特等席
宗一はカウンターの椅子を引き、腰を下ろした。プロのフレンチシェフとして幾多の厨房を渡り歩いてきた宗一にとって、他人の調理を特等席で眺めるのは新鮮な経験であり、それが実の息子の手によるものとなれば、胸の高鳴りを抑えるのは難しかった。
調理台の上には、先ほど二階で取り出したフランス直輸入の食材たちと、恵介が昨日のランチ営業のために仕入れていた日本の春の食材が並べられている。
まず恵介が手を伸ばしたのは、ペリゴール産のマグレ・カナール、フォアグラを採取した後の高名な鴨の胸肉だった。赤黒く引き締まった見事な肉質、そして肉の厚みと同じほどに均一にのった真っ白な脂身。
「素晴らしい状態だね、父さん。日本の市場でもここまでのものは滅多に見かけないよ」
「だろう。信頼しているマルシェの商人が、一番いいところを分けてくれたんだ」
恵介は満足そうに頷くと、真剣な目つきになって包丁を握り直した。
最初に行われたのは、皮目への細工だった。恵介は鴨肉の白い脂の層に、包丁の刃先を細かく滑らせていく。等間隔で斜めに線を入れ、さらに交差するように刃を入れる。まな板の上で、見る間に美しい格子状の切れ目が刻まれていった。
「肉身を傷つけず、皮目の脂だけに包丁を入れる。相変わらず正確な刃物さばきだな」
宗一が感心して声をかけると、恵介は視線をまな板に留めたまま、ふっと口元を緩めた。
「和食でも鴨はよく使うからね。こうして格子に包丁を入れておかないと、火を入れたときに皮が縮んで肉が反ってしまうし、何より余分な脂が綺麗に抜けないんだ」
恵介はコンロに火をつけ、まだ冷たい状態のフライパンに、皮目を下にした鴨肉を直に置いた。フレンチの正統な技法である。冷たい状態から徐々に熱を加えていくことで、皮下の固い脂がゆっくりと溶け出し、皮目がパリッと仕上がるのだ。
ジリ、ジリ…という小さな音が、やがて心地よい芳ばしい音へと変わっていく。フライパンの底には、クリアな黄金色の鴨の脂がみるみるうちに溢れ出てきた。厨房の中に、野性味がありながらも上品な、鴨特有の濃密な香りが立ち込める。
恵介はスプーンを手に取ると、フライパンを少し傾け、溜まった熱い脂をすくい上げた。そして、それを鴨の肉身の上から何度も、何度も丁寧にかけていく。
「アロゼか。手慣れたものだな」
皮目が完璧な狐色になり、箸で叩くとコンコンと小気味よい音がするほど硬く焼き上がると、恵介は肉をひっくり返し、肉身の側にはほんの数十秒だけ火を当てた。すぐに火から下ろし、用意していたアルミホイルで肉を厳重に包み込む。
「父さんが昔、家で料理するときにやってるのを見て覚えたんだよ。当時は何をしてるのか分からなかったけど、自分で料理を始めてから、肉の表面を乾燥させずに均一に熱を通すための大事な作業だって知った」
恵介の声には、幼い頃の記憶を慈しむような温かさがあった。和食の世界で生きてきた息子が、実の父親が家庭で見せていたフレンチの所作を体に染み込ませていた。その事実に、宗一は言葉にできないほどの愛おしさを覚えた。
「ここで休ませるんだな」
「うん。焼いた時間と同じだけ温かい場所で休ませて、中までじんわりと余熱を回す。そうすれば、切ったときに肉汁が逃げないから」
恵介は手際よくコンロの横の温かいスペースにアルミホイルの塊を置くと、フライパンに残った大量の鴨の脂に目を向けた。その脂を別の器に大さじ数杯ほど移し、今度は別の小さなフライパンに火をかける。
そこに投入されたのは、今朝の残りの菜の花と、細かく刻んだ蕗の薹だった。
ジュワッと激しい音が弾けた瞬間、厨房の空気が一変した。それまでの鴨の濃厚な肉の香りに、日本の初春を象徴する鮮烈な、土の匂いを含んだほろ苦い香りが爆発するように混ざり合う。菜の花の深い緑色が、鴨の脂を纏ってさらに鮮やかに輝き、蕗の薹の蕾がパチパチと音を立てる。
「なるほど、鴨の力強い脂で、山菜の強いアクと苦味を受け止めるわけか」
「そう。春の山菜って、油との相性が抜群にいいんだ。天ぷらが美味しいのもそのせいだしね。マグレ・カナールの濃厚な旨味には、これくらい個性の強い苦味をぶつけた方がバランスが取れると思って」
恵介は手早く山菜をソテーして皿に取り出すと、そのフライパンに自家製の和出汁、醤油、みりんを注ぎ入れた。和食のタレを作る要領だ。一煮立ちさせてアルコールを飛ばし、出汁の旨味と醤油の香ばしさを凝縮させていく。
そこへ、宗一が持ち帰ったボルディエの発酵バターを、冷たい状態のままゴロリと一切れ、惜しげもなく投入した。
恵介はフライパンを大きく、規則正しく揺すり始めた。熱い和出汁のベースのなかで、冷たい発酵バターがゆっくりと溶け、混ざり合っていく。透明だった液体が、バターの乳脂肪分を吸い込んで、みるみるうちに艶やかな、とろみのある淡い琥珀色のソースへと変化していく。完璧なソース・モンテだった。
「蕗の薹と発酵バターの和風ソース、これでベースは完成」
恵介は満足そうに頷くと、今度は隣のコンロで、戻しておいたモリーユ茸の調理に取り掛かった。
乾燥モリーユ茸を戻した汁は、まるで古い大樹の根元を思わせるような、深く濃厚なキノコの香りを湛えている。恵介はその戻し汁を丁寧に漉し、食事処みかんの命とも言える、昆布と鰹節で引いた極上の和出汁と一対一の割合で鍋に合わせた。
ひと煮立ちさせると、和出汁のすっきりとした海の旨味と、モリーユ茸の濃厚な山の香りが、お互いの領分を侵すことなく見事に調和した、未知の深い香りが立ち上った。恵介はそこに塩と薄口醤油をほんの数滴落とし、味を整える。
「これは…贅沢なお吸い物になりそうだな」
宗一が思わず生唾を飲み込むと、恵介は嬉しそうに笑った。
「最後にもう一品、翔太のための特別メニューを作ったら、仕込みは終わりだよ」
恵介は和牛と国産豚の合挽き肉に、細かく刻んで炒めた玉ねぎ、お麩をすりおろしたパン粉代わりのつなぎを合わせ、手際よく小さな手のひらで叩いて形を整えていく。
「翔太はハンバーグが大好物なんだ。まだ四歳になったばかりだから、鴨肉のローストは少し噛み切るのが難しいと思ってね。だから、翔太にはこれ」
じゅうじゅうと優しく焼き上げられていくミニハンバーグの横で、人参のグラッセがオレンジ色の艶を放っている。息子の手元を見つめながら、宗一は胸の奥が熱くなるのを覚えた。
一人の超一流の料理人としての鋭さと、一人の息子を育てる父親としての限りない優しさ。その両方が、この小さな厨房の中で完璧に同居していた。
「とと、おなかすいたー!」
二階のリビングに料理が運ばれるのとほぼ同時に、ソファの上の毛布がもぞもぞと動き、目をこすりながら翔太が起き上がってきた。鼻をくんくんと動かし、お腹を押さえている姿がたまらなく愛らしい。
「翔太、ちょうどいい時間に起きたね。ほら、じいじと一緒にご飯食べよう」
宗一が声をかけると、翔太は「わあー!」と歓声を上げて、座卓の自分の席へとトコトコと走ってきた。
卓の上に並べられた料理の数々は、まさに圧巻の一言だった。
中央に鎮座するのは、鴨のロースト。
アルミホイルから取り出され、丁寧に切り分けられた鴨肉は、中心部が完璧な、透き通るようなロゼ色に仕上がっていた。断面からは、閉じ込められていた肉汁がじわりと滲み出て、きらきらと光っている。
その周りを、鴨の脂でソテーされた鮮緑色の菜の花と蕗の薹が彩り、上からは艶やかな琥珀色のソースがたっぷりと回しかけられていた。
そして、蓋付きのお椀に入ったモリーユ茸のお吸い物。
翔太の前には、ふっくらと焼き上がった特製のミニハンバーグに、甘く煮詰まった人参のグラッセ、そして裏ごしされた滑らかなマッシュポテトが美しく盛り付けられている。
「すごーい!とと、これ、しょうたのハンバーグ?」
「そうだよ。翔太のために作ったんだ。じいじがフランスから持ってきてくれた美味しいバターも入ってるよ」
「じいじ、ありがとう!いただきます!」
翔太は小さな手でスプーンを握ると、待ちきれないといった様子でハンバーグを大きくすくって口に放り込んだ。
「おいしい!おいしいね、とと!じいじ!」
口の周りをソースで茶色く汚しながら、翔太は満面の笑みを浮かべて身体を揺らした。お麩を隠し味に使ったハンバーグは驚くほど柔らかく、溢れ出る肉汁が口いっぱいに広がっているのだろう。夢中で次のひと口を運ぶ孫の姿を見て、宗一の目元は自然と緩んだ。
「よかったな、翔太。たくさんお食べ。さて、じいじもいただこうか」
宗一は、美しく盛り付けられた鴨のローストに箸を伸ばした。
ひと切れを口に運んだ瞬間、宗一は思わず目を見開いた。
歯を当てると、皮目がパリッと心地よい音を立てて弾け、その直後、驚くほどしっとりとした柔らかな肉身から、濃密な鴨の旨味が溢れ出してきた。
マグレ・カナールが持つ、圧倒的な赤身の野生的な力強さ。それが、完璧な火入れによって一切のストレスなく引き出されている。
そして、何より素晴らしいのはソースだった。
口に含んだ瞬間、まずはボルディエの発酵バターの芳醇で濃厚なコクが贅沢に広がる。しかし、その濃厚さを追うようにして、醤油の香ばしい風味とみりんの優しい甘みが顔を出し、全体をぐっと親しみやすい和の味わいへと引き締めるのだ。さらに、鴨の脂でソテーされた蕗の薹の、ツンとした鮮烈なほろ苦さと春の香りが、後味を驚くほど爽やかに洗い流していく。
「…素晴らしいな」
宗一は小さく、溜息混じりに呟いた。
「バターのコクと、醤油の旨味、そして蕗の薹の苦味。この三つが、鴨の強い個性のなかで完璧に調和している。フレンチの濃厚さと和食の引き算の美学が、この一枚の皿の上で完璧なマリアージュを果たしているよ。恵介、お前…本当にとんでもない料理を作ったな」
プロの料理人として、一切の手加減のない称賛の言葉。それを聞いた恵介は、一瞬だけ少年のような誇らしげな顔を浮かべ、それから静かに頭を下げた。
「最高の食材を揃えてくれた、父さんのおかげだよ」
続いて、宗一はモリーユ茸のお吸い物のお椀を手に取り、そっと蓋を開けた。
その瞬間、お椀の中から閉じ込められていた湯気と共に、濃密な香りが立ち上った。モリーユ茸が持つ、乾燥させることで何倍にも凝縮された、森の土や木々を思わせる濃密な薫香。それが、上品な鰹と昆布の出汁の香りと混ざり合い、鼻腔を心地よく愛撫する。
器に口をつけ、出汁をひと口啜る。
「…っ」
宗一は思わず声を漏らしそうになった。
フレンチにおいて、モリーユ茸は生クリームやバターと合わせるのが絶対のセオリーだ。しかし、恵介の作ったこのお吸い物は、生クリームの力を一切借りていない。
それなのに、利尻昆布の旨味の上に、モリーユ茸の濃厚な旨味がどっしりと腰を下ろし、まるですべての要素が最初からひとつの生き物かのような、圧倒的な深みを生み出している。
和の出汁というレンズを通すことで、モリーユ茸のポテンシャルが、フレンチとは全く違うベクトルで極限まで引き出されていた。
「フレンチの王道を知っているからこそ、あえてそこを外して和の出汁で勝負したわけか。食材への深いリスペクトがなければ、こんな組み合わせは思いつかない」
宗一はしみじみと出汁を味わいながら、息子の背中を見つめた。
二年前、すみれを亡くしたあの日。恵介はただ絶望の淵に立ち、折れてしまいそうなほど細い背中をして泣いていた。あの時、自分がフランスへ行くのをやめて日本に残り、強引にでも恵介を支えるべきだったのではないかと、千鶴と共に何度も夜を徹して悩んだ。
しかし、恵介はそれを拒み、自分の足でこの街に立ち、暖簾を掲げた。
そして今、目の前にいる息子は、宗一の想像を遥かに超える高みへと到達していた。料亭時代に培った確かな技術の殻を破り、街の人々に揉まれ、翔太を育てるという日々の営みのなかで、彼の料理は、食べる人を温かく包み込むという、料理人として最も尊い優しさを獲得していたのだ。
「じいじ、しょうた、おねぎも食べられるよ!」
翔太が、お吸い物に浮かんだ小さな白葱を指差して、自慢げに言った。
「おお、翔太は偉いなぁ。お葱も食べられるのか。じゃあ、じいじが美味しいお葱をあげるよ」
「うん!」
口の周りを汚したまま、嬉しそうに葱を頬張る孫。それを見つめて、柔らかく微笑む息子。
小さなリビングの食卓は、美味しい料理の香りと、溢れんばかりの笑顔で満たされていた。宗一は胸の奥がじんわりと、温かい灯火がともったように満たされていくのを感じていた。
料理人として、そして一人の父親として、息子の背中が本当に大きく、頼もしくなったことを、宗一は確信していた。外の冷たい夜風を忘れさせるほどの温もりが、早川家の食卓を優しく包み込んでいた。




