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食事処みかん  作者: 蜜柑次郎
新春の祝い膳

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宣言と祝福

 おせち料理は綺麗に平らげられ、テーブルの上には、商店街の酒蔵から融通してもらった新春の限定酒が、美しいガラスの徳利の中で静かに澄んだ光を放っている。


「いやあ、信之さん、もう一杯いかがですか?」


「おっ、宗一さん、いただきます。すっきりとしていて、料理の余韻を邪魔しない良いお酒ですね」


 信之と宗一は、すっかり意気投合した様子で、何度も盃を交わし合っていた。その真ん中には、お腹いっぱいになって少し眠くなったのか、二人のじいじの膝を交互に行き来しながら、ミニカーで遊んでいる翔太の姿がある。息子が自然に愛されている姿を見て、恵介はカウンターの奥で静かに胸を撫で下ろしていた。


 座敷の片隅では、美里が甲斐甲斐しく動き回っていた。


 空いた大皿を素早く厨房へと下げ、親たちの湯呑みが空きそうになれば、絶妙なタイミングで温かいほうじ茶を淹れていく。酒が進みすぎれば、さりげなく和らぎ水を横に置く。


 そのさりげない所作は、かつてこの店の常連客として恵介の動きをじっと見つめていた彼女だからこその、細やかな気配りに満ちていた。


「美里さん、そんなに動かなくていいのよ。あなたもちゃんと座って、一緒に飲みましょう?」


 千鶴が優しく声をかけ、空いている座布団をぽんぽんと叩いた。


「いえ、お義母様、私はこれくらい動いている方が落ち着きますので…」


 美里が少し恐縮したように微笑むと、今度はしのぶが、美里の空いている方の右手を、下から包み込むようにしてそっと握りしめた。


「美里さん。…本当に、ありがとうね」


 しのぶの声は、昼間の張り詰めたものとは違い、どこまでも穏やかで、深い慈愛に満ちていた。


「美里さんが、これまで大切にしてきた保育士の仕事を一区切りにしてまで、この家に入ってくれるって。…それはね、簡単にできることじゃないわ。自分の人生を賭けて、この不器用な男の子と、小さな孫を支えようとしてくれている。そのことが、私たちは何より嬉しくて、ありがたいの」


 千鶴もまた、テーブル越しに身を乗り出し、美里のもう片方の手を優しく、固く握りしめた。


「そうなのよ、美里さん。私なんてね、中国に勝手に渡ってしまって、母親らしいことなんてしてあげられなかった。恵介がシングルファザーとして一人で苦しんでいる時も、遠い国からやきもきしながら見守ることしかできなくて…。あの子がどれほど孤独だったか、どれほど誰かのぬくもりを求めていたか。それを、美里さんが救ってくれたのね。本当に、ありがとう。恵介を、翔太くんを、よろしくおねがいしますね」


 二人の母親から、同時に手を握りしめられ、真っ直ぐな感謝の言葉をぶつけられた美里は、一瞬、驚いたように目を見開いた。


 実家が遠方にあり、この街で一人、壁を作って生きていこうとしていた彼女にとって、これほどまでの濃密な親の温かさに包まれるのは、人生で初めての経験だった。


 夫の亡き妻の母親と、実の母親。その二人が、わだかまりなく、自分という存在を、大切な娘として、全面的に受け入れてくれている。


 美里の胸の奥から、じわじわと、熱い感情が込み上げてくる。


「私…」


 美里の声が、微かに震える。彼女は溢れそうになる涙を堪えるように、何度も深く瞬きを繰り返した。


「私、一人で生きていくんだって、ずっと勝手に決めていました。でも…今日、こうして皆さんとお会いして、お話をさせていただけて…。私、一気にお義父さんとお義母さんが、四人も増えたみたいで、すごく…すごく嬉しいです…」


 美里のその飾らない、心からの言葉に、座敷の大人たちは一瞬にして心を完全に掴まれていた。


「まあ、美里さん…!」


 しのぶがたまらず美里の身体を優しく抱きしめ、千鶴もその肩を愛おしそうに撫でる。信之と宗一も、お酒の手を止め、本当に嬉しそうに目元を緩めて二人の娘を見つめていた。


 美里は、しのぶの温かい胸に包まれながら、ふと、今日だけ座敷の床の間にひっそりと飾られている、小さな写真へと視線を向けた。


 そこには、三年前と変わらない、太陽のような明るい笑顔を浮かべたすみれの姿があった。


 美里は心の中で、その亡き先妻に向かって、深く、静かに語りかけているようだった。


『すみれさん。私は、あなたの代わりになることは絶対にできません。あなたが恵介さんと夢見た店の形も、あなたが翔太くんに注ぎたかった愛の深さも、私は到底及びません。…でも、私は小泉美里として、この人を、この子を、そしてこのみかんというお店を、私の人生のすべてをかけて、生涯支えていくことを誓います。だから、どうか安心してみんなを見守っていてください』


 美里のその横顔を、恵介はカウンターの奥から、深い、深い愛おしさとともに見つめていた。


 彼女の瞳の奥にある揺るぎない覚悟と、四人の親たちを一瞬で虜にしてしまったその圧倒的な誠実さ。美里がいてくれたからこそ、早川家と庄司家の絆は、新しい、さらに強固な一つの家族として生まれ変わることができたのだ。


 恵介は胸の奥底から湧き上がる、言葉では到底表現しきれないほどの感謝と誇りを噛み締めながら、夜の静寂の中に響く、愛おしい家族の笑い声を、ただ静かに胸に刻んでいた。


 三月末。街には、浅い春の匂いが微かに漂い始めていた。日中の風はまだどこか冷たさを残しているものの、商店街のアーケードを一歩出れば、街路樹の先には瑞々しい新緑の蕾が、今か今かと開花の時を待っている。


 午後十一時。しんと静まり返った食事処みかんの厨房は、静寂に支配されていた。


 数日前に保育士としての最後の勤務を立派に終え、明日からの新しい生活に備えて眠る美里と、無邪気な寝息を立てる翔太が隣にいる。


 恵介は、どこか落ち着かない気持ちを抱え、布団からそっと抜け出し、一人で静かに厨房へと降りていた。


 明日からは、ついに昼夜の本格営業が始まる。それは生前、すみれと二人でパンフレットを広げ、夜のメニューはどうしようか、お酒は何を置こうかと、何回も語り合っていた、この店の本当の完成の形でもあった。


 恵介は使い込まれた木綿の布巾を手に取り、誰もいないカウンターをゆっくりと拭き始めた。木目に沿って何度も往復させる。


 仕込み台の上には、明日から始まる夜営業のために新しく仕入れた、初春の食材たちが静かに出番を待っていた。


 泥を丁寧に洗い落とした、瑞々しく香りの高い筍。独特のほろ苦さが春の訪れを告げるタラの芽やふきのとう。それらの食材を一つ一つ、愛おしそうに手入れしながら、恵介の脳裏には、この数年の歩みが、走馬灯のように鮮烈に蘇っていた。


 すみれを癌で亡くしたあの日、恵介の時間と世界は完全に真っ暗になった。


 息をすることさえ苦しい、底のない絶望の中で、義務感だけで、生きてきた日々だった。


 翔太に心配をかけまいと、落ち着きを装ってはいたけれど、その実、自分の未来に冷たいブレーキをかけ、殻に閉じこもることで、それ以上の傷を負うことから必死に逃げていた。


 そんな自分たちの、完全に凍りついていた心を、優しさで溶かしてくれたのが美里だった。


 オープン初日の最初のお客さんとしてロールキャベツを美味しそうに食べてくれたあの日から、彼女はいつも、早川親子の歪な形を真っ直ぐに受け入れ、静かに寄り添い続けてくれた。


 美里がいてくれたからこそ、翔太は心の隙間を埋め、笑顔で今を生きている。


 そして自分自身もまた、もう一度誰かと共に生きる未来を。男として、料理人として信じる強さを手に入れることができたのだ。


 美里は、自分たち親子にとって、暗闇の底に差し込んできた、かけがえのない、温かいオレンジ色の光だった。


 恵介は手を止め、厨房の片隅、仕込み台のすぐ横にひっそりと置かれている、小さな写真へと視線を向けた。


 そこには、あの日から一歩も年を取らない、太陽のような笑顔を浮かべたすみれがいた。


 恵介は誰もいない厨房の静寂の中で、その写真に向かって、ぽつり、ぽつりと、心の奥底にあるすべての想いを語りかけるように、声を落とした。


「すみれ。…僕、明日から、新しく一歩を踏み出すよ」


 その声は、微かに震えていたけれど、料理人としての、そして一人の男としての揺るぎない覚悟の熱を帯びていた。


「すみれと二人で夢見ていたこの店を、明日から、夜もちゃんと開ける。…すみれの代わりなんて誰にもできない。一緒に過ごした愛おしい時間も、失ったあの痛みも、僕は一生、一瞬だって忘れないよ。…でもね、僕は今、美里さんという、本当に素晴らしい女性と出会って、もう一度、新しい家族の形を作っていくことを決めた。すみれが遺してくれた大切な命も、誓い合ったこの店の夢も、全部、この手でしっかりと抱きしめて、これからの人生を美里さんと翔太と一緒に、この街で生きていく。…だから、すみれ。どうか、空の上から、僕たちの新しい幕開けを、見守っていてくれ」


 宣言を終えた恵介は、日付をまたぐ前に布団に戻り、明日から始まる船出に向けて眠りについた。


 翌日、清々しい風が、新緑の匂いを乗せて、商店街の通りをすうっと吹き抜けていく。


 恵介の手によって、四月からの門出のために新調された、鮮やかなオレンジ色の暖簾が、店の軒先にすっと掲げられた。


 春の柔らかな、眩いばかりの陽光をその身に浴びながら。


 暖簾はパタパタと、未来を祝福するように、ただ静かに、いつまでも風に揺れていた。


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