覚悟
十二月の末ともなれば、夜明けの訪れは驚くほどに遅い。
午前五時半。まだ深い藍色に閉ざされた空からは、容赦のない冬の寒気が街へと降りてきていた。商店街のアーケードの隙間を、乾いた北風がヒューヒューと音を立てて吹き抜けていく。
早川恵介は、冷え切った厨房の空気の中で目を覚ました。まだ眠る二人の邪魔をしないよう、足音を忍ばせて二階の寝室から抜け出し、薄暗い階段を降りて厨房へと向かう。
作務衣の袖をまくり上げ、最初にするのは大きな寸胴鍋に火をかけることだ。カチチチ、ボウ、と小気味よい音を立ててガスコンロの青い炎が爆ぜると、それだけで頑なだった室内の空気がわずかに緩むような気がした。
大きな寸胴鍋の中には、昨晩から仕込んでおいた昆布と鰹節がたっぷりと入っている。ゆっくりと温度が上がるにつれて、厨房にはふわりと、優しく、芳醇な出汁の香りが立ち込め始めた。
恵介は小さく息を吐き、仕込みの合間を縫って自分たちの朝食の準備に取りかかる。
ランチ営業用の大きな寸胴から、黄金色に透き通った一番出汁を柄杓でいくらかすくい上げ、家庭用の小ぶりな片手鍋へと丁寧に移し替えた。営業用の出汁をそのまま贅沢に使えるのは、料理人の家庭ならではの特権かもしれない。
静まり返った店内に、包丁がまな板を叩く音が小さく響く。二階で寝ている美里と翔太を起こさないよう、いつもよりさらに慎重に手元を動かした。
冬の寒さでぎゅっと身の引き締まった大根の皮を剥き、丁寧な手つきで千切りにしていく。トントントントン、と規則正しく刻まれるその音を聞きながら、恵介はふと、頭上の天井を見上げた。
店舗の二階。そこには今、二つの愛おしい気配がある。
まだ夢の中にいる息子、翔太の、少し鼻を鳴らすような小さな寝息。そして、それよりも一段と静かに、けれど確かに、出勤の準備を整えるために動き始めた美里の気配だ。
美里と翔太、そして恵介の三人による本格的な共同生活が始まって、早くも二ヶ月が経とうとしていた。
秋の終わりに互いの気持ちを確かめ合い、まずはここの二階で一緒に暮らしてみよう、と決めてからの時間は、またたく間に駆け抜けていった。
妻のすみれを癌で亡くしてから、この冬で丸三年。
あの日、恵介の時間は確かに一度、完全に止まった。真っ暗な暗闇の中で、ただ、翔太を一人で育て上げなければならない、すみれとの約束だったこの店を守らなければならないという、義務感だけで生きてきた三年間だった。
だが、美里がこの家に居てくれるようになってから、早川家の空気は大きく変わった。
朝、目を覚ませば台所から優しい気配がする。夜、皆で食事をすれば「美味しい」という優しい声が、疲れた身体を迎えてくれる。
すみれを亡くして以来、寂しさを堪えるようにどこか落ち込みがちだった翔太の心の傷を少しずつ、けれど確実に埋めてくれた彼女の存在は、恵介の凍りついていた心をも、自然に、温かく溶かしていった。
止まっていた時間が、静かに音を立てて動き出しているのを、恵介は日々の暮らしの至る所で実感していた。
「…よし」
恵介は小さく呟くと、千切りにした大根をボウルに移し、塩を軽く振って揉み込んだ。
今日の朝食のメニューはすでに決めている。この冷え込みの厳しい冬の朝にふさわしい、身体の芯から温まるお粥だ。
先ほど分けておいた出汁の鍋が十分に沸いたところで、研いでおいた米を投入する。出汁の旨味をしっかりと米粒に吸わせるため、弱火でじっくりと時間をかけて炊き上げていく。
その傍らで、別の小鍋を火にかけ、鶏のひき肉を炒めた。パラパラになるまで火を通したら、酒、みりん、薄口醤油、そして、冬が旬の生姜をたっぷりとすりおろして加える。生姜の爽やかな香りが、鶏肉のジューシーな匂いと混ざり合い、厨房の空気をいっそう美味しく彩っていった。
お粥の米粒がふっくらと膨らみ、出汁と一体化してとろみがついた頃、恵介は水溶き片栗粉でそぼろの鍋にとろみをつけ、熱々のお粥の上にたっぷりとかける、鶏そぼろと根菜の熱々あんかけ粥を完成させた。
根菜には、小さくさいの目に切った蓮根と人参を入れてあり、お粥のとろみの中にシャキシャキとした心地よい食感を残す工夫がしてある。
箸休めには、先ほどの大根を使った。塩揉みして水分をきゅっと絞った大根に、酢と少しの砂糖、細かく刻んだ柚子の皮と果汁を合わせる。自家製柚子大根の浅漬けだ。
冬の寒さに当たった大根は、それ自体が驚くほど瑞々しく、甘みを持っている。そこに柚子の酸味と香りが加わることで、濃厚な鶏あんかけお粥の最高の相棒となる。
すべてをお盆に乗せ、恵介は営業用の火の元を確認してから、静かに階段を上って二階の居住スペースへと向かった。
リビング兼ダイニングの引き戸をそっと開けると、ちょうど美里が、パジャマ姿の翔太の髪を優しく梳いているところだった。
「恵介さん、おはようございます。すごく良い匂いが上まで届いていましたよ」
美里の少しはにかんだような笑顔は、外の寒さを一瞬で忘れさせるほどに温かい。
「美里さん、おはようございます。ちょうど今、一番良い状態でお粥が炊き上がったよ。二階のテーブル、準備するね」
一緒に暮らすようになってから、今まで以上に距離が縮まり、恵介の敬語は少しずつ抜けていき、よりフランクな言葉選びをするようになっていった。
「あ、私が運びます!」
美里が手際よくお盆を受け取り、テーブルへと器を並べていく。翔太は目を輝かせて恵介の元へとトコトコと駆け寄ってきた。
「とと、おはよー!きょうのごはん、なーに?」
「翔太、おはよう。今日はね、お腹がポカポカになるお粥だよ。さあ、手を洗って座ろうね」
三つの器が食卓に並ぶ。
器から立ち上る真っ白な湯気が、朝の柔らかな照明を受けてきらきらと輝いていた。熱々のあんかけお粥からは、鰹と昆布、そして生姜の香りが湯気とともに部屋いっぱいに広がる。
「「「いただきます」」」
三人の声が重なり、それぞれスプーンを手にした。
翔太は待ちきれないといった様子で、お粥を大きくすくって口に運ぼうとする。
「翔太くん、そのまま食べたら火傷しちゃうよ。フーフーしてね」
美里がすかさず翔太の手元に顔を寄せ、優しく息を吹きかける。翔太も真似をして「ふー、ふー」と小さな唇をすぼめ、それからパクリとお粥を口に含んだ。
直後、翔太の小さな顔全体が、パッと輝くような笑顔に満たされる。
「おいしーい!トロトロで、アツアツ!」
「良かった。蓮根がシャキシャキして美味しいだろう?」
恵介の言葉に、翔太は何度も大きく首を縦に振って、美味しそうに次から次へと口を動かしている。
「とと、これまいにちたべたい!」
はしゃぐ息子の姿に、恵介は目元を優しく緩めた。
美里もまた、器を両手で包み込むようにして、お粥を一口、静かに口へと運んだ。目を細め、じっくりとその味を確かめるように味わっている。
「…本当に、しみ渡る美味しさですね。生姜が効いていて、一口食べただけで指先まで温かくなっていくのが分かります。それに、この蓮根の食感が、お粥の優しさの中でアクセントになっていて…いくらでも食べられちゃいそうです」
「良かった。こっちの柚子大根も食べてみて。口の中がさっぱりするから」
美里はガラスの小鉢に箸を伸ばし、柚子大根を口に入れた。シャキ、と小気味よい音が部屋に響く。
「ん、美味しい…!大根がすごく甘いです。柚子の香りが鼻から抜けて、すごく贅沢な気持ちになりますね。恵介さんの作るお料理って、どうしてこんなに優しい味がするんだろう」
美里のその言葉に、恵介の胸の奥がじんわりと熱くなる。
かつて料亭で腕を磨いていた頃は、華やかさや、技術を見せることを大事なことだと考えていた。けれど、シングルファザーとして翔太のごはんを作り続け、みかんを開いてからは、料理に対する考え方が変わった。
ただ、目の前にいる大切な人に、お腹いっぱいになって幸せになってほしい。原点に立ち返ったその想いこそが、今の恵介の料理の根底にある。それを美里は、いつも真っ直ぐに受け止めてくれるのだ。
お粥の湯気の向こう側で、翔太が口の周りにあんかけを少しつけながら、一生懸命にスプーンを動かしている。
そこに流れているのは、なんの飾り気もない、けれど確かな生活だった。三人が同じ場所に集い、同じ温かいごはんを分け合い、笑顔を交わす。かつて絶望の中にいた恵介にとって、この光景は奇跡そのものだった。
「ごちそうさまでした!保育園の準備してくる!」
やがて、翔太がお粥を綺麗に完食し、自分の部屋へとタタタと駆けていった。
食卓に残されたのは、恵介と美里の二人だけになった。
お茶をすすりながら、美里が器を片付ける手を止め、真剣な眼差しを恵介に向けた。いつもの物腰柔らかい彼女の雰囲気に、どこか凛とした、強い覚悟のようなものが混じっているのを、恵介は察した。
「…恵介さん」
美里の声は静かだったが、部屋の空気をすっと引き締めるような響きを持っていた。
「はい、何かな、美里さん」
「あの、少し、真面目なお話をしてもいいですか」
恵介は湯呑みをテーブルに置き、背筋を正した。美里は自分の膝の上できゅっと手を握りしめ、一度深く息を吸い込んでから、恵介の目を真っ直ぐに見つめて言った。
「私、今年度…つまり、三月末で、保育士の仕事に区切りをつけようと思っています」
「え…?」
恵介は思わず、短く声を漏らした。驚きのあまり、次の言葉が出てこない。
美里にとって、保育士という仕事がどれほど大切なものであるか、恵介は誰よりも知っているつもりだった。男性不信に陥っていた彼女を救ったのは、子どもたちの無邪気な笑顔であり、子どもたちと接するあの仕事だったはずだ。
「どうして…。美里さん、あんなに子どもたちのことを大切にしているのに。仕事、辛くなったのかい?」
心配のあまり、少し早口になってしまった恵介に対し、美里は慌てて首を振った。その表情には、微塵の暗さもなかった。むしろ、穏やかで澄み切った光が宿っている。
「いいえ、違うんです。仕事は今も大好きですし、子どもたちも本当に可愛いです。でも…この二ヶ月間、恵介さんと翔太くんと一緒にここで暮らしてみて、私、自分の心の一番深いところにある気持ちに、ようやく気づけたんです」
美里は重ねた手に少しだけ力を込め、言葉を紡いでいく。
「これまでの私は、傷つくのが怖くて、逃げてばかりいました。でも、恵介さんの作る温かい料理を食べて、翔太くんの成長を特等席で見守らせてもらって…。私、誰かの人生のおまけじゃなくて、この新しい家族の真ん中で、一緒に生きていきたいって、心から思うようになったんです」
美里の瞳の奥に、微かに涙が潤む。けれど、その視線は決して揺るがなかった。
「四月からは、本格的にみかんの中に、私を入れさせてください。恵介さんの料理の腕前は素晴らしいけれど、これ以上の営業を広げるのは体力的に限界がありますよね。でも、私がお手伝いできれば、もっとたくさんのお客さんを幸せにできるし、恵介さんの負担も減らせる。そして何より、翔太くんが寂しい思いをするときに、すぐに抱きしめてあげたいんです」
彼女の口から語られた言葉の重みに、恵介は言葉を失った。
美里は、自分のために、自分がこれまで必死に築き上げてきた大切なキャリアを、一つの節目とする覚悟を決めてくれたのだ。それは生半可な気持ちでできることではない。
自分という人間と、翔太という息子、そして食事処みかんという小さな店に、自らの人生のすべてを賭けようとしてくれている。その圧倒的な誠実さと深い愛に、恵介の胸は激しく震えた。
「美里さん…」
恵介の声が、微かに掠れた。
感謝の言葉だけでは到底足りないほどの感情が、胸の奥から溢れ出してくる。彼女の覚悟の重さに、自分は男として、料理人として、どう応えるべきなのか。
二人の間に、静かだが、張り詰めた、それでいて心地よい沈黙が流れる。
窓の外からは、いつの間にか冬の浅い朝の光が差し込み始めており、テーブルの上の空になったお粥の器を、優しく照らし出していた。




