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食事処みかん  作者: 蜜柑次郎
鴨のロースト

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35/46

芽吹き

 賑やかで温かかった食卓の余韻を残したまま、夜は更けていった。


 たくさん食べて満足した翔太は、お気に入りのタオルケットを握りしめ、寝室に敷いてあった布団で深い眠りに落ちていた。時折、小さな寝息の合間に「むにゃ…」と可愛い声を漏らしている。


「父さん、これ、懇意にしている酒蔵の新しい純米吟醸。少しぬるめの燗にしてみたんだ」


 恵介が一階の厨房から持ってきた徳利を傾け、宗一の猪口に透明な酒を注ぐ。


「お、ありがたいな。冷え込む夜には燗酒が一番だ」


 宗一が猪口を持ち上げると、恵介も自分の猪口を静かに合わせ、トントンと小さな陶器の音が静かな部屋に響いた。


 口に含んだ日本酒は、温められたことで米のふくよかな甘みと旨味が何倍にも膨らんでいた。じわりと染み渡る温かさに、宗一は小さく息を吐き出した。


「美味いな…。恵介、お前の仕込みの段取りも、料理の味も、本当に文句のつけようがない。パリの店に連れて帰りたいくらいだ」


「よしてよ、父さん。僕にはこの街と、この店があるからさ」


 恵介はふっと悪戯っぽく笑い、自分の猪口を干した。その表情は、食事処みかんの店主としての顔よりもずっと若く、宗一の前で見せる一人の息子の顔に戻っていた。


 宗一は猪口を置き、静かに恵介に向き直った。


「昨日の夜、小泉さんと少し話したよ。夏祭りの時も思ったが…本当に、素敵な女性だな」


 あえて何気なさを装って水を向けると、恵介は注ごうとした徳利の手を一瞬だけ止め、それから視線を落とした。お酒の入ったグラスを見つめたまま、少し躊躇うような、けれど拒絶のない、柔らかい沈黙が流れる。


「…うん。本当に、素敵な人だよ」


 恵介の口から出たのは、否定のない、真っ直ぐな肯定だった。その声の響きには、美里に対する深い敬意と、言い表せない特別な感情が滲んでいた。


「ただの常連さん、ってだけではないんだろう?」


 宗一がさらに優しく重ねると、恵介は深く息を吸い込み、自分の猪口にトトト、と酒を注ぎ足した。


 少し強めの煽りでそれを飲み干すと、お酒の勢いも手伝ったのだろう、彼の白い頬がほんのりと赤く染まり、その瞳の奥に溜まっていた澱のようなものが、じわりと表面に浮き上がってきた。


「父さん。僕…ずっと、怖かったんだ」


 恵介は猪口を握りしめたまま、ぽつりと言葉を漏らした。


「去年の冬にね、お義母さんに言われたんだ。『私たちは、あなたが今後どんな家族の形を作ることも否定しないからね。前を向いて、あなたの人生を歩みなさい』って」


「庄司さんが…そう言ってくれたのか」


「うん。ありがたかった。涙が止まらないくらい、救われたんだ。でもね…そう簡単に割り切れるほど、僕の心は綺麗じゃないんだよ。すみれを愛している気持ちに嘘はないし、すみれとの夢だったこの店を、すみれの思い出と一緒に守っていこうと決めていたはずなのに…」


 恵介の声が、少しずつ熱を帯びていく。それは、男としての、そして一人の人間としての、泥臭い迷いの吐露だった。


「翔太がね…本当に、小泉さんに懐いているんだ」


 恵介は寝室の方を見つめ、声を少し震わせた。


「あいつ、すみれが亡くなった後、夜泣きがすごく増えてさ…。夜中に突然飛び起きては、狂ったように泣き叫ぶんだ。まだ小さかったから、言葉にはできなかったけど、お母さんが突然いなくなった恐怖と寂しさで、心の中はめちゃくちゃだったはずなんだよ。でもね、日中、僕の前では、心配をかけまいとするみたいに、無理に明るく振る舞うんだ。四歳になった今でも、どこか大人びていて、僕を困らせないようにずっと我慢を重ねてるんだろうね」


 恵介は一度言葉を切り、きつく唇を噛み締めた。その脳裏には、男手一つで必死に息子を抱きしめ、共に泣き明かした無数の夜が蘇っているのだろう。


「でもね、小泉さんの前だと…違うんだよ。あの子、見たこともないくらい、純粋に甘えるんだ。ものすごく我が儘を言うし、お気に入りの絵本を『読んで、読んで』ってしつこくせがむし、転んだら大げさに泣いて、ぎゅって抱きしめてもらうまで離れない。僕にさえ見せないような、子供らしい剥き出しの甘え方を、彼女の前ではするんだよ」


 恵介の手に力がこもる。


「…それを見てたら、僕の心の中に、すごく醜いものが生まれてしまったんだ」


 恵介は顔を上げ、潤んだ瞳で宗一を真っ直ぐに見つめた。


「すごく自分勝手で、汚い打算かもしれない。でもね、父さん。あの子の姿を見ていたら…小泉さんが僕たちのそばにいてくれたら、どれだけ救われるだろうって、そんな風に甘えたことを思っちゃったんだよ…」


 ポツリ、と。恵介の目から一筋の涙が溢れ、顎のラインを伝って座卓の木目に落ちた。


「翔太に母親が必要だから、あの子を笑顔にしてくれるから、だから彼女を求めているんじゃないかって…。それって、彼女の優しさにつけ込もうとしている、ただの都合のいい打算じゃないかって、自分自身のことが嫌いになりそうなんだ。すみれを裏切ることになるんじゃないかっていう罪悪感と、ただ一人の女性として美里さんに惹かれていく心と、翔太のためにそばにいてほしいっていう願いと…。それに、彼女の人生を、僕たちみたいな傷物の中古の親子に巻き込んでいいのかっていう恐れと」


 息子の本音を、宗一は口を挟まず、ただ静かに頷きながら聞き続けた。恵介の肩は小さく震え、言葉は涙でひどく掠れていく。


「そもそも…あんなに若くて素敵な人が、僕みたいな子連れの男を相手にしてくれるわけがないんだよ。ただの常連としての優しさなのに、勝手に期待して、打算的な目を向けていること自体が、彼女に対して失礼なんじゃないかって…。そんなことばかり考えていたら、どうやって一歩を踏み出せばいいのか、もう、分からないんだ…」


 恵介は座卓に両肘をつき、顔を覆って静かに肩を震わせた。


 この二年間、どんなに苦しい時も、周囲に心配をかけまいと、洗練された、物腰柔らかい店主として振る舞い続けてきた恵介。義実家にも、商店街の仲間たちにも、そして誰よりも愛する翔太にも見せることのできなかった、弱くて、泥臭くて、人間らしい迷いのすべてが、今、宗一の前で曝け出されていた。


 宗一は、ゆっくりと自分の猪口を置くと、座卓越しに手を伸ばし、恵介の震える頼もしい肩に、そっと大きな手を置いた。フランスの厨房で数え切れないほどの鍋を振ってきた、固く、分厚い、父親の手だ。


「恵介」


 宗一の声は、静かだが、部屋の空気を包み込むような絶対的な力強さを持っていた。


「お前がそうやって、泥臭く悩んで、自分を打算的だと責めること自体がな…お前が小泉さんという女性を、そして翔太を、心から大切に思っている何よりの証拠だよ」


 顔を覆っていた恵介の手が、ぴくりと止まる。


「本当に打算的な男なら、自分の罪悪感に苦しんだりしない。彼女の優しさを都合よく利用して、涼しい顔をしているはずだ。お前は、自分の心の中にある翔太への愛も、彼女への恋心も、そしてすみれちゃんへの変わらぬ想いも、そのすべてに誠実であろうとするから、だから引き裂かれそうに苦しいんだ」


 宗一は肩に置いた手にぐっと力を込めた。


「人を好きになる動機なんてな、いつでも綺麗事だけじゃない。寂しさを埋めたい、助けてほしい、この人と温かい場所を作りたい…。そう願うのは、人間の本能であり、生きようとする力だ。それを打算と呼んで自分を貶めるな。お前は二年間、本当に一人でよく背負ってきた。翔太をここまで立派に育て、街の人に愛される店を作った。もう、十分すぎるほど戦ったんだよ」


 恵介の手がゆっくりと顔から離れる。その目元は真っ赤に腫れ、涙で濡れていた。


「父さん…」


「すみれちゃんはな、お前が一生自分に操を立てて、暗い顔をして生きていくことなんて望んじゃいないと思うぞ。お前が自分の足で立ち上がって、また誰かと心から笑い合える日を、きっと誰よりも空の上から願っている。お前はもう、一人で全てを背負う必要はないんだよ。甘えたっていい、悩んだっていい。お前の人生は、お前のものなんだから」


 実の父親からの、魂を揺さぶるような力強い肯定の言葉。


 その言葉が、恵介の心の奥底でガチガチに凍りついていた氷の塊を、ゆっくりと、けれど確かに溶かしていった。


 恵介は大きく、身体の底から溜まっていた澱をすべて吐き出すように、深く息を吐いた。その顔からは、張り詰めていた緊張が消え、どこか、憑き物が落ちたような穏やかな表情が戻っていた。


「…ありがとう、父さん。勝手なことばかり言って、格好悪いところ見せて、ごめん」


「馬鹿を言うな。父親の前で格好つける必要がどこにある」


 宗一はハハハと優しく笑い、恵介の猪口に再びお酒を注いだ。恵介も涙を拭い、照れくさそうにはにかみながら、その猪口を持ち上げた。


「今度は、僕が父さんの猪口に注ぐよ」


「ああ、もらおうか」


 再び、トントンと静かに酒器が合わさる。今度の音は、先ほどよりもずっと軽やかで、温かかった。


 夜が更けるにつれて、窓の外の風の音が少しずつ強くなっていった。


 ガラス窓を揺らす風は、まだ冬の名残を孕んで冷たい。しかし、その冷たさの奥には、確実に土の匂いと、新緑の芽吹きを促すような、瑞々しい春一番の気配が混ざり合っていた。


 食事処みかんがオープンして、もうすぐ丸二年。


 最愛の妻との別れ、シングルファザーとしての苦闘、そして街の人々との出会い。様々な時間を経て、店は三周目の春を迎えようとしている。


 恵介の心に灯った新しい小さな火種は、これから訪れる春の風に吹かれて、ゆっくりと大きくなっていくに違いない。宗一は、再び穏やかな笑顔を取り戻した息子の横顔と、無邪気に眠る孫の姿を交互に見つめながら、早川家の未来に確かな希望の光を見た。


 静かな夜のなかで、父子はいつまでも、温かいお酒を酌み交わし続けた。


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