日曜日
恵介はゆっくりとした足取りで戻ってくると、カウンターの中には入らず、美里の二つ隣の椅子を引き、そこへ静かに腰を下ろした。
カウンター越しではない。同じ客席側に並んで座るというその事実に、美里の胸が再びトクンと跳ね上がる。横目で見る彼の横顔は、いつもの柔らかな物腰とは一転して、一本の芯が通ったような、どこか張り詰めた真剣さを湛えていた。
「小泉さん。今日、こうして遅い時間まで残っていただいたのは、先週お約束した通り、僕の勝手な我儘を聞いてほしかったからです」
恵介は膝の上で大きな手を組み、真っ直ぐ前を見つめたまま、静かに話し始めた。
「三年前、妻のすみれを癌で亡くしました。店を開く少し前のことでした。あのときは、目の前が真っ暗になって、これからどうやって生きていけばいいのか、本当に分かりませんでした。でも、翔太がいたから、僕は立ち止まるわけにはいかなかった」
彼の低い声が、静まり返った店内にぽつり、ぽつりと落とされていく。
「僕はすみれとの約束だったこのお店を守ること、そして翔太をなんとか育てることだけを考えて、ただ必死に走ってきました。周りを見渡す余裕なんて、これっぽっちもありませんでした。だけど…」
恵介はそこで言葉を区切り、ゆっくりと美里の方へ顔を向けた。その瞳の奥には、美里の心を射抜くような、強い光が宿っていた。
「二年前の秋、翔太が保育園で熱を出したあの日、小泉さんが留守番を買って出てくれて、看病をしてくれた。あのとき、僕は本当に一人で戦っているんじゃないんだって、心の底から救われたんです。そこから、小泉さんが翔太の面倒を一緒に見てくれたり、商店街の夏祭りを手伝ってくれたりするうちに、僕の中で、ある変化が起き始めました。小泉さんがいてくれる時間が、翔太と三人で過ごす時間が、僕にとって、何物にも代えがたい大切なものになっていったんです」
「早川さん…」
美里の喉の奥から、小さな声が漏れる。
「でも、同時に、僕はものすごく怖かった。自分がこうして新しく誰かを想い、一歩を踏み出すことは、すみれを裏切ることになるんじゃないか。すみれの両親であるお義父さんやお義母さんを、傷つけてしまうんじゃないかって…ずっと、自分にブレーキをかけていました。夜営業を始めることも、一人の男としての自分の未来を考えることも、どこかで罪悪感に苛まれつつ、見ない振りをしていたんです」
その言葉を聞きながら、美里は胸が締め付けられるような痛みを覚えた。
家族や父親と向き合い、涙したこと。そのおかげで自分の弱さを認められたこと。恵介は包み隠さず、一つひとつ丁寧に美里に明かしていった。
「僕は、本当に狡くて、不誠実な男だと思います」
恵介は一言ずつ噛み締めるように言った。
「心のどこかでは、翔太に母親が必要なんじゃないかという、父親としての打算もあるのかもしれない。一人でこの店と子育てを背負っていく寂しさに、耐えかねて、助けてほしいと願っているだけなのかもしれない。…それでも、僕は、小泉美里さんという一人の女性に出会えて、救われたんです。あなたのその優しい笑顔に、温かい心に、心から惹かれてしまいました」
恵介の手が、微かに震えていた。洗練された所作で、厨房に立つときの、迷いのない手が、今は一人の男として、必死に感情を堪えるように震えている。
「小泉さん。もし、あなたが許してくださるなら…僕は、あなたと、翔太と、三人で…これから先の新しい時間を、共に歩んでいきたい。三人で、家族になりたいと思ってしまいました。不器用で、傷の多い僕ですが、あなたのことを一生をかけて大切にします。だから、僕と、僕たちと家族になっていただけませんか」
その言葉を聞いた瞬間、美里の目から、堰を切ったように涙が溢れ出した。
視界が涙で滲み、恵介の姿が歪んで見える。美里は両手で顔を覆い、こみ上げる涙を必死に堪えようとしたが、肩の震えを止めることはできなかった。
「…っ、う、うれし、くて…」
言葉がうまく紡げない。
かつて、自分を外見だけで判断し、身勝手な好意を押し付けてきた男性たちの言葉とは、あまりにも違っていた。
恵介の告白は、決してスマートでも、綺麗事だけでもない。自分の過去の傷も、父親としての弱さも、亡き妻への消えない想いも、そのすべてを曝け出した、泥臭いほどに真っ直ぐで、圧倒的に誠実なものだった。
その誠実さが、美里の心の中に長年こびりついていた、男性への不信感という冷たい氷を、完全に、優しく溶かしていく。
「早川さん…私、ずるい人間なんです」
美里は涙を拭い、赤くなった目で恵介を真っ直ぐに見つめ返した。
「周りの友達が結婚して、子どもを産んでいくのを見て、おめでとうって思いながら、どこかで『私はあんな幸せ、手に入れられないんだ』って、世界を斜めから見ていました。誰かを特別に想うことも、想われることも諦めて、傷つかないように、自分で自分の周りに高い壁を作っていたんです。…でも、このお店に出会って、早川さんが作る温かいお料理を食べて、早川さんと翔太くんのそばにいるうちに、その壁がいつの間にか、全部なくなっちゃっていました」
美里のひたむきな言葉に、恵介は息を呑み、静かに耳を傾けている。
「すみれさんの代わりになんて、私、絶対になれません。テキパキとなんでもこなして、早川さんを支えていた素敵な人の代わりは、私には重すぎます。…でも、すみれさんの代わりじゃなくて、小泉美里として、早川恵介さんという一人の男性の隣に立ちたい。大好きな翔太くんの成長を、横に並んで、一緒に見守っていきたい。寂しいときは半分こして、嬉しいときは何倍にもして…三人で、新しい温かい場所を、作っていきたいです」
美里は涙を流しながらも、その唇の端をきゅっと上げ、確かな覚悟を込めて微笑んだ。
「私の方こそ、よろしくお願いします。早川さんと、翔太くんと一緒に、歩ませてください」
その言葉を聞いた瞬間、恵介の張り詰めていた顔が、ふっと信じられないほどに柔らかく綻んだ。彼は大きく息を吐き出すと、目元を潤ませながら、何度も、何度も深く頷いた。
「…ありがとうございます。美里さん。本当に、ありがとう…」
恵介が初めて、自分の名前を呼んでくれた。その響きの愛おしさに、美里の胸の奥が、温かい幸福感で満たされていく。
引き戸の隙間から、少し涼しい夜風が再びふわりと入り込み、店内の出汁の残り香を優しく揺らした。遠くで鳴く虫の声が、二人の静かな涙と、新しくはじまる確かな約束を、どこまでも優しく祝福しているようだった。
金曜日の、あの奇跡のような夜から二日。約束の通り、美里は日曜日のお昼前に早川家の暮らす建物の前へとやって来た。
一階が食事処、そして脇にある鉄製の外階段を上がった二階が、恵介と翔太の住居になっている。建物の外観は何度も目にしていたし、二度、この部屋に足を踏み入れたこともあった。
けれど、あの夜を経て、恵介の恋人としてここを訪れるのは、当然ながら今日が初めてだった。
階段を一段ずつ上がる足取りが、どうしても緊張で硬くなってしまう。すぐに同居を始めたり、急激に生活を変えたりするわけではない。まずは休日にこうして顔を合わせ、三人で過ごす時間を少しずつ重ねていく。それが、二人で話し合って決めた、新しい関係の第一歩だった。
二階の玄関扉の前に立ち、美里は小さく深呼吸をしてから、インターホンのボタンを押した。ピンポーン、という軽快な音が響いた直後、室内からドタドタと賑やかな足音が近づいてくるのが分かった。
「はーい!」
元気いっぱいの声とともにカチャリと鍵が開き、勢いよく扉が開く。そこにいたのは、少し短めに切りそろえられた前髪の下で、ひまわりのように弾ける笑顔を咲かせた翔太だった。
「おねえちゃん!」
扉が開いた瞬間、翔太は躊躇することなく美里の腰のあたりへと飛びついてきた。小さな両腕でぎゅっと美里にしがみつき、見上げる瞳をキラキラと輝かせている。まるで、ずっと待っていた大好きな人を迎えるような、無邪気で真っ直ぐな体当たりだった。
「わあ、翔太くん!こんにちは。元気だった?」
美里は思わず破顔し、膝をついて翔太の小さな身体を優しく抱き返した。その胸に伝わる圧倒的な温もりと、子ども特有の甘い匂いに、階段を上がるまで抱えていた緊張が嘘のように融けていく。
「うん!翔太、すっごく元気!おねえちゃん、早く入って!」
「こらこら、翔太。そんなに引っ張ったら美里さんが困ってしまうだろう」
ぐいぐいと美里の手を引っ張る翔太の向こう側から、苦笑混じりの優しい声が聞こえた。
玄関に姿を現したのは、薄いグレーのTシャツにチノパンという、いつもの作務衣姿とは違う私服に身を包んだ恵介だった。髪もお店のときのようにきっちりと整えてはおらず、少しだけおろされた前髪が、彼の端正な顔立ちを実年齢よりも若く、そしてどこか家庭的な柔らかさで縁取っている。
「美里さん、いらっしゃい。どうぞ、上がってください」
恵介はそう言って、少し照れくさそうにはにかんだ。金曜日の夜に初めて呼ばれた、美里さんという響きが、彼の口からごく自然に紡がれる。その事実に、美里の耳たぶがふっと熱くなった。
「お邪魔します。これ、果物屋さんで見かけたので、翔太くんと一緒に食べられたらなと思って…」
美里が手渡したのは、今が旬の瑞々しい梨の箱だった。
「ありがとうございます。翔太、あとで剥いてあげるからみんなで食べような」
恵介は箱を受け取り、美里をリビングへと迎え入れた。




