異国の食材
翌朝、窓の外から差し込む柔らかな光で目が覚めた。
時計を見ると、まだ朝の七時を回ったところだった。リビングへ向かうと、すでにエプロンをつけた恵介が家庭用の小さなキッチンに立っていた。
「あ、父さん。おはよう。よく眠れた?」
「ああ、驚くほどな。時差ボケも吹き飛んだよ」
恵介はトントンと軽快な音を立てて長葱を刻んでいた。その手元の鮮やかさは、やはり一級の料理人のものだ。
「今、簡単な朝飯作るから、座って待ってて」
そう言って供されたのは、炊きたての白いご飯に、豆腐と若芽の味噌汁、出汁巻き卵、そして網でさっと炙っただけの油揚げだった。
宗一が箸をつけると、味噌汁の優しく豊かな出汁の香りが鼻腔を抜けた。出汁巻き卵は、箸で押さえるとじんわりと琥珀色の出汁が滲み出てくる。奇をてらわない、けれど完璧な和の朝食。
「美味いな…。身体の芯から解れるようだ」
「ありがとう、父さん。夜営業の残りの出汁だけどね」
恵介は嬉しそうにはにかみながら、自分の分の白米を口に運んだ。プロのフレンチシェフとしてパリでしのぎを削る宗一にとって、この息子の和食こそが、世界で一番贅沢なご馳走に思えた。
午前十時を過ぎた頃、階下から賑やかな声が響いてきた。
「ただいまー!」
バタバタと小気味よい足音が階段を駆け上がってきて、リビングの引き戸が勢いよく開く。
そこに立っていたのは、青いダッフルコートを着た小さな男の子だった。
「翔太…!」
宗一が思わず立ち上がると、その子は丸い目をさらに大きく見開いた。
「…じいじ!じいじがいる!」
弾かれたように駆けてきた翔太が、宗一の膝に思いきり飛び込んできた。小さな、けれど確かな重みと、子供特有のひだまりのような温かさが胸いっぱいに広がる。宗一はたまらず孫をきつく抱きしめた。
「おお、翔太、大きくなったなぁ!じいじは会いたかったぞ」
「うん!しょうたも、じいじに会いたかった!」
腕の中で、翔太が満面の笑みを浮かべて首を振る。
昨年、夏祭りの時に会ったときよりも、明らかに体つきがしっかりとしていた。お喋りも驚くほど流暢になり、幼い幼児から、すっかり男の子の顔つきへと成長している。
「すみません、お邪魔します。まあ、早川さん、いつ日本に?」
引き戸の向こうから、翔太の小さな靴を両手に持ったしのぶが、穏やかな笑みを浮かべて入ってきた。その後ろからは、荷物を持った夫の信之も顔を覗かせている。
「庄司さん、ご無沙汰しております。昨日の夜に成田に着きまして、連絡もせず押しかけてしまいました」
宗一が頭を下げると、信之がハハハと豪快に笑った。
「いやいや、まさか早川さんいらっしゃるとはね。昨日、翔太を預かっておいて正解でしたな。親子水入らずで飲めたでしょう」
「本当に。いつも翔太のこと、ありがとうございます」
恵介がお茶を淹れながら、庄司夫妻に深く一礼する。
「何言ってるの、私たちは翔太くんと過ごせるのが一番の楽しみなんだから。ねえ、翔太くん、昨日の夜はじいじとばあばと、何して遊んだんだっけ?」
しのぶが優しく問いかけると、宗一の腕の中にいた翔太が、得意げに胸を張った。
「ブロックでね、おっきな、電車作ったの!ととに見せるんだー!」
「そうか、すごいなぁ。あとで見せてあげような」
信之が翔太の頭を大きな手で手荒に、けれど限りない慈愛を込めて撫でる。
その光景を見つめながら、宗一は胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じていた。
二年前、すみれが亡くなったばかりの頃の翔太は、まだ二歳になる前だった。母親が突然いなくなった恐怖と悲しみから、当時は毎晩のように夜泣きをし、どこか怯えたように恵介の顔色を窺っていた。笑うことも忘れ、小さな身体で必死に耐えているようだった。
あの痛々しかった幼子が、今、こんなにも健やかに、屈託のない笑顔で笑っている。
それは、恵介の血の滲むような努力はもちろんのこと、こうして実の孫のように寄り添い、無償の愛を注ぎ続けてくれた庄司夫妻の存在があったからこそだ。時間の経過と、周囲の温かい手が、小さな男の子の心の傷をゆっくりと、確実に癒やしてきたのだ。
「早川さん、せっかくの休暇なんですから、今回はゆっくりしていってくださいね。恵介くんも、お父さんがいてくれれば心強いでしょう」
しのぶはそう言って、恵介と宗一を交互に見つめ、母親のような温かい眼差しを向けた。
「ありがとうございます。一週間ほどゆっくりしようと思ってます」
庄司夫妻は、翔太が喜んで宗一にべったり張り付いているのを見て、「それじゃあ、私たちはこれで」と、無駄に長居せずスマートに帰っていった。
本当に押し付けがましさのない、思慮深く優しい人たちだった。
「じいじ、これ見て!これ、しょうたの宝物!」
庄司夫妻を見送った後、翔太は自分の部屋から小さなミニカーのコレクションが入った箱を抱えて戻ってきた。
「ほう、これは消防車か。かっこいいなぁ」
「こっちはね、ブルドーザー!あっちの工事でガガガって!」
身振り手振りを交えながら、一生懸命に説明してくれる翔太。宗一は完全にじいじの顔になり、床に膝をついて一緒になってミニカーを走らせた。
ひとしきりミニカーで遊んだ後は、リビングのソファに二人で並んで座り、絵本を開いた。翔太が「これ読んで」と持ってきたのは、少し角が擦り切れた乗り物の図鑑だった。
「消防車の絵本か。懐かしいな、恵介が小さい頃もよく読んだよ」
「しょうた、これだーいすき!おねえちゃんもね、これ読んでくれたの!」
何気なく放たれた孫の言葉に、宗一の胸が小さく跳ねた。
「おや、小泉さんも読んでくれたのかい?」
「うん!おねえちゃん、絵本読むのとっても上手なの!それにね、しょうたがね、えーんってなったら、ぎゅーってしてくれるの」
翔太はそう言って、嬉しそうに自分の身体を両腕で抱きしめる仕草をした。
キッチンで夜の仕込みの段取りをしていた恵介が、一瞬だけこちらを振り返り、少し照れくさそうな、けれどどこか愛おしそうな複雑な苦笑いを浮かべた。
美里がこの家に自然に入り込み、翔太の母親のいない寂しさを、その優しい手で埋めてくれている。昨日、カウンターの端で見た彼女の温かい横顔が、翔太の言葉を通じて、より鮮明に宗一の脳裏に蘇ってきた。
昼下がり、たくさん遊んでお腹がいっぱいになった翔太は、お気に入りのタオルケットを握りしめたまま、ソファの上ですやすやと可愛い寝息を立て始めた。
「よく寝てるな。子供の寝顔というのは、本当に飽きないね」
宗一が声を潜めて言うと、恵介がそっと翔太に毛布をかけ直した。
「本当にね。よく動くようになった分、体力の消耗も早いみたいで」
恵介は愛おしそうに息子の頭を撫でると、立ち上がって宗一に向き直った。その瞳には、料理人としての鋭い光が宿っている。
「ねえ、父さん。せっかくフランスからいい食材を持ってきてくれたんだろ?今日の夜の飯、僕に作らせてよ。父さんが持ち帰ってきた日本の外の味、この厨房で、腕によりをかけてたくさん形にしたいんだ」
息子のまっすぐな提案に、宗一は一瞬驚き、それから破顔した。
「素晴らしい提案だ。よし、それじゃあ、冷蔵庫から持ってこよう」
昨夜のうちに冷蔵庫に移し替えておいた、空輸してきた食材を取り出していく。
「まずは、これだ」
宗一が最初に取り出したのは、赤黒い、肉厚な塊だった。
「…マグレ・カナールか。すごいな、この脂の厚み。日本のものとは、皮目の張りが全然違う」
恵介が思わず身を乗り出し、プロの目で肉質を見つめる。
「そうだろう。ペリゴール産の、フォアグラを採取した後の鴨だ。赤身の旨味の濃さが桁違いに強い。それから、これも初春のフランスには欠かせないものだ」
次に宗一が手に取ったのは、独特の網目模様を持った、乾燥した茶色いキノコだった。
「モリーユ茸…!それも、こんなに形の良い、大ぶりのものは久しぶりに見ました」
「新鮮な状態のものを、パリの市場で信頼している商人から仕入れて、すぐに乾燥させたんだ。水で戻したときの香りは、そこらのものとは訳が違うぞ」
さらに宗一は、銀紙に包まれた小さな塊をいくつか並べた。
「ブルターニュ産の、ボルディエの発酵バター。木製攪拌機で作られた、海塩の結晶がほんのり残っているタイプだ」
「最高じゃないか…」
恵介の目が、まるで新しい玩具を前にした翔太のように、キラキラと輝き始めた。普段、食事処みかんで提供しているのは、千円前後の親しみやすい定食だ。しかし彼の根底にあるのは、一流の料亭で若くして頭角を現したトップクラスの料理人としてのプライドと探究心である。高級な、しかも普段触れることのない異国の極上食材を前にして、血が滾らないはずがなかった。
「父さん、これ、僕の好きに仕立てていい?」
「ああ、もちろんだ。みかんの厨房で、このフランスの食材たちがどう化けるか、俺も一人の客として楽しませてもらうよ」
「よし…。それじゃあ、メニューを組み立てよう」
恵介は腕組みをし、食材をじっと見つめながら思考の海に潜り込んだ。
「鴨のローストは外せない。この濃厚な赤身の旨味には、ただのフルーツソースじゃ芸がないな…。日本の晩冬から初春の苦味を合わせたい。そうだ、今朝の残りの蕗の薹と蕗味噌がある。あれと、このボルディエのバターを合わせたら、面白いブールブランソースができるかもしれない」
呟く息子の横顔を、宗一は誇らしげに見つめた。
「蕗の薹と発酵バターか。和の強烈な苦味と、フレンチの濃厚なコクのマリアージュだな。それは面白い」
「それから、モリーユ茸。フレンチならクリーム煮が王道だけど、今夜は翔太も一緒に食べる家族の食卓だから、もっと優しく仕立てたい。モリーユの濃厚なキノコの香りを、あえてうちの極上の昆布出汁と鰹出汁で引き出してみよう。贅沢なお吸い物にするんだ」
次々とアイデアが溢れ出てくる恵介は、すでに食事処みかんの店主ではなく、一人の若き天才料理人の顔をしていた。
「よし、段取りは決まった。父さん、仕込みを始めるよ」
「ああ。手伝えることがあれば何でも言ってくれ」
「ううん、父さんは座って見てて。今日だけは、僕が早川家のシェフだから」
二階のリビングでは、ひとしきり遊び疲れた翔太がまだソファの上で小さな寝息を立てている。その健やかな寝顔を一度だけ振り返ってから、宗一は恵介に促されるまま、一階の厨房へと足を踏み入れた。
ステンレスの調理台は鏡のように磨き上げられ、包丁の一本に至るまで定位置に整然と収まっていた。
一見すると、どこにでもある町の小さな定食屋の厨房だ。しかし、隅々の手入れの行き届き方は、紛れもなく一流の調理場が持つ特有の緊張感を孕んでいる。
「父さん、そこ、適当な椅子に座っててよ」
恵介はそう言いながら、使い込まれた清潔なエプロンを腰に巻いた。その身のこなしには、無駄な動きが一切ない。




