雫
胸の奥に渦巻いていた相反する二つの本音、恵介に前を向いてほしいという願いと、すみれを忘れないでほしいという切なさは、一晩が経った今も消えたわけではない。
けれど、冷たい朝の光を浴びているうちに、それらは刺々しさを失い、静かな決意のような重みとなって、しのぶの心に定着していた。
午前九時を少し回った頃、静かにインターホンが鳴った。
「あ、とと!」
翔太がいち早く反応し、ミニカーを放り出してパタパタと玄関へと駆けていく。信之が慌てて「こらこら、翔太、転ぶぞ」と言いながらその後を追った。
カチャリと玄関の扉が開く音と同時に、冬の凛とした冷たい空気がリビングまで流れ込んできた。
「おはよ!とと!」
「おはよう、翔太。じいじとばあばの言うこと、ちゃんときいてたか?」
「うん!おなべ、いっぱい食べた!」
そんな微笑ましい親子の会話を聞きながら、しのぶも玄関へと出迎えた。
そこに立っていた恵介は、大きな荷物の入ったバッグを肩にかけ、防寒用のネイビーのダウンジャケットを着込んでいた。
初の夜営業を深夜までこなしたせいだろう、その目元にはわずかに睡眠不足の影が滲み、薄い隈ができている。けれど、その表情はランチ営業の時よりもどこか晴れやかで、一仕事をやり遂げた料理人としての確かな充実感が、その佇まいから静かに伝わってきた。
「お母さん、おはようございます。昨夜は遅くまで翔太をお預かりいただいて、本当にありがとうございました」
恵介はジャケットを脱ぎながら、いつもと変わらない美しい所作で、しのぶに向かって深く一礼した。
「いいのよ、恵介くん。初めての夜営業、本当にお疲れ様。お父さんから聞いたわよ、お店、入りきらないくらいの大盛況だったんですってね」
しのぶが微笑むと、恵介は少し照れくさそうに目元を緩めた。
「はい。不慣れなことも多くてお客様をお待たせしてしまったのですが…皆さん本当に温かくて。商店街の会長さんや、昔の職場の師匠、それに宮城のお客さんまでわざわざ顔を出してくれたんです。本当に、ありがたい夜でした」
そう言って、恵介は持っていた手提げ袋から、やや大きめの、ずっしりとしたプラスチック製のタッパーを取り出した。半透明の容器の向こうには、琥珀色の液体と、何やら丸い具材が透けて見えている。
「これ、昨夜のおでんの残りなんです。一晩経って、昨日お見せした時よりもずっと味が染み込んでいるので、もしよろしければ、遅くなっちゃいましたが、皆さんの朝食の一品にと思って持ってきたのですが…」
「まあ、嬉しい。お父さん、聞いた?恵介くんがおでんを持ってきてくれたわよ」
キッチンの入り口から覗いていた信之が、「おお!それはありがたい。ゆうべ、あんなに美味いものを食べたのに、朝起きたらまたあのおでんの味が恋しくなっていたところなんだ」と、子供のように目を輝かせた。
しのぶは恵介からタッパーを受け取り、キッチンへと向かった。
蓋を開けた瞬間、部屋の中にふわりと、濃厚な香りが広がった。
昨日の昼下がりに店で嗅いだ出汁の香りが、上品で瑞々しい動の香りだったとするならば、一晩を置いたこのおでんの香りは、すべての具材の旨味が限界まで溶け合い、熟成された深みを持っていた。
鰹と昆布の気品ある香りの奥に、練り物から出た芳醇な油分の甘み、そして牛すじから滲み出た濃厚な肉のコクが完全に一体化している。冷やされた出汁は、具材のコラーゲン質によって、煮こごりのようにほんのりとろみを帯びていた。
しのぶはタッパーから具材が崩れないよう、お玉をそっと下に滑らせて、庄司家のお鍋へと丁寧に移し替えた。琥珀色の出汁がとろりと流れ込み、大きな大根や玉子、ちくわぶが鍋の中で静かに収まる。
ガスコンロの弱火にかけると、じわじわと鍋の縁から出汁が溶け、白い湯気が立ち上り始めた。熱が加わるにつれて、おでんの香りはさらにその密度を増し、リビング全体を優しく包み込んでいく。
「さあ、温まったわよ。みんなでいただきましょう」
しのぶは、小ぶりな深皿に大根と玉子、練り物を取り分け、出汁をたっぷりと注いで食卓へと運んだ。
朝食のテーブルの中央に、湯気を立てるおでんが並ぶ。
しのぶは、自分の前に置かれた大根をじっと見つめた。
それは、見事なまでの琥珀色に染まっていた。昨日の仕込みの段階では、内側にまだわずかな白さを残していた大根が、一晩という時間をかけて、出汁のすべての旨味をその身の奥深くまで吸い尽くしたのだろう。中心部まで完全に透明感のある、美しい濃い飴色に変貌している。大根の表面には、出汁を湛えた細かな気泡がかすかにきらめいていた。
手にした箸を、大根の中央へとそっと下ろしてみる。
しのぶは思わず、小さく息を呑んだ。
力を入れる必要など、全くなかった。繊維の隙間に箸の先が触れたかと思うと、吸い込まれるようにすっと下に通り、何の抵抗もなく、大根が綺麗に二つへと割れたのだ。割れた断面からは、閉じ込められていた熱い出汁が溢れ出して皿に広がっていく。
その一切れを、ふーふーと息を吹きかけてから、口へと運んだ。
噛んだ瞬間、しのぶの脳裏に、心地よい衝撃が走った。
柔らかく煮込まれた大根の繊維から、凝縮された豊潤な旨味が、爆発するように口いっぱいに広がった。それはただ塩辛いとか、出汁の味が濃いというものとは、次元が違っていた。
利尻昆布のまろやかな旨味と、高級な鰹節の気品ある風味が、大根そのものが持つ冬の瑞々しい甘みと、完璧に混じり合っている。
さらに、一緒にじっくり煮込まれたさつま揚げや牛すじのコクが、大根の奥深くまで完全に浸透しており、噛むたびに深みのある味わいが、じんわりと喉の奥へと染み渡っていく。
「…美味しい…」
しのぶの口から、ため息のような言葉が自然と漏れた。
温かいおでんが胃に落ちると、その優しい温もりが、血管を通じて身体の隅々へと広がっていく。それと同時に、昨夜、静まり返ったリビングで一人、娘のアルバムを抱き締めながら胸を締め付けられていたしのぶの心の強張りが、まるでお湯に溶ける雪のように、みるみるほどけていくのが分かった。
この味は、一朝一夕で出せるものではない。恵介が昨日、ランチ営業を終えたその足で、どれほど丁寧におでんを仕込み、火加減を気にかけ、この鍋と向き合ってきたか。彼の費やした時間と誠実さのすべてが、この一杯に凝縮されている。
「恵介くん、本当に美味しいわ。ゆうべ、お父さんが満席の店内で、胸がいっぱいになったって言っていた理由が、今なら本当によく分かる」
しのぶが目を細めて伝えると、信之も大根を口に放り込み、「なぁ、しのぶ、本当に最高だろう。一晩経って、さらに味が丸くなっている。これはもう、芸術品だよ」と、何度も嬉しそうに頷いた。
「ととのおでん、しょうたもすき!」
翔太も小さく切ってもらったちくわを美味しそうに頬張り、小さな口の周りを出汁で濡らしながら笑っている。
恵介は、そんな庄司家の様子を、食卓の少し離れた席から静かに見つめていた。その優しい瞳には、自らの料理が大切な家族の心と身体を温めていることへの、料理人としての静かな誇りと、深い安らぎが満ちていた。
やがて朝食が終わり、賑やかな片付けの時間が過ぎた。
「翔太、じいじと一緒にお庭のお魚さんに、ご飯をあげにいこうか」
「いく!おさかなさん、おなかすいてる?」
「ああ、きっと待ってるぞ。上着を着ていこうな」
信之が空気を察したわけではなかったかもしれない。けれど、孫の相手をすることにかけては一日の長がある夫は、自然な動作で翔太の手を引き、リビングの掃き出し窓から、冬の陽光が降り注ぐ小さな庭へと出ていった。
パタパタという足音と、戸が閉まる静かな音が響き、リビングにはしのぶと恵介の二人だけが残された。
室内には、まだかすかにおでんの優しい残り香が漂っている。
しのぶは、新しく淹れた緑茶の湯呑みを恵介の前にそっと置いた。恵介は「ありがとうございます」と静かに頭を下げ、湯呑みを両手で包み込むようにして持った。
その大きな手は、何十万回、何百万回と包丁を握り、熱い鍋に触れてきた料理人の手だ。少し荒れてはいるが、一本の芯が通ったように美しい。
しのぶは、恵介の正面の席にゆっくりと腰を下ろした。
窓の外からは、庭で信之と翔太が何かを話しながら笑い合っている、微かな声が聞こえてくる。冬の朝の光が、恵介の肩を優しく照らしていた。
しのぶは、ゆっくりと深く息を吸い込み、胸の中で一晩かけて温めてきた言葉を、自らの声へと紡ぎ出した。
「恵介くん」
「はい、お義母さん」
恵介は湯呑みをテーブルに置き、しのぶの真っ直ぐな視線を受け止めた。その物腰は穏やかで、誠実だった。
「ゆうべね、お父さんからお店の様子をたくさん聞いたわ。美里さんは、一番に来てくださったそうね」
美里、という名前を出した瞬間、恵介の端正な眉が、ほんの一瞬だけピクリと動いた。彼は否定することも、慌てることもせず、ただ静かにしのぶの言葉の先を待っている。その実直な態度を見て、しのぶの心からは、迷いや躊躇いが完全に消え去った。
「美里さんのことは、夏祭りの時も、それから普段の翔太くんのお話からも、よく伺っているわ。本当に優しくて、私たちの知らないところで、あなたや翔太くんのことを、支えてくださっているのね」
「…はい。本当に、感謝してもしきれないほど、お世話になっています。僕たち親子のことを、いつも気にかけ、助けてくださる、本当に大切な方です」
恵介の声は低く、落ち着いていたが、そこには美里に対する深い敬意と、割り切れない確かな感情が、混ざり合っていた。
しのぶは、小さく頷いた。そして、湯呑みを持つ自分の手を少しだけ前に進め、恵介の目を見つめて、一文字ずつ、語りかけるように言葉を紡いだ。
「恵介くん。当然のことだけど…私たちはね、あなたと翔太くんが、今後どんな家族の形を作ることも、否定したりしないからね」
恵介は、一瞬、驚いたように小さく目を見開いた。彼の指先が、微かに震える。
「お義母さん、それは…」
「いいの、聞いてちょうだい」
しのぶは、遮るように優しく微笑んだ。その微笑みには、昨夜の長い葛藤を乗り越えた母親としての、どこまでも深い慈愛が込められていた。
「すみれが亡くなってからの二年間、あなたがどれほどの孤独の中で、どれだけ必死に翔太くんを育てて、あのお店を守ってきたか…誰よりも近くで見てきたのは、私たちだもの。あなたはまだ若い。これから先の長い人生を歩んでいくのよ。過去の悲しみだけに縛られて、ずっと一人きりで生きていくなんて、そんなこと、誰も望んでいないわ。何より、あの世にいるすみれだって、あなたのそんな苦しむ姿は見たくないはずよ」
しのぶの言葉を聞きながら、恵介はぎゅっと唇を噛み締めた。その端正な顔が、何かを必死に堪えるように微かに歪む。
「あなたが新しく誰かを大切に想うことも、翔太くんに新しい温もりが必要になることも、それはすべて、生きている人間にとって、とても自然で、とても幸せなことなの。だからね、恵介くん…私たちの顔色なんて、これっぽっちも気にしなくていいのよ。忘れないでほしい気持ちはあるけれど、それはあなたが一番よく分かってくれているはずだから。だから、何も恐れずに、安心して、前を向いて歩きなさい」
そこまで言い終えると、しのぶはふう、と深く息を吐いた。
言葉にして、自分の口から外へ出してしまった瞬間、胸の奥に残っていた最後の強張りが、完全に消えてなくなったのが分かった。すみれを忘れないでほしいという親としての切ない本音は、恵介の誠実さを信じることで、彼への祝福へと綺麗に昇華されたのだ。
恵介は、じっとテーブルの一点を見つめたまま、動かなかった。
長い沈黙が、リビングを支配する。窓の外からは、相変わらず翔太の元気な笑い声が聞こえていた。
やがて、恵介の大きな手の上に、ポツリ、ポツリと、透明な雫が落ちて、小さなシミを作った。
恵介は、泣いていた。
この二年間、どんなに辛い夜も、どんなに身体が引き裂かれそうなほど忙しい日々も、しのぶたちの前では決して弱音を吐かず、涙一つ見せなかったあの恵介が、子供のように静かに肩を震わせて、涙を流していた。
彼は一度、乱暴に目元を拭うと、ゆっくりと立ち上がり、しのぶの前に歩み寄った。そして、畳の床に真っ直ぐに膝をつき、しのぶに向かって、深く、深く頭を下げた。
「…ありがとうございます。お義母さん…本当に、ありがとうございます…」
床に擦り付けられた恵介の声は、激しく震え、涙でひどく掠れていた。
「この二年間、僕は…すみれとの約束を守ることだけを考えて、必死に走ってきました。心のどこかで、自分が新しく一歩を踏み出すことは、すみれを裏切ることになるんじゃないか、お義母さんやお義父さんを傷つけてしまうんじゃないかと…ずっと、怖かったんです。ランチ営業の殻を破ることも、自分の未来を考えることも、どこかでブレーキをかけていました」
恵介の背中が、感情の奔流に耐えるように大きく上下する。
「でも、お義母さんにそう言っていただけて…救われました。僕は、すみれのことを片時も忘れたことはありませんし、これから先も、僕たちの心の中にすみれはずっと生き続けています。その上で、翔太の未来のために、そして自分の人生のために、一歩ずつ、前を向いて歩いていきます。お義母さん、本当に…ありがとうございました…」
しのぶは、膝をついた恵介の広い背中に、そっと温かい手を置いた。
かつて、すみれの通夜の席で、声を殺して泣き崩れていたあの頼りなげな背中は、二年の歳月を経て、多くの人々に愛される、立派な父親の背中へと、成長していた。
「いいのよ、恵介くん。顔を上げなさい。さあ、お茶が冷めてしまうわ」
しのぶが優しく声をかけると、恵介は何度も頷きながら、ゆっくりと顔を上げた。その瞳は赤く腫れていたけれど、そこにはもう、二年前のような絶望は一ミリも残っていなかった。
ただ、未来への確かな希望と、深い感謝の光に満ちていた。
「とと!ばあば!お魚さん、おなかいっぱい!」
突如、掃き出し窓が勢いよく開き、冷たい風と一緒に、頬を真っ赤に染めた翔太が飛び込んできた。その後ろから、信之が「これこれ、翔太、手をちゃんと拭きなさい」と、苦笑しながら入ってくる。
恵介は慌てて笑顔を作り、しゃがみ込んで翔太の小さな身体を受け止めた。
「そうか、お魚さん、お腹すいてたんだな。良かったなぁ、翔太」
「うん!あのね、じいじがね、つぎは、ぶーぶであそぼうって!」
翔太は恵介の首に小さな手を巻き付け、嬉しそうに声を弾ませる。その親子の姿を、信之としのぶは並んで、心からの温かい眼差しで見つめていた。




