新春
年が明け、正月休みの真っ只中にある商店街は、多くの店がシャッターを下ろし、いつもよりずっと物静かな佇まいを見せていた。冷え切った冬の空気がアーケードを通り抜けていく。
そんな中、商店街を抜けた少し先にある、食事処みかんには、いつもとは違う形で明かりが灯っていた。入り口のガラス戸の向こうから漏れ出すオレンジ色の柔らかな光が、街路を温かく浮かび上がらせている。
店先に暖簾は出ておらず、準備中の木札がかけられていたが、内側からは賑やかな、それでいてどこか緊張感を孕んだ気配が漂っていた。
いつもはお客さんを迎えるカウンター席と、四人掛けの座敷が二つある小ぢんまりとした店内。その座敷のテーブルを二つ並べ、恵介の父・宗一、母・千鶴、そして亡き妻・すみれの両親である信之としのぶが向かい合わせに腰を下ろしていた。
それぞれフランスと中国で料理人として腕をふるう宗一と千鶴は、この日のためにスケジュールを合わせて一時帰国していた。こうして両家の親たちが一堂に会するのは、実に三年前、すみれの葬儀以来のことだった。
「いやあ、宗一さんも千鶴さんも、遠いところわざわざありがとうございます。全員揃うのは久々ですね」
信之が穏やかな笑顔を浮かべ、手元の湯呑みを少し持ち上げた。
「こちらこそ、ご無沙汰しております。普段日本を離れているせいで、恵介や翔太のことをお二人に頼りきりになってしまって、本当に申し訳ありません」
宗一が深く頭を下げると、しのぶが「とんでもない」と優しく手を振った。
「恵介くんは本当に立派に翔太くんを育てていますよ。私たちの方が、可愛い孫の顔を頻繁に見せてもらって、元気をもらっているくらいですから」
親たちが交わす言葉は温かく、そこには確かな信頼関係があった。しかし、彼らの視線が時折、厨房の奥へと向けられるたび、その瞳には一様に、これから何が語られるのかを察したような、深い静けさが宿る。
厨房の中では、作務衣に身を包んだ恵介が、一見いつも通りに手を動かしていた。けれど、その背筋は料亭の厳しい修行時代のようにピンと張り詰めており、手元のお盆を持つ指先には僅かに緊張の力がこもっている。
その隣には、紺色のワンピース姿の美里が立っていた。彼女の小さな手が、胸元できゅっと握りしめられている。美里の緊張が痛いほど伝わってきて、恵介は小さく息を吐き出すと、彼女にだけ聞こえるような低い声で言った。
「…大丈夫だよ、美里さん」
「はい…。少し、ドキドキしてしまって」
「みんな、本当に優しい人たちだから。僕の口から、ちゃんと順を追って誠実に話す。美里さんは、ただ僕の隣にいてくれればいいからね」
恵介がそっと微笑みかけると、美里は大きく深呼吸をし、それから力強く、けれどどこか安心したように頷いた。
その時、二人の足元を衣服が小さく引っ張った。見下ろすと、いつもより少し仕立ての良いセーターを着た翔太が、丸い瞳で恵介と美里を見上げていた。
「とと、じいじたちのごはん、もっていく?」
「そうだね、翔太。じゃあ、まずはこの温かいお茶とおしぼりをお席に運ぼうか。お手伝い、できるかい?」
「うん!翔太、できるよ!」
翔太は小さな両手でおしぼりの乗ったトレイを大事そうに抱え、トコトコと座敷へと歩いていく。その無邪気な後ろ姿に、恵介と美里は顔を見合わせ、自然と笑みをこぼし合った。肩の余計な力が、すっと抜けていくのが分かった。
お茶を運び終えた翔太を千鶴が「ありがとうね」と膝の上に抱き上げたタイミングで、恵介と美里は厨房から出て、四人の親たちの前に並んだ。
恵介は座敷の畳の上に真っ直ぐに正座し、美里もそれに倣って静かに膝をつく。オレンジ色のペンダントライトが、二人の頭上を静かに照らしていた。
「父さん、母さん。お義父さん、お義母さん。今日はお正月の忙しい時期に、こうして集まっていただいて、本当にありがとうございます」
恵介の声は、いつもより一段と低く、けれど店内の隅々にまで真っ直ぐに届く響きを持っていた。四人の親たちは一斉に姿勢を正し、恵介と言葉を交わすのを待っている。
「今日は、皆さんにきちんとお伝えしたい大切な報告が二つあって、この場所を作らせてもらいました。…まず、一つ目です」
恵介は一度、隣にいる美里へと視線を向けた。美里もまた、背筋を伸ばして親たちの目を真っ直ぐに見つめ返している。
「お付き合いをさせていただいている小泉美里さんと、年が明けたこのタイミングで、正式に入籍をすることに決めました。これからは、美里さんと、翔太と、三人で新しい家族の形を作っていきます」
静まり返っていた店内に、恵介の言葉が明瞭に響き渡った。
親たちの間で、微かな息を呑む音が交錯する。
恵介は言葉を止めず、そのまま二つ目のご報告へと移った。ここで曖昧に濁すのではなく、自分たちがどれほど真剣に未来を見据えているかを、具体的な生活の設計図とともに示すことこそが、親たちに対する最大の誠実さだと考えていたからだ。
「そして、二つ目の報告です。それに伴って、四月からこの食事処みかんを、昼夜の本格営業としてリニューアルスタートさせます」
今度は、宗一と千鶴の目が驚きに僅かに見開かれた。彼らは料理人の大先輩として、子育てをしながら夜営業に手を広げることが、どれほど過酷なものであるかを瞬時に理解したのだ。恵介はその懸念を遮るように、一文字一文字を丁寧に重ねていく。
「もちろん、翔太の生活を一番に考えてのことです。これまでは僕一人でランチ営業をして、翔太のお迎えに行って、と体力的にも限界がありましたが、四月からは美里さんが保育士の仕事を一区切りにして、正式にみかんに、僕の相棒として入ってくれることになりました」
恵介はそこで一呼吸おいて続ける。
「具体的なスケジュールとしては、日曜日を定休日とし、家族の時間をしっかりと作ります。平日の夜営業に関しては、当面は僕が一人で厨房を回し、美里さんには二階の居住スペースで翔太と一緒に過ごしてもらって、営業終了後の片付けくらいを手伝ってもらう形にします。そして、一番忙しくなる土曜日の営業については…もしよろしければ、お義父さんとお義母さんに、少しだけ翔太を預かるなどのお力を貸していただけないかと、そう考えています。美里さんの実家は遠方なこともあり、まずはこの街にいる僕たちと、お義父さんお義母さんに助けてもらえたらと思ってます」
恵介はそこまで説明し終えると、深く、深く畳に両手を突き、頭を下げた。隣の美里もまた、流れるような美しい所作で、恵介と並んで深く頭を下げる。
「どうか、僕たちの新しい一歩を、認めていただけないでしょうか。よろしくお願いいたします」
店内に、しんとした静寂が訪れた。
頭を下げたままの恵介の視界には、畳の青い織り目だけが映っている。心臓が激しく脈打つ。
義母であるしのぶは、以前背中を押してくれた。けれど、亡き妻すみれの両親である信之としのぶの前で、別の女性との結婚を口にするということが、どれほど重い意味を持つか。
忘れないでほしいという想いも、手放しで喜べない複雑な葛藤があることも、恵介は痛いほど分かっていた。だからこそ、その沈黙の数秒が、まるで永遠のように長く感じられた。
やがて、静寂を破ったのは、衣擦れの音だった。
そして、ふす、と鼻をすするような小さな音が聞こえた。
「恵介くん…顔を上げて」
しのぶの、ひどく震えた、けれど限りなく優しい声が響いた。
恵介がゆっくりと顔を上げると、そこには、目元を真っ赤に染め、大粒の涙を頬に伝わせているしのぶの姿があった。その隣に座る信之もまた、目元を何度も指先で拭っている。
拒絶の視線ではなかった。そこにあったのは、深い、深い安堵だった。
「お義母さん…」
「ごめんなさいね、驚かせちゃって。でもね、嬉しくて…本当に、良かったと思って…」
しのぶはハンカチで目元を押さえながら、涙の隙間から溢れんばかりの温かい笑顔を恵介と美里に向けた。
「この三年近く、恵介くんがどれだけ自分をすり減らして、すみれとの約束のために必死に走ってきたか、私たちは一番近くで見てきました。どんなに辛い夜も、私たちの前では決して弱音を吐かず、翔太のためにって…。でもね、私たちはそれがずっと、切なかったのよ。いつかこの子が倒れてしまうんじゃないかって、すみれに縛られて自分の人生を真っ暗なままにしてしまうんじゃないかって、それが何より怖かったの」
しのぶはテーブル越しに身を乗り出し、畳の上の美里の手へと、そっと自分の手を重ねた。
「美里さん。恵介くんの凍りついていた心を溶かしてくれて、本当にありがとう。翔太くんに、温かい笑顔を向けてくれて、本当にありがとうございます。…すみれもね、きっと今、空の上で『お父さん、お母さん、良かったね』って、誰よりも安心しているわ。だってあの不器用な恵介くんが、こんなに素敵な生活の計画まで立てて、もう一度前を向く決断をしてくれたんですもの」
信之もまた、何度も大きく頷いた。
「恵介くん、よく決断してくれたね。土曜日のお手伝いなんて、いくらでも喜んで引き受けるよ。私たちはいつだって、君と翔太くんの味方だから。美里さん、実家が遠くて寂しいこともあるかもしれないけれど、これからは私たちのことも、本当の親だと思って何でも頼ってくださいね」
その言葉を聞いた瞬間、恵介の胸の奥に澱のように溜まっていた最後の後ろめたさが、一瞬で消え去っていった。
亡き妻の両親が、自分たちの新しい門出を、わだかまりなく、これほどまでに祝福してくれている。その奇跡のような優しさに、恵介の瞳からも、じわりと熱いものが込み上がってくるのを止められなかった。




