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食事処みかん  作者: 蜜柑次郎
豚冷しゃぶの梅おろし和え

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6/46

器

 外の酷暑が嘘のように、程よく効いた空調が汗ばんだ肌を心地よく撫でる。そして何より、鼻腔をくすぐる出汁の香り。それは日本橋の高級店で扱われるような、これ見よがしに主張する一番出汁ではなく、もっと生活に根ざした、それでいて一切の雑味がない、誠実な香りだった。


「純さん!来てくれたんですか」


 カウンターの向こうで、こちらを注視していた恵介と目が合った。


 その顔を見て、純は安堵した。最後に見た時よりも少し痩せたようだが、瞳の光は以前よりも力強い。


「遠いところまでありがとうございます。ちょうどピークも過ぎました。カウンターでも座敷でも、好きなところに座ってください」


「なかなか顔を出せなくてすまなかったな。…お前の振る舞いを見たい。カウンターにさせてもらうよ」


 純が腰を下ろすと、すぐにキンキンに冷えたお冷と、清潔な布おしぼりが出された。


「ああ、生き返るな…」


 冷たい水を一気に飲み干すと、身体の芯に残っていた熱が引いていく。


 改めて店内を見渡す。決して広くはないが、隅々まで清掃が行き届き、調理器具は鈍い光を放っている。壁に掲げられたお品書きの看板には、几帳面な字で旬の献立が並んでいた。


「恵介らしいラインナップだ。どれも美味そうで迷うな。…在庫が余ってるやつはどれだ?」


 冗談交じりにそう聞くと、客にお冷を注ぎ足していた恵介が、懐かしい苦笑いを浮かべた。


「勘弁してくださいよ、純さん。在庫処分を師匠にさせる弟子がどこにいますか。…でも、もしおすすめを任せていただけるなら、今の純さんに食べてもらいたいものがあります」


 最後の一言。その時、恵介の目が弟子の顔から一国一城の主の顔に変わった。その真剣な眼差しは、かつて厨房で純の背中を必死に追いかけていた頃の、誰よりも信頼できる右腕のものだった。


「…わかった。それで頼む」


 注文を受けた恵介の動きは、純の知るそれとは、また質の違う洗練さを帯びていた。


 厨房でともに働いていた頃の恵介は、あくまで純の意図を汲み取り、先回りしてサポートすることに徹していた。だが今は違う。


 注文を受け、冷蔵庫から肉を取り出し、小鉢を用意し、片手で空いた食器を片付けながら、座敷にサラリーマン風の二人客を案内する。その一連の動作に、一切の無駄がない。


 一人で店を回すということは、単に料理を作ることではない。空間のすべてを支配し、客の視線を感じ、温度や音にまで気を配る必要がある。


 自分が今まで見てきた恵介の姿は、彼の持つ才能のほんの一部に過ぎなかったのだ。周囲への細やかな気配りは、狭い厨房でサポート役に徹するよりも、こうして孤独にすべてを背負う場所でこそ、真の輝きを放つ。


 純は、自分の右腕を奪われたという喪失感の裏側で、彼を自由にして正解だったのだと、初めて心の底から確信した。


 そのテキパキとした、それでいてどこか楽しげな弟子の姿を眺めているうちに、純の意識は、十数年前の古い記憶へと引き戻されていった。


 当時、純はまだ総料理長ではなく、厨房の現場を預かる副料理長。いわば、頼れるナンバーツーという立場だった。


 老舗の格式を誇る佳水の新人採用は、非常に狭き門だ。多くて二、三人、応募者の質が基準に満たなければ、採用ゼロの年だって珍しくはない。恵介が暖簾をくぐったその年は、まさに採用が彼一人だけという、同期のいない年だった。


 当時の厨房を率いていた料理長は、純の先輩にあたる男で、天才肌の感覚派だった。料理の美的な盛り付けや、客の度肝を抜くような独創性を何より重んじる。一方で、副料理長だった純は、徹底した基礎の積み重ねと、一分の隙もない理論的な正確さを求める職人だった。


 二人の信頼関係は決して悪くなかった。むしろお互いの足りない部分を補い合う、最高のコンビだったと言える。しかし、その高い要求を直接ぶつけられる下っ端の身からすれば、これほど大変な厨房はなかったはずだ。


「もっと器の中に四季の風を吹かせろ、情景を描け」と抽象的な美学を求める料理長。


「大根のケンは一ミリの狂いもなく並行に引け。水にさらす時間は秒単位で管理しろ」と冷徹な正確さを求める純。


 毛色の違う二人の絶対基準。普通の新入りなら、どちらの指示を優先すべきか分からずに混乱し、精神的に潰れてしまう。おまけに恵介には、厨房の裏で愚痴を言い合える同期が一人もいなかった。張り詰めた緊張感の中で、彼は常に一人きりだった。


 だが、恵介という男は異質だった。


 ある夜、純が誰もいないはずの深夜の調理場に忘れ物を取りに戻ったときのことだ。パチパチと蛍光灯が寂しく鳴る薄暗い厨房で、恵介がただ一人、黙々と包丁を握っていた。


 作業台の上には、山のような大根と里芋。恵介の手は、冷水での長時間の作業と包丁ダコで痛々しくボロボロに腫れ上がっていた。


 彼は、料理長が求めた器の中の情景を表現するための複雑な飾り切りを練習していた。それだけなら、ただの居残り練習だ。しかし純が驚愕したのは、その飾り切りされた野菜の全てが、純の課した一ミリの狂いもない正確な厚みを完璧にクリアしていたことだった。


『そこまでするか?』


 周囲のベテラン職人たちでさえ、二人の板挟みになって適当な妥協点を探そうとする中で、恵介だけは違った。料理長の芸術的な感性にも、純の妥協なき絶対の基礎にも、どちらの要求にも完璧に応えようと、一人きりでひたむきに牙を研ぎ続けていたのだ。他の誰もが理不尽だと諦める領域を、恵介は圧倒的な努力で、あっさりと超えてみせた。


 その夜、黙々と包丁を動かす恵介の孤独な、けれど一歩も退かない強い背中を見た瞬間、純は確信したのだ。こいつは、俺のすべてを注ぎ込んで育てるに値する、本物の器だと。


 あの時の不器用なほど誠実な姿勢が、今の土台になっているのだと、純は現在の恵介を見て深く得心した。


 やがて、信じられないほどの早さで一膳の定食が完成した。


「お待たせしました。本日の和定食、豚冷しゃぶの梅おろし和えです」


 目の前に置かれた盆を見て、純は思わず感嘆の息をもらした。


「…ほう。これは見事だな」


 それは、まさに夏の疲弊した身体が、細胞レベルで求めている正解そのものだった。


「純さん、梅はお好きでしたよね。…それに、相当お疲れのように見えましたから。さっぱりさせつつも、しっかりと活力がつくように仕立てました。召し上がってみてください」


 自分の不調を即座に見抜かれたことは、師匠として少しばかり悔しくもあったが、それ以上に、弟子のその眼力が誇らしかった。


 純は箸を取り、まずは主菜の冷しゃぶに目を向ける。


 一般的に冷しゃぶは、茹ですぎれば肉が硬くなり、冷やしすぎれば脂が白く固まって食感を損なう。だが、目の前の肉は、しっとりと水分を蓄えたまま、柔らかな桃色を保っている。


 その上にたっぷりと載せられたのは、大根おろしと叩いた梅肉を和えた特製おろしだ。そこにミョウガ、大葉、小ネギといった香味が、雪山に咲く高山植物のように鮮やかに散らされている。


 一口、肉を運び、梅おろしをたっぷり絡めて口に入れる。


「…美味い」


 衝撃が走った。


 まず訪れるのは、梅の鮮烈な酸味と、出汁をわずかに含ませた大根おろしの優しい甘み。そして、それを追うように広がる豚肉の旨味。驚くべきは肉の質感だ。一度沸騰した湯から外して余熱で火を通し、常温に近い氷水で締めたのだろう。とろけるような柔らかさでありながら、噛みしめるたびに肉本来の甘みが弾ける。


 昨日まで、無理やり胃に流し込んでいた賄いのうどんとは、重みが違う。食欲という、生きるための本能が、一瞬で目を覚ました。


 続いて、副菜の夏野菜の焼きびたしに箸を伸ばす。


 茄子、トマト、パプリカ、そして焼き目のついたトウモロコシ。


 茄子を一口噛めば、中から冷たい出汁がジュワリと溢れ出す。それぞれの野菜に合わせ、火入れの時間と皮の剥き方を変えていることが一目でわかる。トマトは湯むきされ、出汁の旨味を芯まで吸い込みながらも、その果肉のフレッシュさを失っていない。パプリカの皮は丁寧に炙って剥かれ、独特の苦味を甘みへと変えている。


 これは、定食屋の副菜のレベルではない。


 食材一つひとつに対して注がれた手間と時間は、高級料亭の先付けと何ら変わらない。派手な演出こそないが、そこには、この一皿で客の体調を整えたいという、恵介のひたむきな祈りにも似た誠実さが詰まっていた。


 そして、あおさと豆腐の味噌汁を啜る。


 温かい。夏場に冷たいものばかりを好む素人を諭すような、絶妙な温度だ。磯の香りが鼻を抜け、あおさのトロリとした食感が喉を潤す。


 極めつけは、白米だ。


 一粒一粒が自立するように炊き上げられ、噛むほどに米の香りが鼻へ抜ける。この米、この汁、このおかず。三位一体の布陣に一切の死角がない。


 純は、昨日までの自分を思い返した。


 老舗の料亭という巨大な看板を背負い、押し潰されそうな重圧の中で、ただ作業として賄いを胃に流し込んでいた日々。それは栄養を摂取しているだけであって、決して食事ではなかった。


 だが今、目の前の空になった器を見つめながら、純は自分の内側が温かな何かで満たされているのを感じていた。


 改めて、店内の壁に掲げられた黒板メニューに目をやる。


 和食、洋食、そして中華まで、多岐にわたるラインナップが並んでいるが、そのすべてに千円という端正な数字が添えられている。


 この味、この盛り付け、そして一切の妥協を感じさせない下ごしらえ。


 料亭の感覚で言えば、このクオリティを千円で提供するなど、正気の沙汰ではない。もしこれが日本橋の一等地であれば、席料だけでその数倍を請求しても、客は安すぎると驚くはずだ。


 街の定食屋と、歴史ある料亭を同じ土俵で比べることに意味がないのは百も承知だ。しかし、恵介という料理人の腕を知り尽くしている純にとって、彼の技術がこれほどまでに安価に、それこそ使い捨てられるような価格で提供されていることが、どうしても、もったいないと感じられてならなかった。


 昨日までの自分であれば、この一膳を平らげるのに、一体どれほどの時間がかかっていただろうか。時計を気にし、次の予定を反芻しながら、味わう間もなく飲み込んでいたに違いない。だが今日は違った。箸を休める余裕さえないほど、無我夢中で、それでいて一口ごとの重みを噛みしめるように、最後の一粒まで平らげてしまった。


 純は冷えたお冷をゆっくりと飲み干し、深く、深く一息ついた。

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