座った翔太が、小さな両手を叩いて目を輝かせた。


「ほらほら、翔太。危ないから手を伸ばしちゃだめだぞ。じいじが取ってあげるからな」


 信之が傍らで眼鏡の奥の目を細め、嬉しそうに手元を動かした。取り皿に、まずは翔太が食べやすいよう、小さくほぐした真鱈の身と、出汁をたっぷりと吸って柔らかくなった白菜の芯、そして鶏団子を丁寧に取り分ける。上からお鍋の熱い出汁をスプーンでひと回しし、信之は自分の口元で「ふー、ふー」と何度も息を吹きかけてから、翔太の前に置いた。


「さあ、おあがり。熱いから気をつけるんだぞ」


「いただきます!」


 翔太は小さなスプーンを不器用なにぎりで掴むと、まずは真鱈の身をパクリと口に運んだ。


「おーいしぃ!」


 短い足をバタバタとさせて喜ぶ翔太の姿に、しのぶの目元も自然と緩む。


「良かったわねぇ。お魚、ふっくらしていて美味しいでしょう?鶏団子も食べてみてね」


 翔太は頷き、今度は鶏団子を小さく噛み切った。じっくりと火が通った鶏肉からは、噛むたびにジュワリと優しい肉汁が出汁とともに溢れ出す。生姜の風味は翔太のためにごく控えめにしてあるが、それがかえってネギの甘みと鶏の旨味を引き立てていた。


 小さな口を一生懸命に動かしてパクパクと食べる孫の姿は、見ているだけでこちらの胸まで温かくなる。


「お父さんも、温かいうちにどうぞ。鱈がとってもいい状態だったのよ」


「お、頂こう。うむ、やっぱり冬の鍋は五臓六腑に染みるな。この出汁の加減、しのぶの鍋はいつも優しい味で安心するよ」


 信之は嬉しそうに熱々の豆腐をハフハフと口に葬り、お気に入りの芋焼酎のお湯割りをゆっくりと煽った。


 父親がいない金曜日の夜。翔太が寂しがって泣き出したらどうしようかと、しのぶは内心少しだけ身構えていたのだが、それは全くの杞憂だった。じいじとばあばの愛情を一身に受け、お腹いっぱいにお鍋を食べた翔太は、すっかり満ち足りた表情で行儀よくお茶をすする。


 食後、少しお腹を休ませてから、しのぶは翔太を連れてお風呂へと向かった。


 湯気で満ちた浴室の中で、温かいお湯をパシャパシャと跳ねさせながら、翔太は楽しそうにおもちゃの小さなアヒルを浮かべて遊んでいる。


「おばあちゃん、おそと、さむいさむい?」


「ええ、とっても寒い冬の夜よ。だから、お風呂でしっかり温まろうね」


 小さな身体を優しく洗い、湯船の中で並んで肩まで浸かる。翔太の小さな背中を流しながら、しのぶは心の中で、今頃初めての夜営業に挑んでいるであろう恵介の姿を思い浮かべていた。あの澄み切ったおでんの湯気の向こうで、彼は今、どんな表情で包丁を握っているのだろうか。お客様は来てくれているだろうか。


 お風呂から上がると、翔太に厚手のパジャマを着せ、湯冷めしないように髪の毛をドライヤーで手早く乾かす。リビングに戻ると、すっかりほかほかになった翔太は、眠そうに何度も小さなあくびを漏らし始めていた。


 寝室の布団に寝かせ、しのぶが枕元で乗り物の絵本を小さな声で読み聞かせていると、三分もしないうちに、翔太の瞼は重そうに閉じていった。スースーと、規則正しく可愛い寝息が静かな部屋に響き始める。ぎゅっと握られていた小さな手が、眠りの深まりとともに、ゆるりと解けて布団の上に投げ出された。


「おやすみなさい、翔太くん。良い夢を見てね」


 額にそっと触れ、布団を胸元まで掛け直してから、しのぶは足音を立てないように静かに寝室を後にした。


 リビングに戻ると、時計の針は午後九時を少し回ったところだった。


 信之はテレビの音量を低くして、ソファでのんびりと新聞を眺めていたが、しのぶが戻ってきたのに気づくと、静かに新聞を畳んで立ち上がった。その首元には、すでに外出用の厚手のウールマフラーが綺麗に巻かれている。


「翔太は、もう眠ったかい?」


「ええ、お鍋とお風呂で温まったから、あっという間にぐっすりよ。…お父さん、本当に今から行くの?」


 しのぶが少しだけ心配そうに尋ねると、信之は少年のような悪戯っぽい笑みを浮かべて、上着のポケットから財布を取り出して見せた。


「当たり前じゃないか。恵介くんが退路を断って始めた、初めての夜営業なんだ。街の住民として、いや、義理の父親としてな、どうしてもこの目で初日の様子を見ておきたいんだよ。お祝いに一杯引っ掛けて、すぐに戻るから」


「ふふ、そうね。じゃあ、これを持っていって」


 しのぶは、キッチンに用意しておいた、小さな熨斗をかけたお祝いの角瓶を信之に手渡した。


「恵介くんに、無理しないでねって伝えてちょうだい。あまり長居して、営業の邪魔をしちゃだめですよ」


「分かってるよ。それじゃあ、ちょっと行ってくる」


 信之は嬉しそうにマフラーの端を整え、防寒用のハーフコートを羽織ると、冬の冷気が待つ玄関の向こうへと足早に出かけていった。


 信之が店へ向かってからの時間は、しのぶにとって妙に長く感じられるものだった。


 一人になった静まり返るリビングで、しのぶはハーブティーを淹れ、ソファに腰を下ろした。テレビを消すと、外を吹き抜ける風の音だけがかすかに聞こえてくる。


 食事処みかんの夜営業。


 おでんの仕込みは見事なものだった。けれど、あそこは駅から少し離れた住宅街の入り口だ。お昼時なら近所の主婦やシフト休みの会社員、商店街の人たちで賑わうが、夜にわざわざあの場所まで足を運んでくれるお客様がどれほどいるだろうか。寒い冬の夜、誰も来ない店内で、恵介が一人でぽつんと佇むようなことになっていなければいいけれど…。


 娘のすみれが生きていたら、きっと持ち前の明るさで「大丈夫よお母さん、恵介の料理のファンはたくさんいるんだから!」と、しのぶの心配を笑い飛ばしてくれたかもしれない。そんなことを徒然と考えながら、しのぶは何度も壁の時計に目をやった。


 それから一時間ほどが経った、午後十時すぎのことだった。


 カチャリ、と静かに玄関の鍵が開く音がして、続いて「ただいま」という、少しろれつの回らない、しかし実にご機嫌な声が響いた。


 しのぶが急いでリビングのドアを開けると、そこには冬の夜の冷たい空気と一緒に、ほんのりと日本酒の芳醇な匂いをまとった信之が立っていた。その顔は、いつもよりずっと赤く火照っており、眼鏡の奥の目は完全に細くなっている。


「おかえりなさい、お父さん。ずいぶん早かったのね。…って、あら、結構良い気分で酔っぱらっているじゃない」


 しのぶが苦笑しながらコートを受け取ると、信之はマフラーを外しながら、興奮を隠しきれないといった様子で何度も大きく頷いた。


「いやあ、お母さん!すごかったぞ。本当に凄かったんだ!」


「何がそんなに凄かったの?ほら、翔太くんが起きちゃうから、大きな声を出さないで。リビングに入ってちょうだい」


 しのぶは信之を促し、温かい緑茶を淹れてローテーブルの前に座らせた。信之は温かいお茶の湯気を顔に浴びながら、まだ熱気が冷めやらない様子で身を乗り出してきた。


「お店だよ、みかんの夜営業だ。俺が暖簾をくぐる前からな、もう外の路地までおでんの良い匂いと、お客さんたちの賑やかな笑い声が溢れていてな。引き戸を開けたら、なんとお店が満席だったんだ!」


「すごい…満席?」


 しのぶは思わず目を丸くした。あの立地で、しかも初めての夜営業の、この極寒の金曜日に、満席だなんて。


「そうなんだよ。カウンターも、奥の座敷の二つのテーブルも、綺麗に埋まっていてな。厨房の恵介くんは、ランチの時以上に忙しそうに、でも本当に嬉しそうな顔をして立ち働いていたよ」


「まあ…それは本当に良かったわね。どんなお客様がいらしていたの?」


 しのぶが尋ねると、信之は嬉しそうに指を折りながら、店内の熱気を語り始めた。


「ランチ営業にいつも来てくれる常連さんがたくさん来てくれたそうだ。若い女性やサラリーマン、それに商店街の方々までいたんだ」


「ふふ、賑やかで楽しそうね」


 信之の話を聞いているだけで、しのぶの目の前には、白く立ち上る湯気の向こうで笑顔が弾ける、みかんの店内の光景が、鮮やかに浮かび上がってくるようだった。冬の寒さを一瞬で忘れさせてしまうような、濃密で温かい人間の熱気。


「それにしてもお父さん、満席だったなら、あなたはどこに座ったのよ?」


「いや、俺が入ったときは本当に席がなくてな、お祝いだけ渡して帰ろうかと思ったんだが、カウンターの隅に座っていた、いかにも職人って感じの年配の男性が、すっと立ち上がって譲ってくれたんだ」


「職人さん?」


「ああ。自分はもう堪能したからって言ってな」


 信之はそこまで一気に語ると、淹れてもらった緑茶をゴクリと飲み干し、ふう、と満足そうな息を吐いた。


「俺もな、譲ってもらった席で、恵介くんが注いでくれた熱燗を一杯頂いて、おでんの大根と牛すじを突かせてもらったんだ」


「おでん、どうだった?」


「美味いのなんのって…」


 信之は眼鏡を外し、少し潤んだ目で遠くを見るようにつぶやいた。


「出汁が具材の奥まで染み込んでいてな。大根に箸を入れると、力を入れなくてもすっと割れるんだ。口に入れると、昆布と鰹の上品な出汁の旨味と一緒に、大根そのものの甘みがジュワッと広がってな…。牛すじも、余計な脂が綺麗に抜かれていて、口の中でとろけるようだった。あの熱々のおでんを食べて、そこに熱燗を流し込む。周りのお客さんたちもみんな、本当に幸せそうな顔をして、美味い、美味いって言い合っているんだ。それを見ていたらな、なんだか胸がいっぱいになっちまって、お祝いのつもりが、すっかりご馳走になって帰ってきちゃったよ」


 信之は照れくさそうに笑いながら、再び眼鏡をかけ直した。


 信之の熱っぽい夜間レポートにじっと耳を傾けながら、しのぶは胸の奥がじんわりと、言葉にならない温かい感情で満たされていくのを感じていた。


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