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食事処みかん  作者: 蜜柑次郎
鴨のロースト

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32/46

悪戯心

 シャルル・ド・ゴール空港から飛び立った旅客機が成田国際空港の滑走路にタイヤを滑らせたとき、早川宗一は深い安堵の息を吐き出した。


 長時間のフライトによって、機内の乾燥した空気が喉の奥に張り付いている。パリのレストランでオーナーシェフとして厨房を率いる日常は、息つく暇もない激務の連続だ。


 まもなく丸二年を迎える息子の店と、愛おしい孫の顔を見るために強引に作った一週間の休暇。日本に降り立ち、タラップを抜けて入国ゲートへと向かう通路で、宗一はコートの襟を正した。


 三月の日本の空気は、まだ肌を刺すような冷たさを残している。しかし、大陸的な乾燥に閉ざされた冬のパリとは違い、どこか湿り気を帯びた日本の風には、目には見えない春の気配が小さく混ざり合っているように感じられた。


 連絡を入れずに成田から直行したのは、父親としてのちょっとした悪戯心と、それ以上に、普段の息子の姿をこの目で確かめたかったからだ。


 いくつかの路線を乗り継ぎ、駅へ着いた頃には、夜の帳がすっかり下りていた。見覚えのある商店街は、帰路を急ぐ会社員や買い物袋を下げた主婦たちで行き交っている。人情味のある良い街だ、と宗一は改めて思う。


 商店街の賑やかさを抜け、静かな住宅街へと差し掛かる角を曲がると、暗がりのなかに、ぽつんと温かいオレンジ色の光が見えてきた。


 二年前、最愛の妻であるすみれを亡くし、絶望の底にいた恵介が、この店を一人でやり切ると頑なに暖簾を掲げた日のことを、宗一は昨日のことのように思い出せる。遠い異国から千鶴とともにどれだけ心配し、やきもきしてきたことか。


 昨年十一月から、週末の金曜日だけ夜の営業を始めたという話は、中国にいる千鶴も含めてビデオ通話をして耳にしていた。平日のランチ営業だけで細々と凌いでいた息子が、夜に暖簾を出す。それは恵介が、一歩前へ進み始めた証拠に違いなかった。


 宗一はゆっくりと歩を進め、木製の引き戸に手をかけた。


 ガラガラと音を立てて戸を開けた瞬間、宗一の眼鏡が真っ白に曇った。


 一歩足を踏み入れた店内に満ちていたのは、凍てつく外気とは対極にある、圧倒的な和の温もりだった。眼鏡を外し、ハンカチで拭いながら顔を上げると、白く立ち上る湯気の向こうから、優しく芳醇な香りが鼻腔をくすぐった。


 利尻昆布のふくよかな甘みと、丁寧に引かれた鰹節のすっきりとした、けれど芯のある旨味の香り。プロの料理人である宗一の鼻は、その出汁の香りが一朝一夕で身につくものではない、確かな技術に裏打ちされたものであることを瞬時に見抜いた。


「いらっしゃいませ!」


 厨房の奥から響いたのは、よく通る、しかし物腰の柔らかい息子の声だった。


 カウンターが八席に、小さな座敷が二つ。小ぢんまりとした店内は、ほぼ満席の賑わいを見せていた。仕事帰りのサラリーマンがビールジョッキを傾け、地元の老夫婦が静かに皿をつついている。誰もがリラックスした表情を浮かべ、店全体が穏やかな幸福感に包まれていた。すっかり地元の憩いの場として定着しているその活気に、宗一は胸が熱くなるのを覚えた。


 恵介は注文の小鉢を手際よく盛り付けながら入口に目を向け、そして、息を呑んだ。


「…父さん!?」


 洗練された所作でいつも冷静な恵介が、丸く目を見開いて声を裏返している。その様子が可笑しくて、宗一は悪戯が成功した子供のように悪びれず笑った。


「連絡もしないで悪かったな。成田から直行してきたんだ。一杯、もらえるかい」


「驚かせないでよ…。でも、よく来てくれたね。ちょうどカウンターが一つ空いたから、そこへどうぞ。今、おしぼりを持っていくから」


 恵介はすぐにいつもの柔らかな微笑みに戻り、カウンターのいちばん奥の席を指し示した。


 宗一が荷物を足元に置き、コートを壁のフックに掛けて席に着くと、隣の席に座っていた若い女性が、小さく声を上げた。


「あ…お久しぶりです、早川さん」


 上品に頭を下げたのは、昨年の夏祭りで恵介の出店を手伝ってくれていた美里だった。


「おや、小泉さん。お久しぶりです。夏祭り以来ですね」


 宗一は目を細めて微笑んだ。夏祭りの賑やかな喧騒のなかで、恵介を献身的に支え、翔太を愛おしそうに見つめていた彼女の姿を、宗一はよく覚えていた。


「はい、あの時は大変お世話になりました。フランスから帰国されたばかりなんですか?」


「ええ、さっき飛行機が着いたところでね。恵介の夜営業がどんなものか、覗いてみたくてね」


 美里は「そうだったんですね」と、嬉しそうに目を細めた。彼女の前に置かれているのは、小さな徳利と猪口、そしていくつかの上品な小鉢だ。一人の時間を静かに、そして心から楽しんでいることが、その佇まいから伝わってくる。


「父さん、まずはこれ。長旅、お疲れ様」


 恵介がカウンター越しに差し出したのは、冷えた日本酒のグラスと、小さなすり鉢に入ったお通しだった。


「お、美味そうだな。ありがたくいただくよ」


 宗一はグラスを受け取り、美里に向かって小さく掲げた。美里も「お疲れ様です」と自身の猪口をトントン、と合わせる仕草をしてくれる。


 喉を潤した日本酒は、すっきりとした辛口のなかに米の芳醇な旨味が広がり、旅の疲れがじわりと溶けていくようだった。


「今日の夜の小料理だ。口に合うといいけど」


 恵介が目の前に置いてくれたのは、二つの小鉢だった。ひとつは、じっくりと飴色に煮込まれた大根に、鮮烈な緑色の味噌が天盛りにされたふろふき大根。もうひとつは、薄緑色の美しい蕾が顔を覗かせる、蕗の薹と白魚の卵とじだ。


「ほう、もう蕗の薹か。春を先取りしているね」


 宗一は料理人としての目を輝かせ、箸を伸ばした。


 まずはふろふき大根を箸で割る。驚くほど抵抗なく、スッと箸が通った。口に運ぶと、大根の繊維の奥深くまで染み込んだ極上の出汁が、ジュワリと口いっぱいに溢れ出す。えぐみは一切なく、大根そのものが持つ優しい甘みが出汁の旨味と完璧に調和している。


 そして、上に乗せられた蕗味噌。細かく刻まれた蕗の薹の鮮烈なほろ苦さと香りが、甘めの味噌の中で見事に主張しており、口のなかに一足早い春の風を吹き込んでいく。


「…いい出汁だ。大根の湯むきも完璧だな。料亭時代より、さらに味が優しくなったんじゃないか?」


 宗一の言葉に、恵介は少し照れくさそうに頭を掻いた。


「商店街の皆さんが、いつもいい食材を回してくれるんだ。お年寄りの常連さんも多いから、出汁の塩梅はランチのときからずっと試行錯誤してて」


 次に蕗の薹と白魚の卵とじを口に含む。優しくふんわりと火が入れられた卵のなかに、白魚のほのかな塩気と旨味、そして蕗の薹の独特の苦味がアクセントとして光っている。和食の繊細な技術が、居酒屋メニューの枠を遥かに超えて詰め込まれていた。


「美味しいですよね」


 隣から、美里が誇らしげな声をかけてきた。まるで自分が褒められたかのように、彼女の瞳はキラキラと輝いている。


「早川さんの作るお料理は、どれも一口食べるたびに、体の中がじんわりと温かくなっていく気がするんです。この蕗の薹も、春が待ち遠しくなるような、本当に素敵なお味で…」


 美里の言葉には、お世辞や社交辞令といった濁りが一切なかった。ただ純粋に、恵介の作る料理を愛し、リスペクトしている。その聡明で真っ直ぐな言葉の端々から、彼女の温かい人柄が伝わってきて、宗一は嬉しくなった。


「小泉さんは、よくこの夜営業に来られるんですか?」


「はい、金曜日の夜は、一週間がんばった自分へのご褒美なんです。平日は保育園の仕事が忙しくて自炊も簡単なものになりがちなので、ここで早川さんのご飯とお酒をいただくと、あぁ、また明日から頑張ろうって思えるんです」


 美里はそう言って、厨房の奥で別の客の注文をこなしている恵介の背中に、そっと温かい眼差しを向けた。


 その視線には、単なるお気に入りの店の店主に対するもの以上の、深い信頼と、慈しむような情が含まれているように、宗一の目には映った。


「そういえば、翔太くんは元気ですか?」


 美里が、あさりの酒蒸しを運んできた恵介に尋ねた。


「ええ。楽しそうに泊まりに行きましたよ。義両親も喜んで預かってくれるんです。僕が夜も店を開けられるのは、本当にお義父さんとお義母さんのおかげですね」


 恵介はそう言いながら、美里の空いたグラスにそっとお冷を注ぐ。その動作のひとつひとつ、視線の交わし方に、二人の間に築かれてきた時間の長さと、自然な空気感が滲み出ていた。


 必要以上に干渉せず、けれどお互いの存在を確かに心地よく感じ合っているような、静かで確かな空気。


 二年前、すみれを亡くしたばかりの恵介は、張り詰めた背中をしていた。翔太を守るため、すみれとの夢だった店を守るためだけに、自らを削って生きていた。


 だが今、カウンター越しに美里と他愛のない会話を交わす息子の表情は、あの頃とは見違えるほど柔らかい。


「小泉さん、翔太のことも、いつも気にかけてくださってありがとうございます。この前も、いただいた絵本を毎晩のように読んでってせがまれて」


「本当ですか?嬉しい。翔太くん、乗り物の絵本が本当に大好きですもんね。また新しいおすすめがあったら持っていきますね」


 美里の顔に、満開の桜のような華やかな笑顔が咲く。


 その笑顔を見つめる恵介の目元も、優しく緩んでいた。


 宗一は、手元の日本酒をゆっくりと口に含みながら、二人のやり取りを静かに見守った。親として、料理人の先輩として、恵介がこの二年どれほどの孤独と戦ってきたかを知っている。


 だからこそ、息子の心をこれほどまでに解きほぐし、その空間を温かく満たしてくれている彼女の存在が、たまらなく尊いものに思えた。


「いい夜だな」


 宗一が小さく呟くと、恵介は「え?」と聞き返した。


「いや、なんでもないよ。日本の酒と、息子の料理が食える、素晴らしい夜だと言ったんだ」


 宗一が笑うと、美里も「ふふ、本当ですね」と悪戯っぽく微笑んだ。


 外の風はまだ冷たく、冬の終わりを告げるように強く吹いている。しかし、この小さな厨房とカウンターのあいだには、確実に、新しい季節を告げる温かな風が吹き込み始めていた。


 宗一は、愛おしい二人の姿を見つめながら、心からの幸福感とともに、再びグラスを傾けた。


 金曜日の賑やかな夜営業が終わり、片付けを終えた恵介と共に店舗の二階にある住居へ上がった。


 かつてすみれが選び、三人で暮らすはずだったその部屋は、男手一つで子育てをしているとは思えないほど、隅々まで綺麗に整頓されていた。子供用の小さな玩具が箱にきちんと収められ、棚には絵本が並んでいる。生活感はあっても、荒んだ空気は微塵もない。


 恵介が日々、どれほど丁寧に翔太との時間を積み重ねてきたかが、部屋の佇まいだけで痛いほど伝わってきた。


 その夜、宗一は用意してもらった布団に横になり、フライトの疲れから泥のような深い眠りに落ちた。


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