体温
太陽が山の向こうに隠れても、夜の空気は一向に涼しくならなかった。むしろ、昼間の熱気がそのままアーケードの床に居座っているようで、一歩踏み出すたびに足の裏からむっとした温かさが這い上がってくる。
早川翔太の視界は、無数の大人たちの腰や、色とりどりの浴衣の裾で埋め尽くされていた。四歳になったばかりの背丈では、歩行者天国になったお祭りの全景などまるで見通せない。
(おとなのおしりがいっぱい。みんな、どこにいくのかな)
見上げれば、濃紺の夜空を遮るようにアーケードの天井から赤や黄色の提灯が連なり、丸い光の粒となって揺れていた。行き交う人々の楽しげな笑い声や、あちこちの店先から響く風鈴の涼しげな音、そして威勢の良い売り声が、お祭り特有の賑やかな喧騒となって空間を満たしている。
「翔太、迷子にならないように、じいじの手をしっかり握っていようね」
上から降ってきたのは、少し低く、けれど深い優しさを湛えた大きな声だった。
翔太の右手をしっかりと包み込んでいるのは、祖父である宗一の手だ。普段はフランスという遠い国で料理を作っている宗一の手は、父親である恵介の手と同じように大きくて、どこか誇らしげに固い。
「そうよ、翔太くん。今日は人が本当に多いから、離れちゃダメよ」
左側でおっとりと微笑むのは、祖母の千鶴だった。千鶴もまた、普段は中国という遠い国で料理を作っている。
(じいじとばあばが、また翔太にあいにきてくれたんだ。うれしいな)
夏休みを利用して日本に帰国してくれた二人に挟まれて、翔太は嬉しさを滲ませながらアーケードを進んでいった。
駅からずっと続く賑やかな通りを奥へ奥へと進み、やがて住宅街の静けさが近づいてくるアーケードの端のあたりに、目指す屋台が見えてきた。
オレンジ色の文字で『食事処みかん』と書かれた看板の下には、簡易テーブルが置かれ、そこにはすでに長い行列ができていた。
最前線で「いらっしゃいませ!」と元気な声で笑っているのは、みかん色のエプロンをつけた美里だ。カウンターの奥では、作務衣に身を包んだ父親の恵介が、一心に料理を仕上げていた。
恵介が作っているのは、昨日から店の厨房につきっきりで仕込んでいた特製の冷やし稲荷だ。和、洋、中の三種類が、お客さんの目の前で鮮やかに仕上げられていく。翔太は、宗一と千鶴の手を握りながら、恵介の見事な手つきを特等席からチラチラと見つめていた。
去年もお祭りを手伝っていた美里は、まるで本当のお店の人みたいに、恵介と息がぴったりだった。恵介が舟皿を出すと、美里がすぐにお客さんへ手渡し、手際よくお金を預かってお釣りを出していく。
(おとうさん、おうちで『たくさんつくった』っていってたのに、どんどんなくなっちゃう)
用意していた大量のお稲荷さんは、まるで吸い込まれるように、あっという間に空っぽになっていった。
「お、これで最後だね」
恵介が皿の上の最後のお稲荷さんを包み、美里がそれをお客さんに手渡したとき、お祭りの終了時刻にはまだ時間があった。
器の上には、もう何も残っていない。周りを見渡した恵介は、作務衣の袖で小さく額の汗を拭うと、表に出てきて、集まってくれた街の人たちに向かって、深く、深く頭を下げた。
「本日は完売となりました。みなさん、本当にありがとうございました」
恵介の声はいつも静かで、けれどアーケードの喧騒の中でも、すうっと耳の中に届く綺麗な声だった。美里も隣で「ありがとうございました!」と頭を下げてから、恵介と顔を見合わせて、嬉しそうに笑った。恵介も、料理をしているときの真面目な顔から、目元を緩めて、優しい顔に戻っていた。
「あ、翔太くん!お祭りは楽しめたかな?」
片付けを始めようとした美里が翔太たちに気づき、パッと顔を輝かせた。
「恵介、大繁盛だったな。見事な手際だったぞ」
「小泉さんも、暑い中手伝ってくれて本当にありがとうね」
宗一と千鶴が労うように声をかける。
「いいえ!私もすごく楽しかったです」
美里は少し頬を染めながら嬉しそうに笑った。
「はい、翔太くん。これ、お父さんからのご褒美だって」
美里が、氷のたっぷり入ったバケツの中から、緑色のガラス瓶を取り出して、翔太の目の前に差し出した。瓶の表面には冷たい水滴がたくさんついていて、中には透明なサイダーときらきら光る丸いビー玉が入っている。ラムネだ。
「とと、ポンってして」
翔太が瓶を差し出すと、恵介は「貸してごらん」と言って、瓶の頭についているプラスチックの蓋を、大きな掌でトントンと叩いた。
カララン、と涼しい音がして、ガラスの中でビー玉が下に落ちる。その瞬間、瓶の口からパチパチパチ、と白い泡が元気よく飛び出してきた。
「わあ!」
恵介が慌てて瓶を翔太の口につけると、冷たいラムネが口の中に飛び込んできた。
(のどの奥が、シュワシュワってして、パチパチ弾けておもしろい!)
「ひゃあ」
あまりの冷たさに翔太が声を上げると、それを見た美里が「鼻に泡がついてるよ」と言って、指先で優しく翔太の鼻の頭をちょんと触った。
恵介も引き出しから清潔な布を出して、翔太の口元を優しく拭いてくれる。ラムネは甘くて、冷たくて、今日一番の御馳走だった。
「いやあ、恵介くん!今年も大繁盛だったじゃないか!」
大きなうちわをパタパタと仰ぎながら、商店街の会長である武彦が歩いてきた。武彦は頭に白いタオルを巻いていて、顔を真っ赤に上気させている。恵介の姿を見つけると、大きな手でゴシゴシと彼の肩を叩いた。
「お陰様で、用意していた分はすべて売り切れました。今年もお誘いいただいて、本当にありがとうございます」
「こちらこそだよ!みかんのお稲荷さんはもはや商店街夏祭りの名物だからね。これを楽しみにしている人が山ほどいるんだよ」
武彦はそう言ってガハハと豪快に笑うと、今度はしゃがみ込んで翔太と目線を合わせた。大きなうちわの風が、翔太の麦わら帽子のリボンをパタパタと揺らす。
「翔太くんも、偉かったな。立派なお店の看板息子だよ。そうだ、恵介くん。来週の土曜日にね、お祭りの片付けも全部終わった後に、河川敷で商店街の打ち上げバーベキューをやるんだよ。肉も野菜も、仕入れの連中が一番いいやつを持ってくることになっていてね。だからさ、みんなでおいでよ」
武彦が、翔太と恵介を順番に見て誘いかける。
昨年も誘いは受けていたのだが、翔太がまだ小さいからという理由から、遠慮していたのだった。
「バーベキュー…お外でお肉、ジュージューするやつ?」
翔太が興味津々に尋ねた。
「そうだよ!大きな網で、お肉もトウモロコシも、いっぱい焼くんだ。川の近くで走り回って遊んでもいいぞ」
武彦は頼もしく胸を叩いて、翔太に笑いかける。
翔太は恵介の顔を見上げた。恵介は、少しだけ困ったような、迷ったような表情をして武彦を見つめていた。昨年と同じように断ろうとしている口の形だった。
しかし、今日の恵介はその言葉を口にしなかった。
恵介は、自分のエプロンの紐をぎゅっと握りしめると、ゆっくりと視線を動かして、隣に立っている美里の方をじっと見つめた。
恵介の白い耳の上のあたりが、提灯の赤い光のせいだけではなく、ほんの少し赤くなっているのが翔太の目にもはっきりと映った。恵介は、いつもより少し低くて、緊張したような声で言った。
「小泉さん。もし…もしよかったら、来週の土曜日、僕たちと一緒に、行きませんか」
美里は、驚いたように丸い目をして、唇を少しだけ開けた。それから、美里の顔も、まるでお祭りのリンゴ飴みたいに、見る見るうちに赤く染まっていく。美里は両手をエプロンの後ろでモジモジと動かしながら、何度か空を見上げたり、恵介を見たりして、最後にとっても嬉しそうに小さく頷いた。
「はい。もしよければ…ぜひ、ご一緒させてください」
美里の声は、いつもより少し小さくて、でもとても優しかった。
恵介はそれを見て、ホッとしたように口元を緩め、いつもの穏やかな眼差しに戻っていた。
「よし、決まりだ!翔太くんが来るなら、上等な肉を多めに用意しておかないとだね!」
武彦は嬉しそうに言って、またガハハと笑いながら去っていった。
「わあーい!バーベキュー!お肉ジュージュー!」
翔太はその場でぴょんぴょんと何度も高く跳ね上がった。来週の土曜日は、恵介と、美里と、三人で一緒に行くのだ。
(ととのお耳も、おねえちゃんのお顔も、りんごあめみたいに赤い。おもしろいな)
見守る宗一と千鶴も、お互い顔を見合わせて、とても温かい、優しい笑顔を浮かべていた。
アーケードに連なる提灯の光が、三人の影と、それを見つめる夫婦の姿を、どこまでも優しく照らし続けていた。
宗一と千鶴が帰国した翌日、夏祭りから一週間待ち続けた土曜日の空は、雲ひとつない、吸い込まれそうなほどの青色に染まっていた。
住宅街にある自宅の玄関を出たときから、翔太の胸は小鳥が羽ばたいているみたいにパタパタと弾んでいた。恵介が背負っている大きな山登り用のリュックサックは、中身がパンパンに詰まって丸く膨らんでいる。
昨日の営業を終えたあと、恵介が遅くまで厨房で切り分けていた肉や、丁寧に洗って形を揃えていた野菜たちが、冷たい保冷剤と一緒にぎっしりと入っているのだ。
(ととのリュック、すごく重そう。翔太のすいかボールも入ってるんだよね)
恵介のズボンの裾を引っ張りながら歩く翔太の足取りは、自然と早くなる。
「焦らなくても大丈夫だよ」
翔太の様子を見て、恵介はリュックの肩紐をきゅっと引き締めながら優しく声をかける。
商店街のアーケードを抜け、いつも散歩に行く公園よりもさらに先へと歩いていくと、目の前が急に広く開けた。
大きな川が、太陽の光を浴びてきらきらと銀色に輝きながら、パチャパチャと涼しい音を立てて流れている。土手に敷き詰められた緑色の草からは、夏の強い日差しに温められた青々とした匂いが立ち上り、川面を渡ってくる風が、翔太の火照ったおでこを優しく撫で抜けていった。
「早川さん、翔太くん、お待たせしました!」
後ろから聞こえた明るい声に振り返ると、小走りで駆けてくる美里の姿があった。白い麦わら帽子に、爽やかな薄青色のブラウス、動きやすそうなデニムのズボンを穿いている。まるで空の雲みたいに軽やかだった。
「すみません、少し遅くなってしまって」
「いえ、僕たちも今着いたところですから。小泉さん、今日はお休みの日に、付き合ってくれてありがとうございます」
「いいえ、私の方こそ、商店街のバーベキューなんて初めてだから、すごく楽しみにしてたんです」
美里はお喋りをしながら、自然な動きで翔太の前にしゃがみ込んだ。翔太の頭に載っている、少し傾いた麦わら帽子にそっと手を伸ばす。
「翔太くん、お帽子が斜めになっちゃってるよ。お日様が強いから、ちゃんとかぶろうね」
美里の細い指先が、翔太の顎の下で帽子のゴムを優しく直してくれた。美里の手からは、優しくて安心する匂いがふわりと漂ってくる。
(おねえちゃんの手、やっぱり柔らかくてきもちいいな)
「ありがとう!」
帽子を直してもらった翔太が、元気に礼を言うと、美里は嬉しそうに目を細めて、翔太の小さな手をそっと握りしめた。
「それじゃあ、会場まで一緒に行こうか」
恵介が左手を差し出す。翔太はその大きな手をぎゅっと握り返した。自由になった反対の手は、美里の柔らかい手に包まれている。
真ん中に翔太、右側に恵介、左側に美里。
三人は一列になって、しっかりと手を繋いだ。お昼近くの太陽が、三人の影を足元に丸く落としている。一歩、二歩と草を踏みしめて歩くたびに、繋いだ手が、お互いの体温でじんわりと温かくなっていくのが分かった。
翔太は嬉しくて、わざと恵介と美里の手を前後に大きく振る。二人はそれに合わせるようにして、翔太の顔を見つめながら、顔を見合わせてはにこにこと微笑み合っていた。




