軌跡
午後二時半を回り、店先に掲げていた商い中の木札を、準備中へとひっくり返す。
十二月の寒風に晒されていたオレンジ色の暖簾を丁寧に畳み、店内に戻ると、それだけで張り詰めていた身体の緊張がかすかに解けた。
平日のランチ営業を終えた店内は、しんと静まり返っている。
さっきまで満席だったカウンター席や、賑やかな笑い声が弾んでいた座敷の余韻は消え去り、あるのは厨房の機械が低く唸る規則正しい作動音だけだ。
恵介は、使い込まれた木綿の布巾を手に取り、無垢材のカウンターをゆっくりと拭き始めた。木目に沿って何度も往復させる手つきは、料亭時代に叩き込まれた通り、無駄がなく洗練されている。
西に傾き始めた冬の太陽が、店内に斜めの光を投げ入れていた。その柔らかく、どこか物悲しい光の筋の中で、小さな塵が金色の粒子のようにきらきらと踊っている。
恵介は手を動かしながら、今朝、二階の居住スペースの食卓で美里から告げられた言葉を反芻していた。
『三月末で、保育士の仕事を区切りにしようと思っています』
『誰かの人生のおまけじゃなくて、この新しい家族の真ん中で、一緒に生きていきたいって、心から思うようになったんです』
思い出すだけで、心臓が強く、熱く脈打つのが分かった。
美里がどれほど子どもたちを愛し、誇りを持ってあの仕事に就いていたか。
それを、彼女は手放すという。いや、手放すのではない。自分という男と、翔太という息子、そしてこの小さな店に、飛び込もうとしてくれているのだ。
「…男として、これにどう応えなきゃいけないか、分かってるだろ」
誰もいない店内で、恵介は小さく呟いた。
美里がそれほどの覚悟を見せてくれたのだ。料理人として、そして何より一人の男として、自分もまた、確かな一歩を踏み出さなければならない。
そう心に決めてからの午後は、いつも以上に時間の流れが早く感じられた。
午後三時半、仕込みの手を一度止めて、翔太を保育園へと迎えに行く。冬の冷たい風を受けながら、恵介の頭の中にはずっと、美里への言葉が渦巻いていた。
元気に飛び込んできた翔太の手を握り、商店街で買い出しを済ませて店に戻る。今夜のメニューは、今朝、翔太と美里からリクエストがあったハンバーグだ。
熱したフライパンに成形したタネを並べると、ジュー、と肉の焼ける小気味よい音が厨房に響き渡る。玉ねぎの甘い匂いと肉汁の香ばしさが広がっていく頃、ガラガラと玄関の引き戸が開く音が聞こえた。
時計の針は午後七時前。保育園での勤務を終えた美里が帰ってきた。
「ただいま戻りました」
「お帰りなさい、美里さん。今ちょうどハンバーグが焼き上がるところだよ」
「おねえちゃん、おかえりー!」
遊んでいたおもちゃを置いて駆けてきた翔太が、美里の膝にしがみつく。美里は優しくその頭を撫でながら、仕事の疲れを微塵も感じさせない柔らかい笑顔を向けた。
「ただいま、翔太くん。いい子にしてた?」
「もっちろん!」
帰宅後の片付けを終えた美里と翔太が、じゃれ合いながら、キッチンで最後の仕上げをする恵介を見守る。
その夜の食卓は、いつも通り賑やかで、どこまでも温かかった。
ふっくらと焼き上げ、冬の根菜をじっくり煮込んだ特製デミグラスソースをたっぷりとかけたハンバーグ。添え物には、甘みの増した冬人参のグラッセ。そして、美里の好物であるカブの温かいポタージュスープ。
「お肉ジューシーでおいしーね!」
はしゃぐ翔太の口元を美里が優しく拭い、それを見た恵介が目を細める。今朝の重い告白が嘘だったかのように、そこにはごく当たり前の、愛おしい家族の日常が流れていた。
やがて夜の九時を回り、お風呂から上がった翔太は、一日中動き回った疲れからか、美里に絵本を読んでもらっている途中で深い眠りに落ちていった。
美里が寝室の布団を優しく整え、そっとドアを閉めてリビングに戻ってくる。
リビングの照明を少し落とし、恵介は二人分のほうじ茶を淹れて木のテーブルに置いた。香ばしい湯気がゆっくりと立ち上り、夜の静寂の中に溶けていく。
「翔太くん、本当にぐっすりですね」
美里は湯呑みを両手で包み込みながら微笑んだ。今朝の覚悟を秘めた表情とは異なり、静かな眼差しが恵介へと向けられる。
「美里さん。…今朝、話してくれたことだけど」
恵介は湯呑みを置き、美里の瞳を真っ直ぐに見つめた。リビングのオレンジ色の灯りが、彼女の横顔を柔らかく縁取っている。
「美里さんが仕事を区切りにして、四月からこの店に本格的に入ってくれる。その覚悟を受け止めて、僕も今日、ずっと考えていたんだ。関係を、このままなあなあにしておくわけにはいかない」
恵介の言葉に、美里の肩が僅かにこわばる。湯呑みを握る彼女の指先に、きゅっと力がこもるのが見えた。
「年が明けたら、正式に籍を入れよう。僕と、結婚してください」
静かな部屋に、恵介の言葉が真っ直ぐに響き渡った。
美里は息を呑み、丸い瞳をさらに大きくして恵介を見つめた。言葉を探すように、その形の良い唇が微かに戦ぐ。
「恵介、さん…」
「もちろん、すぐにすべての環境を大きく変えるのは大変だから、具体的な生活の形は少しずつ進めていけばいい。でも、美里さんが人生の大きな決断をしてくれたんだ。僕もちゃんと、周囲の人たちに美里さんのことを、僕の妻ですって胸を張って公言したい。実の親たちや、すみれのご両親、商店街の皆にも、僕たちの新しい関係をしっかりと認めてもらいたいんだ」
一気に言葉を紡いだ恵介は、そこで一度言葉を切り、視線を自分の手へと落とした。
「ただ…僕は一度、妻を亡くしている」
ぽつり、と落とした声は、先ほどよりも少しだけ低く、沈んでいた。
「美里さんのご友人の楓さんのように、キラキラした新婚生活を用意してあげることはできない。盛大な結婚式を挙げることも、新婚旅行に華やかな場所へ連れて行ってあげることも、今の僕には難しい。一度、妻という存在を失って、子どもがいる男の家庭に、美里さんを縛り付けてしまう。そのことが、僕の中でどうしても後ろめたくて、本当にこれでいいのかって、すごく悩んだ」
恵介の手に、微かな震えが混じる。
すみれへの想いは、今も胸の特別な場所に綺麗にしまってある。それは美里も分かってくれているはずだ。けれど、新しく妻となる美里に、最初から多くのものを諦めさせてしまうという事実が、誠実であろうとする恵介の心をどうしても咎めるのだった。
沈黙が部屋の空気を重くしようとした、その時だった。
ぬくもりが恵介の手を包み込んだ。
驚いて顔を上げると、美里がテーブル越しに身を乗り出し、両手で恵介の大きな手をぎゅっと包み込んでいた。彼女の手は小さかったが、そこから伝わってくる熱は強かった。
美里の目には、薄っすらと涙が浮かんでいた。けれど、その表情には迷いも暗さも一切ない。強く、はっきりとした微笑みがそこにあった。
「恵介さん。どうしてそんな風に、自分を責めるようなことを言うんですか」
美里の声は、震えていたけれど、一本の芯が通っていた。
「派手な結婚式や、キラキラした新婚旅行…そんなもの、私は最初から欲しくないです。そんなものがなくても、私の人生は、あの日みかんの暖簾をくぐった時から、もう十分に輝き始めているんですから」
美里は恵介の手にさらに力を込め、その温もりを分かち合うように何度も頷いた。
「男性のことが信じられなくて、誰とも深く関わらずに生きていこうとしていた私に、誰かのために丁寧に作られた料理の温かさを教えてくれたのは、恵介さんです。寂しさを堪えて一生懸命に笑おうとしていた私を、おねえちゃんって呼んで、小さな手で抱きしめてくれたのは、翔太くんです。私が必要とされて、私から心から大切にしたいと思える場所が、この家にあるんです」
美里の瞳から、一筋の涙が頬を伝って流れ落ちた。部屋の柔らかな明かりが、その涙の軌跡をきらりと光らせる。彼女はそれを拭おうともせず、真っ直ぐに恵介の目を見つめ続けた。
「私は、恵介さんと翔太くんと、生きていきたい。三人で一緒に、美味しいねって笑いながら、温かいごはんを食べる日常があれば、それだけで私は幸せなんです。だから…後ろめたさなんて、絶対に感じないでください。私を選んでくれて、私を家族にしたいと言ってくれて、ありがとうございます」
彼女の言葉が、恵介の胸の奥底に滞っていたすべての迷いを、一瞬で溶かし去っていった。
美里という女性は、自分が思っているよりもずっと強くて、ずっと深い愛に満ちている。かつてみかんの初めてのお客としてロールキャベツを美味しそうに食べていたあの時から、彼女はいつも、恵介の予想を超える優しさで、この場所を救ってくれていたのだ。
恵介は、包み込まれていた美里の手を、今度は自分の大きな手で、そっと握り返した。
「…ありがとう、美里さん」
恵介の声は、深く、確かな熱を帯びていた。
「不器用な男で、本当に申し訳ない。でも、誓うよ。僕の料理人としての人生のすべてを賭けて、そして一人の男として、美里さんと翔太を一生、大切にする。何があっても、二人を幸せにするから」
その言葉に、美里は子供のように何度も、何度も大きく首を縦に振った。涙に濡れた顔のまま、本当に嬉しそうに、ひまわりのような笑顔を咲かせる。
二人の手が、冬の静かな夜の空気の中で固く結ばれていた。
静まり返った部屋には、もう寂しい空気は微塵も残っていなかった。冷めかけたほうじ茶の香りが、優しく二人を包み込んでいる。
「土曜日は、三人で少し遠くのスーパーまで出かけましょうか。翔太くんのお洋服も、新調してあげたいですし」
「うん、いいね。お昼は何か美味しいものでも外で食べよう」
美里は嬉しそうに頷き、湯呑みを片付けに台所へと立った。恵介もまた、窓の外の静かな夜を見つめながら、深く息を吸い込む。
外の空気は相変わらず肌を刺すように冷たかったが、胸の奥にある灯火は、驚くほど温かかった。




