答え
それまで静かに見守っていた宗一が、深く、満足そうに息を吐き出し、信之に向かって一礼した。
「庄司さん、本当に…本当にありがとうございます。親として、これ以上の救いはありません。恵介、ありがたいことだな」
「うん…本当にお義父さんとお義母さんには、感謝しかありません」
恵介は声を震わせながら、もう一度深く頭を下げた。
千鶴の膝の上にいた翔太が、しのぶと信之の涙を見て不思議そうに首を傾げ、トコトコと美里の側へと近寄ってきた。そして、美里のワンピースの裾を小さな手でぎゅっと握りしめる。
「みんな、どうして泣いてるの?お腹いたいの?」
美里は涙を浮かべた目のまま、翔太の小さな身体をそっと抱き寄せ、その頭を優しく撫でた。
「ううん、違うよ、翔太くん。みんな、すっごく嬉しくて、心がポカポカしているから涙が出ちゃうの」
「ぽかぽか?ととのお粥とおんなじ?」
「ふふ、そうね。お粥と同じくらい、とっても温かいのよ」
翔太の無邪気な言葉に、座敷のあちこちから、今度はどっと温かい笑い声が弾けた。先ほどまでの張り詰めた空気は嘘のように霧散し、店内はまるで春の陽だまりのようなぬくもりで満たされていく。
窓の外では、一月の厳しい乾いた北風が商店街を吹き抜けていたけれど、食事処みかんのオレンジ色の灯りの下には、もう凍えるような寒さはどこにもなかった。
亡き妻の両親と新しい妻、そして実の両親。複雑に絡み合うはずの人間模様が、翔太と恵介の幸せを願う一つの大きな想いによって、これ以上ないほど強固に、そして温かく結びついていく。
恵介は四人の親たちの笑顔を見つめながら、男として、料理人として、これから始まる新しい日々のすべてをこの場所で背負って立つ誇りを、静かに、けれど揺るぎなく胸に刻み込んでいた。
張り詰めていた座敷の空気が、しのぶの流した安堵の涙によって優しく解きほぐされていく。恵介は深く下げていた頭をゆっくりと上げ、もう一度だけ、四人の親たちの顔を見回した。
すみれの両親である信之としのぶは、互いの肩を寄せ合うようにして、何度も何度も深く頷いてくれている。フランスから帰国した父の宗一は、腕組みをしたまま、誇らしげに恵介の目を見据えていた。母の千鶴は、再び膝の上に戻ってきた翔太を愛おしそうに抱きしめ直しながら、目元を優しく緩めている。
誰もが、新しい一歩を心から祝福してくれていた。その事実が、作務衣の背中を、温かく、そして力強く後押ししてくれる。
「みんな。…ありがとうございます。それじゃあ、少し遅くなってしまいましたが、お正月の料理を用意してあるので、ぜひ召し上がってください」
「ととのごはんだ!」
千鶴の膝の上で、翔太がぴょんと跳ねるようにして声を上げた。その無邪気な一言に、座敷には温かい笑い声が広がる。
「私もお手伝いしますね、恵介さん」
美里がそっと立ち上がる。その表情からは、先ほどまでのガチガチとした緊張が綺麗に消え去り、いつもの凛とした、けれど柔らかな微笑みが戻っていた。
厨房に入ると、すでに調理を完璧に終えた三段の重箱が、清潔な調理台の上に静かに鎮座していた。
恵介は深く息を吸い込み、料理人としての顔に戻る。
今日この日のために、彼は自らの持てるすべての技術と、これまでの歩みのすべてを注ぎ込んでいた。
料亭時代に叩き込まれた、伝統的で一切の妥協を許さない和の技法。フランスで自分の店を持つ父・宗一から、定期的な情報交換のなかで貪欲に吸収してきた洋の感性。そして、中国の第一線で今なお鍋を振るう母・千鶴から授かった、複雑で奥深い中華の真髄。
それらをただ並べるのではない。三年近く、この街に根を張り、訪れる常連客の胃袋と心を実直に満たしてきた、食事処みかんの店主としての優しさを、すべての皿の根底に流し込む。それが、恵介の出した一つの答えだった。
「翔太、この小さなお皿、じいじたちのところに持っていけるかい?」
「うん!落とさないように持っていける!」
翔太は小さな両手で丁寧に取り皿を抱え、美里が次々と美しい大皿や重箱を座敷のテーブルへと運んでいく。
すべての料理が並び終えたとき、座敷からは、料理人の大先輩である宗一と千鶴からさえも、感嘆のため息が漏れ出していた。
テーブルの上は、まさに豪華絢爛。
一の重に収められているのは、目の覚めるような美しい和の王道だ。
恵介が最もこだわり抜いた数の子は、丁寧に薄皮を剥き、鰹節と昆布の極上の一番出汁に一晩漬け込まれている。美しい黄金色をした数の子に箸を伸ばし、信之が口へと運んだ。
パチン、と小気味良い、澄んだ音が座敷に響く。
「…素晴らしいな。歯ごたえが最高の状態で残っている。それに、噛むほどに出汁の旨味が中からジュワッと溢れてくるようだ。本当に丁寧な仕事をしているのがよく分かるよ」
信之の言葉に、恵介は静かに一礼した。
その隣には、時間をかけてじっくりと、皮が破れないよう細心の注意を払って炊き上げられた丹波黒豆が並んでいる。艶やかな漆黒の豆の頂点には、新春を祝う金箔がひっそりと添えられていた。しのぶがそれを口に含むと、ふくよかな甘みとともに、豆本来の濃厚な香りが優しく広がっていく。
「本当にふっくらとしていて、優しい甘さね…。固すぎず、柔らかすぎず、口の中でとろけるようです。恵介くん、これだけの数を一人で仕上げるなんて、どれほど寝る間を惜しんでくれたの」
しかし、宴の本番はここからだった。和の伝統の調和を崩すことなく、そこに洋と中が見事なまでのオリジナリティをもって融合していた。
テーブルの中央で圧倒的な存在感を放っているのは、父・宗一から贈られた極上の鴨肉を使った鴨のローストだ。
絶妙な火入れにより、断面は美しいロゼ色に輝いている。恵介はその鴨肉に、この店の象徴でもあるみかんを使った特製のガストリックを隠し味にした赤ワインソースをたっぷりとあしらっていた。
宗一が厳しい料理人の目でその肉を見つめ、一切れを口に運ぶ。じっくりと咀嚼し、目を閉じて味の広がりを確かめる父親の姿に、恵介は料亭の試験のときのような心地よい緊張感を覚えていた。
やがて、宗一がゆっくりと目を開け、深く、満足そうに息を吐き出した。
「…鴨の脂の濃厚な旨味を、みかんの爽やかな酸味とビターな糖分のコクが完璧に切り込んでいる。フランスの古典的な技法だが、みかんの瑞々しさを活かすことで、これほど軽やかで奥深い仕上がりになるとはな。恵介、この前食べた時より美味くなってるな」
「ありがとう。父さん」
世界で戦う父親からの最大の賛辞に、恵介の胸の奥が熱く震える。
「ちょっと、お父さんばかりずるいわ。私の料理も、ちゃんと恵介の血肉になっているかしら?」
千鶴がお茶目に笑いながら箸を伸ばしたのは、赤く艶やかに輝く海老のチリソース炒めだった。
大ぶりの海老は、殻ごと絶妙な油通しがされており、甘辛いソースがしっかりと絡んでいる。一口食べた千鶴は、すぐにそのソースの秘密に気づいたように、パッと目を見開いた。
「まあ…これ、ただの豆板醤じゃないわね?自家製の醤を使っているでしょう」
「よくわかったね、母さん。夏から仕込んでおいた麹と、この街の八百屋で見つけた無農薬の唐辛子を合わせて、じっくり発酵させたんだ。母さんから教えてもらった中華のベースに、日本の気候で育った旨味を足してみたくて」
「美味しい…!海老のプリプリした食感を邪魔しない、角の取れた、でも奥からじわじわと上がってくる深い辛みとコク。お見事よ、恵介。これは完全にあなただけの料理ね」
千鶴が何度も大きく頷きながら、嬉しそうに海老を口へと運んでいく。
その豪華な料理たちの中心にあるのは、大きなおひつにたっぷりと炊き上げられた、炊きたての白米だった。
この日のために、商店街の米屋と相談して仕入れた最高級の単一米。蓋を開けた瞬間、真っ白な美しい湯気が立ち上り、甘く香ばしい香りが座敷を満たす。一粒一粒が自立するようにしっかりと立ち、まるで真珠のようにきらきらと輝いていた。
美里がそのご飯を手際よくお茶碗に盛り付け、親たちの前へと配っていく。
「さあ、皆さん、ご飯が温かいうちにどうぞ」
信之がその輝く白米をごっそりと箸で掬い、鴨のローストを口に含んだ後に追いかけるようにして流し込んだ。
「…美味いなぁ!このご飯自体が驚くほど甘くて美味いのに、恵介くんの作る和洋中のおかずを、すべて受け止めてくれる。定食屋の命は米だって、以前聞いたことがあるけど、まさにその通りだ。箸が止まらなくなってしまうよ」
「とと、翔太もご飯おかわり!」
翔太が小さなお茶碗を突き出し、美里が「はいはい、たくさん食べてね」と優しく微笑みながらご飯をよそってやる。
「美味しい…本当に、美味しい…」
しのぶが数の子を噛み締めながら、純粋な幸福感に満ちた涙を薄っすらと目に浮かべていた。
「こんなに綺麗で、こんなに優しくて、力強いおせち料理、生まれて初めて食べました。食べただけで、身体の奥から元気が湧いてくるのが分かるわ」
「ありがとうございます、お義母さん。僕を、そして翔太を支えてくれた皆さんに、どうしても僕の料理で感謝を伝えたかったんです。食べて、笑顔になってもらえること。お腹いっぱいになって、明日からまた頑張ろうって思ってもらえること。それだけを考えて、この厨房で鍋を振ってきました。…それが、僕の選んだ、この街での生き方です」
恵介の言葉は、飾らない本心だった。
プロとしての最高峰の技術を持ちながらも、彼は決して、高級料理の世界に戻ろうとはしなかった。街の人々の日常のすぐ傍らで、千円の定食を提供し続けること。その日々の積み重ねこそが、今のこの圧倒的な美味しさの説得力を生み出しているのだ。
宗一と千鶴は、そんな息子の凛とした佇まいを見つめながら、静かに、けれど深く得心のいったように笑い合い、我が子の作った至高の祝い膳を、愛おしそうに噛み締めていた。
夜の帳が完全に辺りを包み込む頃、食事処みかんの座敷には、日本酒の芳醇な香りと、絶え間ない笑い声が心地よく満ち満ちていた。




