熱気
川原の少し開けた場所に近づくと、すでに大きなテントが張られており、そこから賑やかな笑い声やお喋りの声が響いてきた。
「おーい!恵介くんたち、待ってたよ!」
テントの影から、武彦が顔を出して、ちぎれるほど大きく手を振った。その周りには、八百屋の店主や魚屋の店主など、商店街で見慣れた顔がたくさん集まっている。
「遅くなってすみません。早川です。今日はよろしくお願いします」
恵介が頭を下げると、おじさんたちは「水臭えこと言うな!」「プロが来てくれぞ!」と口々に言って、大喜びで迎えてくれた。
今日の恵介は、お店のときのような作務衣ではなく、シンプルな灰色のTシャツ姿だった。袖からは、毎日重たいフライパンや中華鍋を振っている、たくましくて太い腕が覗いている。
「よし、それじゃあ早速、特等席のコンロを譲るぜ。炭はもうバッチリ熾してあるからな!」
周囲に促されて、恵介は大きなリュックを下ろし、コンロの前に立った。
四角い鉄の箱の中では、真っ黒だった炭の表面が白くなり、その奥で真っ赤な炎がチラチラと息づいている。網の上からは、じりじりと肌を焦がすような熱気が立ち上っていた。
恵介はリュックからトングを取り出すと、カチカチと二回鳴らして、網の上の温度を確かめるように手をかざした。その姿を見た瞬間、翔太の目には、恵介の周りの空気がガラリと変わったように見えた。
「まずは、翔太の好きなトウモロコシから焼こうか」
恵介はそう言って、八百屋の店主が持ってきてくれた、黄色くてずっしりと太いトウモロコシを網の上に並べた。
パチパチ、パチパチ。
炭が小さく爆ぜる音と一緒に、トウモロコシの表面がじわじわと黄金色に変わっていく。恵介はトングを器用に操りながら、一箇所だけが焦げないように、コロコロと規則正しくトウモロコシを転がしていった。
その手つきには、一切の無駄な動きがなくて、まるでお盆の上のボールを転がしているみたいに滑らかだ。
全体に綺麗な焼き色がついたところで、恵介は小さな器と刷毛を取り出した。器の中には、恵介が特別に調合してきた、砂糖と出汁を混ぜた醤油が入っている。
刷毛に醤油をたっぷりと含ませ、熱々のトウモロコシの表面にサッと塗った。
ジューーーーーッ。
目の前で、ものすごく大きくて食欲をそそる音が弾けた。
それと同時に、コンロの網の上から、真っ白くて濃い煙がモクモクと勢いよく立ち上った。醤油が炭に落ちて焦げた、香ばしくて、ほんの少しだけ苦くて、でも奥の方がとろけるように甘い、最高の匂いが川原の空気に一気に広がっていく。
「うわあ!煙がモクモクだー!」
風向きが急に変わって、真っ白な煙が翔太の方へ流れてきた。
「ひゃあ、目にしみるー!」
「大丈夫?こっちにおいで」
翔太が両手で目をこすりながらクスクス笑うと、隣にいた美里が、翔太の体を優しく引き寄せて、自分の背中の後ろに隠してくれた。
美里の背中越しに見る恵介は、煙の中でも平気な顔をして、刷毛を綺麗に動かし続けている。
「よし、翔太、焼けたぞ。熱いから気をつけてね」
恵介はトングでトウモロコシを持ち上げると、あらかじめ用意していた小皿の上で、翔太が食べやすいように包丁で小さく小口切りにしてくれた。
「はい、翔太くん。フーフーして食べようね」
美里が皿を持って、翔太の目の前に差し出してくれる。
トウモロコシの表面には、焦げた醤油が均一に染み込んでいて、きらきらと黒光りしていた。湯気が鼻先をかすめるだけで、お腹の虫がグーッと大きく鳴ってしまう。
「いただきます!」
翔太は小さく切られたトウモロコシを手に取り、口を大きく開けてフーフーと息を吹きかけた。少し冷ましたところで、思い切りかじりつく。
プチッ、プチプチッ。
前歯で粒を噛み締めるたびに、夏の太陽をいっぱいに浴びたトウモロコシの、信じられないくらい甘い汁が、口いっぱいにジュワッと弾け飛んだ。
醤油の香ばしい塩気と、トウモロコシの濃厚な甘さが、口の中で混ざり合い、美味しさがどんどん膨らんでいく。
「おいしい…!とと、これすっごく甘いよ!」
「よかった。たくさんあるから、いっぱいお食べ」
恵介は嬉しそうに目を細めて、翔太の頭を大きな手でぽんぽんと撫でた。
「本当、いい音。美味しそうだね」
翔太が食べる姿を愛おしそうに美里は見つめていた。恵介の焼いたトウモロコシは、香ばしくて甘くて、いくらでも食べられそうだった。
周りの大人たちも、恵介が焼いた肉や野菜を食べて、「この焼き加減は天才だな!」「このタレ、どうやって作ってんだよ、旨すぎる!」と、大声を上げて大騒ぎしている。みんなが笑顔で、お腹いっぱいにお料理を食べているのを見るのは、翔太にとって誇らしい気持ちだった。
ひとしきり肉や野菜を焼き終えた頃、恵介はコンロの隅の、少し火が弱くなっている場所に、銀色のアルミホイルで四角く包まれた小さな塊をそっと置いた。
「小泉さん、これ…もしよかったら、食べてみてください」
恵介は少しだけ照れくさそうな声を出して、網の上からそのホイルの包みをトングで持ち上げ、美里の前の小さな皿の上へとそっと移した。
「えっ、私に…ですか?」
美里は驚いたように丸い目をして、それから嬉しそうに胸の前で手を合わせた。
「開けてもいいですか?」
「はい、熱いので気をつけてくださいね」
恵介ははにかみながら頷いた。
美里が指先を少しすぼめながら、銀色のホイルの端っこをそっと開いていく。
隙間から、ふわあっと、甘酸っぱくて濃厚な、食事処みかんの店では嗅いだことのないような不思議で良い匂いの湯気が立ち上った。
「わあ…!」
ホイルが開いた瞬間、美里は目を丸くして輝かせた。翔太も横から皿を覗き込む。
ホイルの器の真ん中には、真っ赤に熟した大きな夏のトマトが、まるごと一つ、お行儀よく座っていた。じっくりと火を通されたトマトの皮は柔らかく弾けていて、そこから溢れ出た真っ赤な甘酸っぱいスープの海ができている。
そして、トマトの上には、雪みたいに白いチーズが、とろーりとろけて、トマトの赤い体を包み込むように流れて皿に広がっていた。仕上げに散らされた、緑色の小さなバジルが、赤と白の中でとても綺麗に映えている。
「これ、トマトとモッツァレラチーズのホイル焼きです。バジルのオイルを少しかけてます。外の暑い場所でも、さっぱりと食べられる箸休めの料理になればと思って作ってみました」
「お祭りのBBQで、こんなにお洒落で美味しそうなお料理が食べられるなんて思わなかったです…!」
柔らかくなったトマトの身をスプーンでそっと崩すと、中からさらに温かいトマトの果汁がじゅわっと溢れ出し、白いチーズと混ざり合って、ピンク色の綺麗なスープに変わっていく。美里はそれをチーズと一緒に上手にすくい上げて、口へと運んだ。
「お、美味しい…!」
美里は両手を頬に当てて、うっとりとした顔のまま、頬をふにゃりと緩ませた。
「トマトの酸味がすごく爽やかで、でも凝縮された甘みが強くて…。チーズのコクとバジルの爽やかな香りが、口の中で完璧に調和しています。早川さん、これ、美味しすぎます」
美里が何度も頷きながら、本当に幸せそうな笑顔で恵介を見つめていた。
「口に合ってよかったです」
恵介はホッとしたように小さく息を吐いて、いつも店で見せるよりもずっと優しくて、柔らかい笑顔を浮かべた。
「翔太くんも、一口食べてみる?」
美里が、スプーンの先で小さく分けたトマトと、とろとろのチーズをすくって、翔太の口の前に持ってきてくれた。美里が「フーフー」と口を丸くして冷ましてくれる。
翔太は、待ってましたと口を大きく開けて、スプーンをぱくりとくわえた。
(んんー!すっぱくて、トローリしてて、すごくおいしい!)
口の中に入れた瞬間、トマトのきゅっとした酸っぱさが広がったあとに、砂糖とも違う、野菜の優しい甘さが追いかけてきた。そこに、モチモチとした白いチーズがトローリと絡みついて、喉を通るときには胸の奥までポカポカしてくるような、不思議な魔法の味がした。
「おいしい!このトマト、美味しいね!」
「ねえ、本当においしいよね」
美里はそう言って、翔太の口元に少しだけついた真っ赤なスープを、自分のハンカチで優しく拭ってくれた。
恵介の作った特別な料理を食べて、三人で「おいしいね」「冷たくてさっぱりするね」と言い合う時間が、翔太にとってはラムネの泡よりもずっときらきらしていて、胸の奥がいつまでもポカポカと温かかった。青い空の下、川の音と肉の匂いに包まれながら、三人の笑い声が、夏の風に乗ってどこまでも遠くへ流れていった。
賑やかだった肉や野菜の網焼きが一段落すると、武彦が大きな声を上げた。
「よし、真打登場だ!」
運ばれてきたのは、大人でも両腕で抱えるのがやっとのほど大きな、深い緑色をした丸ごとの西瓜だった。
大きなプラスチックのバケツに張られた氷水の中で、それはキンキンに冷やされていた。八百屋の店主が慣れた手つきで大きな包丁を入れると、パカン、と小気味良い音が川原に響き渡る。
現れたのは、瑞々しいお日様の光を反射してきらきらと輝く、鮮やかな真っ赤な実だった。果汁が断面から溢れ、土手に敷かれたレジャーシートの上に甘い香りが広がっていく。
「はい、翔太くん。一番大きいところだよ」
美里が、三角形に切り分けられた西瓜を両手で持って手渡してくれた。受け取った掌から、氷水の冷たさがじわじわと伝わってくる。
翔太は大きく口を開けて、真っ赤な実に思い切りかじりついた。
シャリ、シャリシャリ。
心地よい音とともに、凝縮された夏の冷たい甘さが、乾いた喉と体の中をすうっと通り抜けていった。外の風に吹かれながら食べる西瓜は、家の中で食べるものよりも、ずっと美味しく感じられる。
「それ、プップップのプーだ!」
少し離れた場所では、魚屋のお兄さんや商店街のおじさんたちが、口に含んだ黒い種を遠くへ向かって勢いよく吹き飛ばしていた。誰が一番遠くまで飛ばせるかを競い合っているらしく、種が草むらに飛び込むたびに、ガハハと豪快な笑い声が弾ける。
(おじさんたち、おもしろいな。翔太もやってみたい!)
翔太もおじさんたちの真似をして、口の中に残った小さな種をプッと吹き飛ばそうとしてみた。けれど、種は遠くへ飛ぶどころか、自分の顎のあたりにぽとりと落ちてしまう。
それを見ていた美里が笑い、レジャーシートの上に置いていたハンカチで優しく顎を拭ってくれた。美里が西瓜の種を小さなお皿に綺麗に並べるのを見ながら、恵介もまた、細い目をさらに細めて穏やかに笑っていた。
そうして三人が並んでシートに座り、西瓜を楽しんでいたときのことだった。
「いやあ、早川さん!今日はお疲れ様。本当に美味しいお肉をありがとうね」
声をかけてきたのは、商店街にある衣料品店で働くパートの方々だった。彼らは早川家の詳しい家庭の事情まではよく知らなかった。
彼らは、恵介と美里、そしてその真ん中で西瓜を頬張る翔太の姿を順番に見つめると、しみじみとした様子で顔を綻ばせた。
「それにしても、早川さんの奥さん、本当にお綺麗ねえ。先週のお祭りのときも息がぴったりで感心しちゃったわ」
「本当本当。こんなに優しくて綺麗なお母さんがいてくれて、翔太くんは本当に幸せ者だねえ」
悪気のない、純粋な称賛の言葉がシートの上に降ってきた。
翔太が西瓜をくわえたまま、下から美里の顔を見上げると、美里の白い頬が、見る見るうちに夕焼けの空のような鮮やかな赤色に染まっていくのが分かった。
美里はひどく狼狽したように、きょろきょろと空を見上げたり、膝の上で指先をモジモジと動かしたりしている。
(あ、みんな、みさとおねえちゃんのこと、おかあさんだと思ってるんだ)
翔太は、いつもなら恵介がこういうときにどうするかを知っていた。普段、同じような勘違いをされたとき、恵介はいつも一歩引いて、生真面目な顔で、すぐに訂正の言葉を口にしていたからだ。
しかし、今日の恵介はその言葉を口にしなかった。
恵介は、自分の耳の裏までをほんのりと赤く染めながら、けれど逃げるように目を逸らすことはせず、優しくはにかむような笑みを浮かべた。そして、少しだけ声を低くして、丁寧に頭を下げたのだ。
「…いつも、本当に良くしてもらっているんです」
その言葉を聞いた瞬間、美里はさらに顔を真っ赤にして、持っていた西瓜の皮で顔を隠すようにして小さくなってしまった。
「あら、ごちそうさま!」
彼らはそう言って、嬉しそうに笑いながら、テントの方へと歩いていった。
翔太は、小さな胸の奥が、なんだか不思議な魔法にかかったようにポカポカと温かくなっていくのを感じていた。
(みさとおねえちゃんが、おかあさん。ととが、うれしそうに笑ってる…)
いつもなら線を引くはずの恵介が、美里を自分たちの真ん中に受け入れたような、その優しい空気。それが子供ながらにとても嬉しくて、翔太は西瓜の最後の一口を、とても大切なものを味わうようにゆっくりと飲み込んだ。




