矜持
八月も終わりに近づくと、昼間の熱気はまだアスファルトに低くへばりついているものの、夕暮れの訪れが少しずつ早くなる。夜の帳が下りる頃には、肌を撫でる風の中にそれまでになかった微かな涼しさが混じるようになる。
本格的な秋にはまだ遠い、けれど少しずつ夏がその終わりを告げようとしている、そんな曖昧な過渡期の季節だった。
小泉美里は、街灯が点った歩道を、少し歩幅を狭めて歩いていた。
一週間前のあの日、商店街の仲間たちと共に出かけた河川敷でのバーベキューの光景が、今も脳裏に残っている。川面を渡る風、楽しげに笑う子どもたちの声、そしてなにより、周囲の人々から仲の良い家族のように見られていたあの気恥ずかしくも幸福な時間。
あの日の帰り道、別れ際に恵介から告げられた言葉が、この一週間、美里の胸の奥でずっと小さな火を灯し続けていた。
『来週の金曜、夜営業のあとに時間を作ってもらえませんか。少し、お話ししたいことがあるんです』
いつも通りの物腰柔らかい、けれどどこか張り詰めた真剣な眼差し。そのときの彼の表情を思い出すたびに、美里の心臓はトクンと小さく跳ね上がる。
保育園での勤務中、子どもたちの元気な声に囲まれて忙しく身体を動かしているときでさえ、ふとした空白の瞬間にその言葉が蘇ってきた。
(私、何を期待しているんだろう…)
美里は小さく息を吐き出し、胸元に手を当てた。
容姿に恵まれていたせいで、これまでに多くの異性から好意を向けられてきた。しかし、その多くは美里の内面を見ようとしない身勝手な欲望や、時には児童の父親からの不躾なアプローチであり、それらは美里の心に深い傷と男性への強い不信感を植え付けるだけだった。
自分は誰とも深く関わらず、一人の世界で、仕事を通して子どもたちを愛していければそれでいいと、そうやって自分の未来を半分諦めるようにして、静かに生きていく壁を築いていたはずだった。
それなのに、食事処みかんの引き戸を初めて開けたあの日から、何かが少しずつ、確実に変わり始めた。
恵介の、必要以上に干渉してこないけれど、いつでも常連客を温かく見守る洗練された所作。そして、亡き妻への消えることのない深い情愛を抱えながら、シングルファザーとしてひたむきに息子を育てるその背中。
彼の傷や、不器用なほどの誠実さに触れるたびに、美里が頑なに閉ざしていた心の氷は、春の雪解けのようにぽろぽろと崩れ落ちていった。今では、恵介という一人の男性の存在だけでなく、彼の愛息子である翔太の未来までを、心から愛おしく、守りたいと願うようになっている。
(すみれさんのことを考えると、これ以上近づいてはいけないって、ずっと思ってきたのに)
心の中の自制心が、小さな警鐘を鳴らす。恵介を支え、翔太を命がけで守った、すみれという存在。彼女の遺した場所に、自分が足を踏み入れていいはずがない。そんな引け目や恐怖が、期待のすぐ裏側で暗い影を落としていた。
けれど、バーベキューの日に、翔太が放った「おねえちゃんがいつも居てくれたらもっと楽しいね」という無邪気な言葉が、美里の胸の奥の一番柔らかい部分を優しく締め付けたのもまた、紛れもない事実だった。
期待と、戸惑いと、ほんの少しの怖さ。それらがマーブル模様のように混ざり合い、美里の心はここ一週間、ずっと凪ぐことがなかった。
駅前の繁華街を抜け、人通りの少なくなった住宅街へと足を進める。
角を曲がると、暗闇の中にぽつりと浮かび上がる、見慣れた灯りが見えてきた。古びた建物の軒先で、風に揺れているオレンジ色の暖簾。
時計の針は、すでに午後九時に近づこうとしていた。ランチ営業が主体のみかんが、金曜日の夜だけ行っている夜営業。
その閉店時間まであと一時間ちょっと、という、いつもより少し遅めの時間を選んで、美里はここにやってきた。訪れる瞬間の緊張を少しでも先延ばしにしたいという、臆病な心がそうさせたのかもしれなかった。
お店の前に立ち、美里は一度、深く息を吸い込んで胸の動揺を静めた。
すう、と吸い込んだ夜の空気は、昼間のうだるような熱を含んではいなかった。わずかに涼しく、澄んだ匂いが鼻腔をくすぐる。夏の終わりを報せるような夜風が、火照った美里の頬を優しく宥めてくれるようだった。
「よし…」
小さく呟き、美里は木製の引き戸に手をかけた。ガラガラと、小気味よい音を立てて戸を開ける。
「いらっしゃいませ」
いつもと変わらない、けれど少しだけ低く落ち着いた恵介の声が、厨房から響いた。
カウンターの向こうで、作務衣の袖を綺麗に着こなした恵介が、まな板の手を止めて美里を振り返る。その真っ直ぐな瞳と視線が絡み合った瞬間、美里の心臓が不規則な音を立てた。
「あ、小泉さん。こんばんは」
「こんばんは。少し…遅くなってしまって、すみません」
「いいえ、お待ちしていました。どうぞ、お好きな席へ」
恵介はそう言って、いつものように穏やかな微笑みを浮かべた。その変わらない態度に、美里は少しだけ肩の力を抜くことができた。
店内には、まだ数人の常連客の姿があった。
カウンターには、仕事帰りにふらりと立ち寄った風のサラリーマンが二人、静かにグラスを傾けている。そして座敷の席には、美里もよく見かける近所の酒蔵の大吾が、同僚らしき人を連れて熱心に料理を口に運んでいるところだった。
豊かな出汁の香りと、ほんの少しのアルコールの匂い。どこか穏やかで緩やかな空気が満ちていた。
美里はカウンターの端、いつもの席に腰を下ろし、バッグを膝の上に置いた。
「今日はまだ、夜風が少し残っていますが、歩くと暑かったでしょう」
恵介はすぐにお冷を目の前に差し出し、声をかけてくれる。
「ありがとうございます。でも、先週に比べたら、ずいぶん夜が過ごしやすくなりましたね」
「ええ。お盆を過ぎると、徐々に空気が変わりますからね。厨房に立っていても、火の前の暑さが少しだけ和らぐのを感じます」
そう言って、恵介は器用に手元を動かし、他のお客の注文を仕上げていく。その洗練された無駄のない所作は、何度見ても飽きることがない。プロの料理人としての矜持と、この場所を一人で守り抜いてきた強さが、その背中には確かに行き渡っていた。
「恵介さん!今日の出汁も最高ですよ。身体の芯まで染み渡ります」
座敷席から、少し赤ら顔になった大吾が声を張り上げた。
「ありがとうございます、大吾さん。そう言っていただけると、夜営業を頑張る甲斐があります」
「いや本当に、ランチだけじゃもったいないです。なぁ?これなら毎週金曜と言わず、毎日でも通いたいくらいですよ」
同僚の男性も深く頷きながら、器に残った汁を惜しそうに飲み干している。
「いえ、これ以上夜を開けると、なかなか大変で」
恵介は嬉しそうに目元を緩めつつ、苦笑いを浮かべて応えていた。
その会話を聞きながら、美里の胸にちくりとした痛みが走る。
金曜の夜、翔太は近くに住む義父母の家に預けられている。それは、恵介がこの店を少しでも軌道に乗せるため、そして妻との夢だった夜の営業を一歩でも進めるための、周囲の協力あっての選択だった。
みんなが恵介を応援している。みんなが、この温かい店と、早川家を愛している。
その輪の中に、自分はこれからどうやって関わっていくのだろうか。
(私はただの、一人の客で、翔太くんの遊び友達で…)
自分に与えられた役割の境界線を、美里は無意識のうちになぞろうとする。傷つくのが怖いから、最初から、これ以上は望まないと自分に言い聞かせるための、かつての悪い癖だった。
「小泉さん、まずはこれでも食べて、涼んでください」
恵介が穏やかな声とともに、カウンター越しに差し出してきたのは、小ぶりなガラスの器だった。透明な器の底で、かすかに揺れているのは美しく透き通った鼈甲色の餡。今夜のメインだという、冷製茶碗蒸しだった。
「わあ…綺麗…」
思わずため息混じりの声が漏れる。表面を覆う琥珀色のジュレの向こう側には、薄切りにされた瑞々しいオクラの緑と、丁寧に湯むきされた小さなミニトマトの赤が、まるで水盤に浮かぶ花のように鮮やかに透けて見えていた。
「ありがとうございます。いただきます」
美里は添えられた小さなスプーンを取り、表面のジュレごと、なめらかな卵液をすくい上げた。
口に運んだ瞬間、ひんやりとした心地よい冷たさが、夏の終わりに火照っていた舌の上を滑るようにして広がっていく。次の瞬間、美里は小さく目を見開いた。
(すごい…なんて深い味…)
卵液は驚くほどにきめ細かく、舌の上でまたたく間に淡雪のようにほどけて消えていく。そのあとに残るのは、濃厚で力強い鰹の風味と、それを下から支える昆布の上品なコクだった。
料亭での確かな修業経験に裏打ちされた、一切の雑味がない澄み切った出汁の旨味。それが、しっかりと冷やされたことで、より一層鮮烈に際立っている。
とろりとした鼈甲餡のほんのりとした甘み、オクラの小気味よい歯触り、そして噛んだ瞬間に弾けるミニトマトの爽やかな酸味が、出汁の美味しさを何倍にも引き立てていた。
「美味しい…。冷たいのに、お出汁の香りがすごく華やかで、身体の中にじんわり染み渡っていくのが分かります」
「よかった。夜営業の仕込みの段取りをするとき、まだ昼間の熱気が体に残っているお客さんが多いだろうと思って、しっかり冷やしておいたんです。喜んでもらえて何よりです」
恵介は嬉しそうに目元を緩めると、美里がスプーンを動かすのを静かに見守っていた。その思いやりに満ちた一品は、緊張で強張っていた美里の心を、優しく解きほぐしてくれるようだった。
やがて、満足そうな顔をした常連客たちが、一人、また一人と席を立ち始めた。
「ごちそうさま、また来るよ」「夜風が気持ちいいな、気をつけて」と、口々に声をかけながら暖簾をくぐっていく。
大吾たちも「ごちそうさまでした、恵介さん。おやすみなさい」と、親しみ深い笑顔を残して帰っていった。
ガラガラ、と引き戸が閉まり、最後のお客の足音が遠ざかっていく。
賑やかだった店内に、突然、しんとした静寂が訪れた。
換気扇の低い回転音と、壁に掛けられた時計の秒針の音だけが、やけに大きく店内に響き渡る。
暖簾の向こう、外の通りからは、かすかに虫の鳴き声が聞こえていた。
店内に残されたのは、カウンターに腰かける美里と、厨房の片付けを始めた恵介の、二人だけ。
張り詰めたような緊張感が、室内の空気を一瞬にして変える。
美里は無意識のうちに、膝の上のバッグをぎゅっと握りしめていた。心臓の音が、耳の奥でうるさいほどに脈打っている。
恵介は、シンクで数枚の皿を丁寧に洗い終えると、清潔な木綿の布巾で手を拭いた。それから、作務衣の襟を少しだけ整え、ゆっくりとした足取りで、美里のいるカウンターの向こうへと歩み寄ってきた。
その一歩一歩が、美里の胸の火を激しく揺さぶる。
夜風が暖簾を揺らし、隙間から入り込んだ涼しい空気が、二人の間の空間を静かに満たしていった。
美里が茶碗蒸しの最後の一口を惜しむように食べ終わったとき、時計の針はまもなく午後十時を指そうとしていた。
「少し失礼しますね」
恵介は厨房から外へ出て、入り口の引き戸をそっと閉めた。それから、表に掲げられていたオレンジ色の暖簾を丁寧に下ろし、店内の明かりを半分ほど落とした。




