一本の芯
使われている食材は、決して高級品ではない。厨房を覗けば、調理器具も一般家庭のそれよりはマシという程度で、特別な設備があるようにも見えない。
それなのに、これほどの深みを出せるものなのか。料亭という、完璧な道具と最高級の食材が揃った環境に長く身を置いてきた純にとって、この限られた条件での完成度は、ある種の衝撃でもあった。
「美味いなぁ。…恵介の料理は、それこそ誰よりもそばで見てきたと思っていたが、まだまだ俺の知らない技術があったんだな」
料理の提供が一段落し、入店も落ち着いた店内で、手際よく片付けをこなす恵介に声をかけた。
恵介は洗い物をしていた手を止め、かつての師匠に向かって、昔と変わらない柔らかな、それでいてどこか照れくさそうな笑みを浮かべた。
「純さんにそう言ってもらえると、本当に嬉しいです。でも、僕の技術や知識は、そのほとんどが純さんから叩き込まれたものですよ。純さんの背中を見てきたから、今の僕があるんです」
「嬉しいこと言ってくれるじゃねえか。…お前、食材はどうやって仕入れてるんだ?鶏にしろ野菜にしろ、どれも活きがいい」
話題は、料理人同士らしい実務的なものへと移っていった。
「食材は、ほとんどこの商店街で揃えています。肉も魚も、野菜もお米も。この街の個人商店は、どこもしっかりした仕事をしているところばかりで、本当に助かってるんです。僕が『今日はこういうのが欲しくて』と相談すると、一番いいところを分けてくれるんですよ」
恵介の言葉を聞き、純はここに来るまでに通った商店街の光景を思い出した。あの威勢のいい声や、旬の食材が山積みにされた店先の熱量。あそこで働く人々が、この店を支え、同時に恵介の料理が商店街に馴染み始めている。そんな循環が、この店には流れているようだった。
「なるほどな、近場に信頼できる顔馴染みがいるのは、何よりの強みだ。…それはそうとだ、恵介」
純は少しだけ真面目な顔になり、声を低くした。
「ちっとばかし、安すぎるんじゃねえか?経営は、その、大丈夫なのか?老婆心ながら心配になるぞ」
「ええ、なんとかやっていけてますよ。…確かに原価はギリギリかもしれませんけど、純さん、一人で店を回すとなると、お釣りがいらないというのは結構楽なんです。千円札一枚で完結すれば、お会計に時間を取られることもありませんしね。それに、小銭を細かく触るのはちょっと…。なるべく手を汚さず、料理へ移りたいんです」
単に立地や相場に合わせたわけではない。一人で切り盛りするための効率と清潔、そして客への配慮。すべてが理詰めで計算された上での千円。純は、自分の懸念が浅はかだったことを悟り、深く納得した。
「なるほどな。余計なお世話だったわけだ。…お前、本当にしっかりやってるんだな」
純が感心したように言うと、恵介は慌てて首を振った。
「そんな、余計だなんて。…心配してくださって、本当にありがとうございます。毎日忙しないですけど、結構楽しくやってます」
恵介の表情には、嘘偽りのない充実感が漂っていた。
先ほど座敷に案内されたサラリーマンたちも、満足げな顔で会計を終えて店を出ていった。それを見送ると、恵介は表へ出て、オレンジ色の暖簾を静かに下げた。今日はもう、新たな入店はない。午後の営業を終えた店内に、静寂が戻ってくる。
恵介は厨房に戻ると、淀みのない所作で掃除を始めた。その姿は、一日の仕事を終えた疲労感よりも、一つの城を守り抜いた満足感に満ちている。
「俺も、そろそろ帰らねえとな。…片付けが終わったら、出ないとだろ?」
洗い物をする手は休めず、だが顔はしっかりと純に向けたまま、恵介が答える。
「はい。今日は本当にありがとうございました、純さん。…わざわざ遠くまで来ていただいて、僕、本当に嬉しかったんです」
「…こんなに来るのが遅くなってすまなかったな。これからは、もう少ししっかりと休みを調整して、また顔を出すよ。美味かった。ごちそうさん」
純は財布から千円札を一枚取り出し、トレイに置いた。
恵介の言う通り、それはあまりにもあっさりと、それでいて敬意を込めたやり取りで完結した。
「ありがとうございます。…今度はぜひ、夜にでもゆっくり来てください」
「ああ、そうさせてもらうよ」
店を出ると、そこには再び、逃げ場のないジリジリと焼けるような熱気が待ち構えていた。
だが、不思議なことに、数時間前の絶望的な疲労感は消えていた。
店内の涼やかな空気と、丁寧な食事。それは忙しない現実から切り取られた楽園のような場所だったが、そこから戻ってきた自分は、間違いなく前を向くためのエネルギーを蓄えていた。弟子から与えられた刺激は、何十年も現場で戦ってきたはずの師匠の胸に、明日への微かな意欲を灯していた。
「いい店だ」
オレンジの暖簾に背を向け、純は駅へと続く商店街を歩き始めた。
時刻は十五時を過ぎ、商店街はさらに緩やかな時間へと移行していた。
普段の純は、仕事の都合もあり、家での料理はすべて妻の美枝子に任せきりだった。自分が包丁を握るのは、よほどの慶事か、あるいは気まぐれな休日の趣味程度。だが今日は、どうしても自分で食材を選びたいという欲求が抑えられなかった。
(今日は久々に、美枝子に何か作ってやるか)
そんな思いつきがふと頭をよぎった。恵介が愛用しているという商店街の熱に触れ、自分の手で、誰かのための食事を作る喜びを、もう一度確かめたくなったのだ。
昼下がりの商店街。少しずつ夕方の準備を始める店々を巡り、純はプロの目利きで今日の一品を探した。
豆腐屋の前を通ったとき、大豆の香りがふわりと鼻をかすめた。水に浸されたばかりの、角の立った木綿豆腐。
「これだ」
それから、上質な削り節と、艶やかな生姜。夕餉のメインにするには些か控えめかもしれないが、今の自分の気分には、それが一番しっくりきた。
自宅に着くと、純は鞄を置くのもそこそこに台所へ向かった。
Tシャツにエプロンという、およそ料理長らしからぬ姿だが、包丁を握る手に迷いはなかった。
豆腐の水分を丁寧に取り、片栗粉を薄く纏わせる。油の温度を指先で感じ、一気に投入する。
シュワシュワと軽やかな音が立ち、台所に香ばしい匂いが広がっていく。
出汁を引き、醤油とみりんで整えた琥珀色のつゆを、揚げたての豆腐にたっぷりとかける。仕上げに、卸したての生姜と細かく刻んだネギを散らした。
「やっぱり、あなたの揚げだし豆腐は絶品ね。…私、何度作ってもこの味にならないの。さすがはプロね」
食卓で、美枝子が本当に嬉しそうに、一口ずつ大切に食べる様を、純は静かに見守っていた。
かつて自分が料理人を志した理由を、ふと思い出す。
美枝子と結婚したのも、自分の作る料理を誰よりも美味しそうに食べてくれて、この不規則で過酷な仕事に就く自分を、一人の男として、一人の職人として尊敬してくれたからだ。
もう、何十年も連れ添った。
今さら感謝の言葉を述べるなど、照れくさくてとてもできない。だが、こうして丁寧な一皿を作ることが、純にできる唯一の、そして不器用な夫婦の対話だった。
(…料理を楽しむ心を、少し忘れてしまっていたのかもしれないな)
一人の料理人として純粋に味を追求することよりも、老舗の看板を背負う料理長としての管理や重圧が勝ってしまっていた。
恵介のように、今さらすべてを捨てて独立しようとは思わない。
だが、これからは少しずつ、現場を後進に譲り、自分自身がもう一度、一人の料理人としての技術を磨く時間を作ろう。信頼して任せることも、また一つの教育なのだと、今日、あの小さな城を守る弟子の背中から教わった気がした。
美枝子は後片付けを終えて、テーブルに戻るなり純に話しかけた。
「恵介くんは元気だった?お店を一人で切り盛りするなんて大変よね。夢だったとはいえ、あんなことがあったんだし、もう少し残っていれば良かったのに…」
「ああ。俺も店に行く前はそう思っていた。でもな、恵介の姿を見て確信したよ。あいつは一人でも店をやっていける。外野がとやかく言うことじゃない」
純はグラスに残ったビールをグッと流し込む。喉を鳴らすその仕草には、日頃の疲れではなく、心地よい充実感が滲んでいた。
「金の面で不安はあるだろうが、よく考えている恵介のことだ。精々店に通って金を落とすくらいしかやれることはない。それにそれだけの価値があそこにはあるぞ」
昼下がりに食べた、あの丁寧で心に染み渡るような料理を思い出し、純は思わず口元を緩ませた。
「あなたがそこまで言うなら間違いないわね。次の休みの時は私も連れていってちょうだい。恵介くんの顔も見たいわ」
恵介と純は、師弟を超えた家族ぐるみの付き合いをしていたため、美枝子も純同様、恵介を我が子のように可愛がっていた。
多忙を極め、みかんに顔を出そうとしない純を置いて、いっそ一人で行ってしまおうかとも考えていたのだが、誰より恵介の身を案じ、行きたがっていたはずの純を置いていくことは、美枝子には出来なかった。
「今度からはもう少し休むようにする。若手も少しずつだが仕事を任せられるようになってきた。最後は俺が見守る覚悟を持てていなかっただけだ。来週の休みに行くか」
「本当に?約束よ、あなた」
「ああ、嘘は言わんさ」
美枝子の嬉しそうな笑顔を見ながら、純は静かに微笑んだ。それから、テレビのニュース番組を眺めながら他愛のない世間話をいくつか交わし、夜は穏やかに更けていった。いつもならベッドに入っても消えなかった脳裏の焦燥感は、不思議なほどすっきりと消え去っていた。
翌朝、純はいつも通り、厨房へと足を踏み入れた。
これまでは、鋭い眼光と張り詰めた威圧感を全身から放ちながら厨房に入り、若手たちを緊張させていた純だったが、この日は違った。
調理場に足を踏み入れ、緊張した面持ちで「料理長、おはようございます!」と頭を下げる若手たちに向けて、純はいつになく穏やかな声で応じた。
「ああ、おはよう。…佐藤、それからみんな。急な休みを融通してくれて悪かったな。おかげでいい骨休めになった。ありがとう」
その言葉に、厨房の動きが一瞬だけぴたりと止まった。二番手の佐藤をはじめ、若手たちは誰もが耳を疑ったように呆然と純を見つめている。あの厳格で、一切の妥協を許さない料理長が、自ら頭を下げて感謝の言葉を口にするなど、これまでに一度もなかったからだ。
しかし、純の心には確かな余裕が生まれていた。
これまでは、優秀な右腕だった恵介が抜けた穴を自分がすべて埋めなければならないと、気負いすぎていた。新メニューの開発、仕込みの細部のチェック、産地との連携。すべてを自分一人で完璧に抱え込むことこそが、料理長としての責任だと信じ込んでいた。
だがそれは、若手たちの成長を信頼しきれず、自分が動くことで安心を得ようとしていただけだったのだと、みかんの厨房に立つ弟子の背中が教えてくれた。
「おい。出汁の引き方は悪くないぞ。…よし、次の煮物の味付け、お前に任せてみようか。やってみろ」
純は、いつもなら自分で直接手を出して調整していた工程を、驚く若手の板前に委ねた。
「えっ…あ、はい! やらせていただきます!」
若手は一瞬、緊張に肩を強張らせたものの、その瞳に明確なやる気が灯ったように感じられた。
ただ突き放して任せるのではない。純は一歩引いた場所から、じっと、しかし温かい眼差しで若手の包丁さばきや火加減を見守る。もし失敗したら、その時は料理長である自分がすべての責任を取ればいい。
恵介が一人で店を背負う覚悟を決めたように、自分もまた、彼らの師として見守る覚悟を持つべきなのだと、深く腑に落ちていた。
料理長の意識が変われば、厨房全体の空気も劇的に変わっていく。
ただ萎縮するだけの重苦しい緊張感は消え去り、心地よい活気と、「もっと上手くなりたい、認められたい」という若手たちの前向きな熱量が調理場を満たし始めた。ぴりぴりとしていた空間が、どこか柔らかく、けれど一本の芯が通った健やかな空気へと移行していく。
純は、生き生きと動き始めた若手たちの背中を見つめながら、静かに己の胸中で決意を新たにしていた。
(まだまだ教えないといけないことは山ほどある。包丁の入れ方ひとつ、火の通し方ひとつ、一人前と呼ぶには遠い道のりだ)
だが、それでいいのだと今は思える。
(俺にも、まだまだやれることはあるはずだ)
そして、約束の休日。
純は美枝子と並んで、再びみかんのオレンジ色の暖簾をくぐった。
「いらっしゃいませ!…あ、純さん、それに美枝子さん!よくおいでくださいました!」
厨房から顔を出した恵介が、驚きと心からの喜びが混ざった声を上げる。美枝子は「お邪魔するわね」と嬉しそうに微笑み、純もまた、小さく頷いて二人並んでカウンター席に腰を下ろした。
運ばれてきた定食を一口食べ、美枝子は「本当に美味しい、優しい味ね」と何度も目を細める。その幸せそうな妻の笑顔と、厨房で生き生きと立ち働く弟子の姿を眺めながら、純はお冷を喉に流し込んだ。




