紡ぐ
やがて、賑やかだった川原のバーベキュー会場も片付けの時間が近づき、大人たちがテントを畳み始めた。
一日中太陽の下で走り回り、満腹になった翔太の瞼には、急にずっしりとした重みがのしかかってきた。座っていることすら難しくなり、身体が横に傾きかける。
「翔太くん、眠くなっちゃったかな。少しお昼寝しようね」
美里の優しい声が聞こえたかと思うと、翔太の頭が、ふわりと柔らかいものの上に迎え入れられた。
美里の膝の上だった。
デニムの生地越しに、美里の温かくて心地よい体温が伝わってくる。美里は、翔太の小さな背中を、トントン、トントンと優しく叩き始めた。その手の温もりがあまりにも心地よくて、翔太は完全に目を閉じ、美里の衣服から漂う安心する匂いの中に身を委ねた。
背中に触れる美里の手の温もりを感じながら、翔太の頭の中には、仏壇に飾られた、一枚の写真が浮かんでいた。
そこに写っているのは、きりっとした目をして、とても優しく笑っている女性。母親のすみれだった。
翔太がまだ一歳のときに病でこの世を去ったすみれのことは、正直に言えば、声も、抱っこされたときの匂いも、翔太の記憶にはほとんど残っていない。
けれど、家に遊びに来てくれる祖母であるしのぶが、いつも写真を見ながら、翔太を抱きしめながら教えてくれた。
『翔太くん、お母さんはね、お空の上からずーっと翔太くんのことを見守ってくれているんだよ。とってもとっても、優しくて大切なお母さんなんだからね』
だから、翔太は知っていた。写真の中のすみれは、自分にとって世界にたった一人しかいない、特別な、特別なお母さんなのだということを。
けれど、今、自分の隣にいて、眠くなるまで手を握ってくれて、こうして柔らかい膝の上で背中をトントンとしてくれる美里のことも、翔太は同じくらい、大好きなのだった。
(お写真のおかあさんも、特別だけど…いま、トントンしてくれるおねえちゃんも、ぜったいにいなくなってほしくない、だいじなひと)
四歳の翔太には、どちらか一人を選びなさいと言われたら、どうすればいいのか全く分からなかった。写真の中のすみれを忘れることなんてできないし、今、手を繋いでバーベキューに来てくれた美里の手を離すことも、絶対に嫌だった。
だから、選ばなくていいのだと、翔太はウトウトとする意識のどこかで思った。二人とも、自分にとっては、大好きな、守りたい、大切な人なのだから。
「早川さん、翔太くん、完全に寝ちゃいましたね」
「本当に。今日はたくさん歩いたからな…。小泉さん、重くないですか?僕が抱っこしますよ」
「いいえ、全然重くないです。むしろ、すごく温かくて、心地よくて…もう少し、このままでいさせてください」
頭の上から、恵介と美里の、ささやくような静かな声が聞こえてくる。二人の言葉は、川の音や、夏の終わりの草の匂いの中に、優しく溶け込んでいく。
背中をトントンとする美里の手のひらは、ずっと温かいままだった。翔太は、その優しさに包まれながら、深く、温かい眠りの海へと、幸せそうに沈んでいった。
楽しかった宴の時間は瞬く間に過ぎ去り、気がつけば周囲の景色はすっかりその色彩を変えようとしていた。
燦々と輝いていた太陽が、西の雄大な山の端へと隠れ始める。それに伴い、どこまでも青かった空は、燃えるような茜色から深い紫色へと、美しいグラデーションを描きながら溶け合っていった。
川原を吹き抜ける風も、昼間の容赦ない熱気が嘘のように、涼やかに変化している。
周囲では、商店街の大人たちが一斉に動き出し、ゴミを集めたり、タープのロープを解いたりと、手際よく片付けを始めていた。
「少し風が冷たくなってきたね。翔太くん、寒くはない?」
隣に座る美里が、そっと手を伸ばして翔太の肩を優しくさすった。彼女の衣服からは、いつもの安心する香りが漂ってくる。
「うん、だいじょうぶ」
わずかにまどろみつつ、レジャーシートの上で小さく身を縮めていた翔太が首を振ると、美里は安堵したように微笑み、その細い指先で翔太の乱れた髪を丁寧に整えてくれた。
「それじゃあ、僕はあちらの荷物をまとめてきますね。小泉さん、少しだけ翔太をお願いできますか」
近くのコンロ周りを片付けていた恵介が、大きな山登り用のリュックサックを手に取りながら声をかけてきた。
「はい、こちらは任せてください」
美里が穏やかに微笑み返すと、恵介は満足そうに頷き、商店街の店主たちが集まる受付テントの方へと歩いていった。
夕闇が迫る川原の中、遠ざかっていく父親の背中は、いつもと変わらず大きく、そしてどこか実直な頼もしさを湛えている。
翔太は、美里の手を、小さな指先でぎゅっと握りしめた。
その感触を確かめていると、翔太の脳裏に、ある幸福な食卓の記憶がふわりと蘇ってきた。それは、お店の営業が終わったあとの静かな厨房で、恵介が作ってくれる特別な料理の記憶だった。
(ととのまぜまぜごはん、おいしかったな…)
恵介が大きな飯台や重厚なフライパンを振り、手際よく仕上げる炊き込みご飯やチャーハン。そこには、香ばしく焼き上げられた鮭のほぐし身や、豊かな土の香りを残すキノコ、そして細かく刻まれた色鮮やかな野菜たちが、溢れんばかりに詰め込まれていた。
「これなあに?」
幼い翔太が、お皿を覗き込んで尋ねるたびに、恵介はいつも、その目元を柔らかく緩めてこう教えてくれたのだ。
『これはね、みんな一緒にまぜまぜしたご飯だよ。別々に食べるよりも、こうして一つに集まって、仲良く混ぜ合わせることで、もっともっと美味しくなるんだ』
出汁の旨味を吸って一粒一粒がきらきらと輝く米粒と、それぞれの素材が完璧な調和を見せるその料理は、翔太の大好物だった。
夕暮れの薄紫色の光が、美里の白い横顔を静かに照らしている。
翔太は彼女の顔をじっと見上げ、心の中にずっと温めていた想いを、言葉にして紡ぎ出すことに決めた。今、伝えなければいけないという、子供ながらの純粋な直感が、その背中を押していた。
「…あのね、おねえちゃん」
「どうしたの?」
小さな声の中に宿る真剣さに気づいたのか、美里は視線を翔太と同じ高さに合わせるようにして優しく小首を傾げた。
「ぼくね、写真の、おかあさんも、だーいすき」
美里の大きな瞳が、一瞬だけ微かに揺れた。けれど、翔太はしっかりと彼女の目を見つめたまま、言葉を続けた。
「でもね、おねえちゃんも、だーいすき。だからね、おねえちゃん、これからもずっと、ぼくたちと一緒にいようね」
その瞬間、美里は息を呑んだように完全に動きを止めてしまった。
川のせせらぎや、遠くで響く大人たちの片付けの声が、一瞬にして遠のいていく。美里の瞳には、みるみるうちに熱い涙の膜が張っていき、夕焼けの残光を反射して、まるで宝石のようにきらきらと輝き出した。
彼女は震える唇を小さく噛み締め、それから溢れ出す感情を堪えるようにして、翔太の小さな体をその両腕で力強く、愛おしそうにぎゅっと抱きしめた。
「…うん。ありがとう、翔太くん。ありがとう…」
美里の肩が小さく震えているのが、抱きしめられた胸へとダイレクトに伝わってくる。彼女の手から伝わる圧倒的な温もりと、髪から香る優しい匂いに包まれながら、翔太は、泣かないで、と心の中で呟き、その背中に小さな手をそっと回した。
「お待たせしました。荷物はすべてまとめ終わりましたよ」
そこへ、すべての荷物をリュックサックに収めた恵介が、草を踏みしめる足音とともに戻ってきた。美里は慌てて目元を拭うと、いつもの優しい笑顔を作って立ち上がった。
恵介は二人の間に流れる微かな空気の変化を察したのか、不思議そうに瞬きをしながら、翔太の前に大きな左手を差し出してきた。
「さあ、翔太、お家に帰ろうか」
しかし、翔太はすぐには歩き出さなかった。
翔太は差し出された恵介の大きな、固い手を小さな手でぎゅっと引っ張った。そして同時に、反対側にいた美里の柔らかい手も同じように強く引っ張った。
四歳児の精一杯の力で、二人の大きな手を、自分の小さな掌の中へと導いていく。そして、まるでお店の厨房で恵介が見せてくれる料理のように、二人の手を無理やり、重ね合わせた。
恵介と美里が、驚きに目を見開いて固まる。
翔太は、重ね合わされた二人の大きな手の上に、自分の小さな手をさらに乗せて、確かな重みを加えながら、大好きな二人の顔を順番に見上げた。
「あのね、どっちかじゃなくて、ととと、おねえちゃんと、ぼく、みんなでまぜまぜがいいの!」
その言葉は、暮れなずむ川原の静寂の中に、真っ直ぐに響き渡った。
「ととの、まぜまぜご飯みたいにね、みんな一緒に集まったら、もっともっと美味しくなるんだよ。みんなで一緒にいたら、ずーっと楽しいもん!」
翔太の小さな掌の中で、重ね合わされた大人の二つの手が、ビクッと大きく震えた。
恵介と美里は、言葉を完全に失ったように、お互いの顔を見合わせたまま微動だにしない。
恵介の澄んだ瞳には、沈みゆく夕日の美しいオレンジ色の光が、まるで灯火のように綺麗に反射する。
重なり合った大人の手は、今度は離れようとはしなかった。
どちらからともなく、指先が微かに動き、お互いの体温を確かめ合うようにして深く絡み合っていく。そして、自分たちの真ん中で必死に手を繋ぎ止めてくれた翔太の小さな手を、上から優しく包み込むようにして、重なったままじっと動かなくなった。
「…そうだね、翔太」
恵介の声は、いつもより少しだけ震えていて、けれどこれまでにないほどの決意と、深い慈愛に満ちていた。彼は美里の瞳を真っ直ぐに見つめ、それから翔太に向かって、世界で一番優しい微笑みを返した。
隣に立つ美里もまた、涙の跡が残る頬を染めながら、何度も、何度も嬉しそうに頷いていた。
オレンジ色と紫色が完全に混ざり合い、美しい夜の帳が下りようとする川原の土手。
しっかりと重ね合わされた三人の手は、夜風の冷たさを跳ね返すほどに、いつまでも温かく、ポカポカと燃え続けていた。家路につく三人の影は、夕闇の彼方へと一つに溶け合うように、どこまでも、長く伸びていた。




