呆れ笑い
駅から少し離れた、住宅街の小さな食事処。
そこに、これほどたくさんの人々が、それぞれの想いを抱えて集まってくる。
それは、恵介がこれまでひたむきに料理と向き合い、誠実に街の人々と関わってきたからこそ築き上げられた、かけがえのない絆そのものだった。
ランチ営業だけでは見えにくかった、あるいは恵介自身がどこか遠慮して広げずにいた世界が、金曜日の夜という新しい一歩によって、こんなにも美しく花開いている。
(みかんは、そして恵介くんは、私が心配する以上に、もうずっと深く、この街の人々に愛されているのね)
しのぶはそっと、胸の内で呟いた。
すみれを亡くした深い悲しみは、決して消えることはない。恵介の胸の傷も、翔太の心の傷も、癒えるにはまだまだ長い時間が必要だろう。けれど、彼らは決して孤独ではないのだ。これほど温かい人々に囲まれ、支えられ、必要とされている。
「…良かったわね、お父さん」
しのぶが穏やかな声をかけると、信之もまた、深く深く頷いた。
「ああ。本当に良かった。恵介くんのあの嬉しそうな顔を見たら、すみれもきっと、あのお店の中で一緒に笑っているんじゃないかって、そんな気がしたよ」
「ええ、きっとそうね」
窓の外では、依然として冷たい冬の風が吹き荒れていた。けれど、庄司家のリビングには、そしてほんの少し離れた場所にある、食事処みかんの小さな灯りの下には、寒さを微塵も寄せ付けない、確かな人間のぬくもりと幸福な時間が、静かに、しかし力強く流れていた。
午後十一時を過ぎると、家の中の物音はすっかり途絶えてしまった。
さっきまで心地よさそうに酔っ払って熱弁を振るっていた信之も、お風呂に入ってすっきりと酔いを覚ました後は、さすがに一週間の疲れが出たのだろう、寝室の布団に入るなり静かな寝息を立て始めた。隣の部屋では、翔太が小さな身体を丸めて、温かい夢の中を泳いでいる。
暖房を切ったリビングは、ゆっくりと、しかし確実に冬の冷気に浸食され始めていた。時折、窓ガラスの向こうで北風がヒュウと鋭い口笛を吹く。防寒カーテンの隙間から滑り込んでくる冷たい空気が、しのぶの素足の足首を小さく撫で抜けていった。
しのぶは、一人でソファーに座っていた。
ローテーブルの上には、すっかり冷めてしまったハーブティーのカップがぽつんと置かれている。天井の大きな照明を消し、部屋の隅にあるスタンドライトだけを点していた。オレンジ色の仄かな光が、壁の一角にある飾り棚を静かに照らし出している。
そこには、小さな写真立てに収まった、娘・すみれの遺影があった。
三十一歳のとき、オープンを間近に控えた自分たちの店を夢見ながら、あっという間に病に倒れてしまった娘。写真の中のすみれは、短い髪を耳にかけ、こちらを真っ直ぐに見つめて、呆れるほど屈託のない、輝くような笑顔を浮かべている。
(夜営業、大盛況だったって。良かったわね、すみれ)
しのぶはそっと、声には出さずに心の中で語りかけた。
信之から聞いた食事処みかんの熱気は、しのぶの心を大いに安堵させてくれた。けれど、その安堵のすぐ後ろ側に、夕方、翔太が小さな手を振りながら無邪気に口にした名前が、トゲのように静かに引っかかっていた。
おねえちゃん。
小泉美里という、若くて美しい保育士の女性。夏祭りで見かけたときの、一生懸命に恵介を手伝い、翔太を我が子のように愛おしそうに見つめていた彼女の姿が、鮮明に脳裏をよぎる。信之の話では、今夜の初夜営業にも、彼女はカウンターの特等席に座って、誰よりも嬉しそうに恵介の料理を楽しんでいたという。
しのぶはゆっくりと立ち上がり、飾り棚の引き出しから、一冊の分厚いアルバムを取り出した。ずっしりとした重みのある、布張りの古いアルバムだ。それを抱えるようにして再びソファーに腰を下ろし、膝の上でそっと開いた。
最初のページには、まだ髪の毛が薄く、猿のようにシワシワだった赤ん坊の頃のすみれがいた。
ページをめくるたびに、娘はみるみると大きくなっていく。七五三の赤い着物姿、小学校の入学式で大きなランドセルに背負われている姿、中学の部活動で真っ黒に日焼けした笑顔、そして大学の卒業式。
すみれは昔から、何事もテキパキとこなす、本当に気のつく頼もしい子だった。
飲食コンサルタントとしての仕事を持ちながら、恵介と出会い、翔太を身ごもったときも、彼女は少しの不安も見せずに前を向いていた。『私ね、恵介と一緒に、この街で世界一温かいお店を開くの。それが私の、いちばんの夢なんだから!』そう言って、小さい我が子を抱きかかえながら、夜遅くまで店舗の図面やメニューの構成案を熱心に確認していた娘の姿が、まるで昨日のことのように思い出される。
物件がようやく見つかり、さあこれからという時に、神様はあまりにも残酷な現実を突きつけてきた。進行性の癌だった。発覚した時にはもう、手の施しようがないほど病魔は娘の身体を蝕んでいた。
「どうして、すみれなの…。どうして、私じゃなくて、この子が…」
病院の廊下で、信之と二人で何度涙を枯らしたか分からない。けれど、病床のすみれは、泣いてばかりいる両親の手をぎゅっと握り返し、消え入りそうな声で、しかし最後まで凛とした口調でこう言ったのだ。
『お母さん、お父さん。お願い、泣かないで…。私は大丈夫。でもね、恵介と、翔太のことが…それだけが、ほんの少しだけ心配なの。だから…二人を、よろしくね…』
それが、娘が遺した最後の、いちばん強い願いだった。
すみれが逝ってからの二年間、しのぶは信之とともに、その約束を片時も忘れたことはなかった。
何より、残された恵介の孤独と奮闘を、しのぶたちは一番近くで見守り続けてきたのだ。
まだ一歳だった翔太を抱え、恵介は独りで、すみれと約束したあの場所に食事処みかんを開いた。保育園に預けられる平日の、それもランチタイムだけという、飲食店としてはあまりに儲けの出ない、綱渡りのような経営だった。
昼間は一人で厨房に立ち、何十食もの定食を仕上げる。営業が終われば、大急ぎで店を片付け、夕方には翔太を迎えに行く。夜中、翔太が母親を恋しがって泣き叫ぶ夜は、一晩中小さな身体を抱き締め、一睡もせずに翌朝の仕込みに入っていたことがあったのも、しのぶは知っている。
いつ店に立ち寄っても、恵介の着ている作務衣はいつも真っ白に洗濯され、シワ一つなく綺麗に整えられていた。物腰はどこまでも柔らかく、必要以上に自分の辛さを周囲に漏らすことは決してない。けれど、ふとした瞬間に彼が見せる、遠くの空を見つめるような寂しげな横顔を見るたびに、しのぶは胸が締め付けられるような思いがしたものだった。
夫として、父親として、一人の料理人として。娘のすみれがあの世で誇らしく胸を張れるくらい、彼はこの二年間、自らの身を削るようにして翔太に愛情を注ぎ、店を守り抜いてきた。
だからこそ、今日の金曜夜営業という、新しい一歩を打診されたときは、心の底から嬉しかったのだ。彼がようやく、過去の絶望から這い上がり、自分の足で新しい未来へ向かって歩き出そうとしている。彼を応援しない理由など、どこにもなかった。
アルバムの最後のページを開く。
そこには、生まれたばかりの翔太を真ん中にして、まだ元気だった頃のすみれと、照れくさそうに微笑む恵介が並んだ、三人きりの家族写真が貼られていた。これが、すみれが写っている最後の写真だ。
「…本当に、よく似ているわね」
写真の中のすみれの目元は、今の翔太に驚くほどそっくりだった。
しのぶは写真の表面を、指の腹でそっと撫でた。冷たい硝子の感触だけが伝わってくる。
恵介が過去を乗り越え、誰かと新しい幸せを掴むことを拒む気持ちなど、毛頭ない。
それは本心だった。恵介はまだ若い。これから先の長い人生を、ずっと一人きりで、亡くなった妻の面影だけを抱いて生きていくなど、あまりにも残酷すぎる。翔太にだって、これから成長していく過程で、母親の代わりとなって温かく包み込んでくれる存在が必要になるかもしれない。
もしその相手が、優しくて誠実な女性であるならば、義理の親として、これ以上の喜びはないはずだった。
恵介には、幸せになってほしい。今度こそ、誰の目も気にせず、心から笑える平穏な日々を掴み取ってほしい。
けれど。
しのぶは、小さく膝の上で拳を握り締めた。爪が手のひらにくい込み、微かな痛みが走る。
手放しで本当に良かったと大喜びできるほど、母親としての自分の心は、単純でも、綺麗でもなかった。
「寂しいのよ、すみれ…。ごめんなさいね、出来の悪いお母さんで」
ぽつりと漏らした言葉は、冬の夜の静寂の中に、力なく沈んでいった。
胸の奥底に澱のように溜まっているのは、醜い嫉妬などではなく、遺された親としての、どうしようもない切ない本音だった。
恵介が新しく誰かを愛し、翔太が新しい母親に懐いていく。それは、二人の生活から、すみれの気配が少しずつ消えていくことと同義ではないのか。
いつか、恵介の隣に別の女性が並び、翔太がその人をママと呼ぶ日が来るかもしれない。新しく作られた温かい家族の形の中で、すみれの思い出話をする機会は、次第に減っていくのではないか。
誰よりも強く家族を愛していた娘の存在が、奥に仕舞い込まれてしまうのではないか。
忘れないでほしい。
どうか、あの子がこの地上に生きて、誰よりも一生懸命にあなたたちを愛していたことを、ずっとずっと、忘れないでほしい。
そんな、言葉にすればあまりにも身勝手で、恵介たちの足を引っ張るような親のエゴが、胸の奥で黒い煙のようにモヤモヤと渦巻いている。
こんなことを考えてしまう自分が情けなかった。シングルファザーとして血の滲むような努力をしてきた恵介に対して、なんて酷な感情を抱いているのだろうと、強い自己嫌悪が押し寄せてくる。
恵介にそんな顔を見せたら、彼はきっと責任を感じて、また自らの殻に閉じこもってしまうに違いない。
しのぶはアルバムを静かに閉じ、胸にきつく抱き締めた。布張りの表紙から、冷えた体温が伝わってくる。
スタンドライトの明かりの向こうで、すみれの遺影が、相変わらず屈託のない笑顔でしのぶを見つめていた。まるで『お母さん、何をごちゃごちゃ悩んでるのよ。私は大丈夫だって言ってるじゃない』と、呆れ笑いをしているかのように。
そうね、あなたはいつだって、自分のことより周りの人の心配ばかりしていたわね。
しのぶは小さく鼻をすすり、目元に浮かびそうになった涙を、手の甲でそっと拭った。
簡単に言葉にできるような、綺麗な感情だけでは生きられない。
けれど、それを恵介や翔太にぶつけることだけは、絶対にしないと心に誓った。それがあの子たちを一番近くで見守ると決めた、自分たちの役割なのだから。
しのぶはゆっくりと立ち上がり、アルバムを元の引き出しへと仕舞った。それから、すみれの遺影の前に歩み寄り、小さな蝋燭の火を消した。部屋の中に、線香の微かな残り香がふわりと漂う。
「おやすみなさい、すみれ。明日ね、恵介くんが翔太くんを迎えにくるわ。私、ちゃんと言葉にして伝えるからね。だから、あなたもそこから、しっかり見守っていなさい」
スタンドライトのスイッチを消すと、リビングは一瞬にして冬の深い闇に包まれた。
窓の外では、風の音が依然として冷たく響いている。けれど、しのぶの胸の中にあった激しい交錯は、夜の更けるとともに、少しずつ、穏やかな決意へと形を変え始めていた。
翌朝の土曜日は、雲一つない見事な冬晴れとなった。
窓から差し込む朝の光は、冬特有の低く鋭い角度を保ちながら、庄司家のリビングのフローリングを細長く、白々と照らし出している。空気はどこまでも澄み切っており、ベランダのアルミサッシにそっと触れると、指先が凍りつきそうなほどの冷気が伝わってきた。
「じいじ、見て!ぶーぶ、はしるよ!」
「おお、速いなぁ。この赤いのはスポーツカーかい?」
リビングの奥にある畳スペースでは、すっかり目の覚めた翔太が、信之とおもちゃのミニカーを床に走らせて賑やかに遊んでいた。子供の無邪気な笑い声と、信之の少し掠れた優しい声が、静かな朝の室内に心地よく響いている。
しのぶはキッチンで、昨夜の片付けをしながら温かいほうじ茶を淹れていた。
昨夜、一人でアルバムを開き、亡き娘の遺影の前で涙を堪えた長い夜が、嘘だったかのように穏やかな朝だった。




