臨時休業
しとしとと、静かな雨が窓ガラスを濡らしていた。
十一月も半ばを過ぎると、雨粒はすっかり冷たさを帯びてくる。灰色に染まった空から落ちてくる小雨は、街の色彩をぼやけさせ、空気をごくわずかに引き締めていた。
小泉美里は、ベッドの中でゆっくりと瞬きをした。いつもならスマートフォンの不躾なアラーム音に叩き起こされ、秒単位の戦いに身を投じている時間だ。けれど今朝は、枕元に置いた画面は静まり返ったままで、聞こえてくるのは規則的な雨音だけだった。
「…そうだ。今日は、休みなんだ」
ふかふかの毛布に顎まで埋めながら、美里は小さく息を吐き出した。胸の奥にじんわりと、平日の朝特有の贅沢な高揚感が広がっていく。
美里が勤務するひだまり保育園は、土曜日も開園している。そのため保育士たちはシフト制で勤務しており、美里はいつも、周囲の独身スタッフや既婚の先輩たちが敬遠しがちな土曜日の出勤を、自ら積極的に引き受けていた。
当然、その代わりに平日へと休みが回ってくる。
かつての美里にとって、その平日休みは決して歓迎できるものではなかった。大学時代の友人たちや地元の親友と予定を合わせようにも、世間のほとんどは暦通りに働いている。
一人で過ごす平日の休日は、どこへ行っても妙に所在なさが付きまとい、銀行や役所の用事を済ませてしまえば、あとは家でだらだらと時間を消費するだけ。世間の流れからぽつんと取り残されたような、どこか寂しい外れの休みだと、ずっと思い込んでいたのだ。
けれど、今の美里にとって、この平日の休みはカレンダーの中で最も眩しく輝く、特別なご褒美の日へと変わっていた。
理由は、ただ一つ。
あの店が、平日のランチタイムにしか暖簾を掲げないからだ。
起き上がった美里は、部屋着のカーディガンを羽織って台所へと向かった。
自炊は、美里にとって大切な趣味の一つだった。ただ空腹を満たすためではなく、食材を選び、包丁を握り、丁寧に料理を作る時間は、日々の保育ワークで擦り切れた自分を取り戻すための、静かな儀式でもあった。
けれど、十月のお遊戯会から十一月の作品展へと続くこの季節は、いくら楽しいと言い張っても限界があるほどに、心身の体力を根こそぎ奪っていく。
ここ最近の美里の食卓は、そんな余裕のなさを如実に物語っていた。
昨晩作ったのも、ただ冷蔵庫の残り野菜と豚肉を炒め、市販のポン酢を回しかけただけの代物だ。一応、形としては自炊をしている。けれど、丁寧に昆布と鰹節から出汁を引く余裕はなく、小鉢の彩りを考える気力も湧かない。盛り付けもどこか雑になり、シンクに積み上がったフライパンを眺めながら、味気ない食事を口に運ぶたび、胸の奥に小さく淀んだ自己嫌悪が溜まっていった。
(もっと、ちゃんとしたものが食べたいな…)
趣味だからこそ、手を抜いてしまう自分に落胆する。そしてそんな夜のたびに、美里の脳裏に浮かぶのは、あの端正な佇まいの定食屋の光景だった。
誰かに教えられたわけではない。今年の春の終わり、慣らし保育の喧騒と保護者からの執拗な視線に限界まで心が削れ、親友の結婚という祝福と自己嫌悪によりボロボロになっていた。そんな時に美里が自分自身の手で見つけた、文字通りのオアシスだった。
お店の場所は、美里の自宅から最寄り駅へと向かう、いつもの通勤ルートの途中にある。商店街の賑やかな入り口が見えてくる、そのほんの少し手前。まだ静かな住宅街の余韻が残る路地の一角に、その店はひっそりと佇んでいた。
店主の早川恵介が作る料理には、美里が日々の忙しさの中で見失ってしまいそうな、丁寧なプロの仕事が、これでもかと詰め込まれていた。
ただのロールキャベツに見えて、スプーンを入れた瞬間に溢れ出す出汁の深み。添えられたキャロットラペの、柑橘を隠し味にした瑞々しい酸味。
奇をてらったメニューはない。けれど、どれほど地味な副菜であっても一切の手抜きがなく、素材の持ち味を極限まで生かした完璧な火入れが施されている。自炊を頑張っている美里だからこそ、その見えないこだわりの凄まじさが、痛いほどによく分かった。
あの店で背筋を伸ばし、温かいご飯を噛み締める一時間は、美里の心を完全に調律してくれる。だからこそ、自分の料理が雑になればなるほど、恵介の作る料理への焦燥に似た渇望が、日増しに募っていくのだった。
午前中のうちに掃除と洗濯を済ませ、美里は少しだけ時間をかけて身支度を整えた。
お気に入りのチャコールグレーの傘を手に取り、トレンチコートの襟を少し立ててドアを開ける。
外に出ると、ひんやりとした秋の空気が頬を撫でた。小雨はまだ細く、しとしとと路地を濡らし続けている。アスファルトのあちこちにできた水たまりに、街灯の鈍い光が反射していた。
雨の日の外出は億劫なはずなのに、美里の足取りは驚くほど軽かった。
(今日は、どんなメニューだろう。冷えた身体に温かな料理が染みるだろうな…)
傘に当たる、パツパツという微かな雨音すら、心地よいリズムに聞こえてくる。商店街の手前、いつもの角を曲がれば、あの鮮やかなオレンジ色の暖簾が出迎えてくれるはずだ。今日は金曜日。一週間の激務を終えた自分への、これ以上ない完璧なフィナーレがそこにある。そう思うだけで、お腹の虫が待ちきれないように小さく鳴った。
だが、路地へと足を踏み入れた瞬間、美里の胸に奇妙な違和感が走った。
いつもなら、お昼時を前にして、店先からはほんのりと香ばしい焼き魚の匂いや、心を落ち着かせる豊かな出汁の香りが漂ってくるはずだった。換気扇から白く立ち上る温かな湯気が、雨の寒さを和らげてくれているはずだった。
しかし今日、その路地は、驚くほどひっそりと静まり返っている。
美里は無意識のうちに歩幅を狭め、傘を少し後ろに傾けた。
みかんの引き戸の前まで辿り着いたとき、彼女の動きは完全に凍りついた。
いつもなら誇らしげに掲げられているはずの、鮮やかなオレンジ色の暖簾がない。
代わりに、濡れたガラス戸の内側から、白い四角い紙が、心なしか乱雑にテープで貼り付けられているのが見えた。
美里は、差していた傘の柄を握る手にぐっと力を込め、その紙に近づいた。
そこに書かれていたのは、端正でありながらも、どこか焦ったように線が跳ねた、恵介の筆跡だった。
『本日、都合により臨時休業とさせていただきます』
「え…」
美里の口から、掠れた声が漏れた。
しとしとと降る秋の雨の音が、急にボリュームを増したかのように耳の奥に響く。
これを楽しみに、今週の過酷なシフトを乗り切ってきたのに。自分の雑な料理に落ち込みながらも、金曜日になれば、みかんのご飯が食べられると自分を励まし続けてきたのに。
世間から外れた平日休みを、唯一、最高の特別な日に変えてくれていたオアシスが、今日、閉ざされている。
冷たい雨の中、美里はチャコールグレーの傘の下で、ただ呆然と立ち尽くすことしかできなかった。切り捨てられたような激しい孤独感と絶望が、冷気とともに足元からじわじわと這い上がってくるのを、止めることができなかった。
(どうしよう、これから…。どこか他のお店を探すか、でも…)
一度みかんの優しく丁寧な味を求めてしまった胃袋と心は、今さら駅前のチェーン店やコンビニの弁当を受け入れそうになかった。趣味の自炊で行き詰まり、雑になっていく自分の食生活に落胆していたからこそ、今日のランチにはすがるような思いがあったのだ。
重い溜息を一つ吐き、美里が諦めて踵を返そうとした、その時だった。
ガラガラ、と。
静まり返っていた路地に、激しい音を立てて引き戸が開く音が響いた。
「あ」
美里が驚いて振り返ると、店の奥から一人の男性が勢いよく飛び出してきた。
この店の店主。美里が大将さんと呼んでいる、その人だった。
美里は、彼の名前が恵介であることを知っている。以前、店内で他の客が彼のことを親しげに恵介と呼んでいるのを、偶然耳にしたことがあったからだ。けれど、自分からその名前を口にしたことは一度もない。いつも大将さんと呼びかけ、恵介もまた、穏やかな微笑みとともに応じてくれていた。
恵介にとっての美里は、きっと名前は知らないけれど、毎週のように来てくれる大切な常連客の一人なのだろう。オープン初日に彼女が暖簾をくぐったあの日から、二人の間には、そんな心地よくて少しだけもどかしい、名前のない距離感が保たれていた。
しかし、今の彼の姿は、美里の知るどれとも違っていた。
いつも厨房で見せる、あの凛とした、一切の無駄を削ぎ落としたような静かな佇まいはどこにもない。作務衣の上に、慌てて暗い色のマウンテンパーカーを羽織っただけの衣服はどこか着崩れており、いつも整えられている黒髪は乱暴に指で掻き揚げられたように乱れている。何より、その端正な顔立ちが、見たこともないほどの焦燥と困惑に歪んでいた。
恵介は小雨が降る外へ出ようとして、店先に佇んでいた美里の姿に気づき、ぴたりと足を止めた。
「あ…っ」
大きく見開かれた恵介の瞳が、美里を捉える。その声は、走ってきたかのように短く弾んでいた。
「すみません…! せっかく、来てくださったのに…。今日、急に、店を開けられなくなってしまって。今朝までは普通に営業するつもりだったんですが、ついさっき、連絡が、あって…」
早口に言葉を紡ぐ恵介の胸が、浅く上下している。いつもの冷静な恵介から想像もつかないほど狼狽している姿に、美里の胸の中にただごとではない緊張感が走った。
「大将さん…。何か、あったんですか?」
美里が思わず一歩踏み出して尋ねると、恵介は痛切に顔を歪め、右手に握りしめたスマートフォンの画面を凝視しながら、吐き出すように言った。
「保育園から、電話があったんです。息子の翔太が、急に熱を出したから、すぐに迎えにきてほしいと…」
「え…」
一瞬、美里の頭の中が真っ白になった。
恵介の口から発せられた言葉の断片が、脳内でうまく結びつかない。
(保育園…? 息子さん…? 翔太くん…?)
大将さんに、子どもがいた。
その事実は、美里にとってあまりにも突然で、衝撃的だった。白木のように綺麗な手を持ち、いつも一人で静かに店を切り盛りしているあの若き料理人に、家族がいたのだ。




