昇華
ガラガラと扉を閉め、外へ出ると、春の風が先ほどよりも柔らかく感じられた。
オレンジ色の暖簾が、春の陽光を浴びて誇らしげに揺れている。
(平日のランチ営業だけ…。でも、私は保育士だもんね)
シフト制で働く美里にとって、平日休みは珍しいことではない。むしろ、世間が忙しく働いている時間に、自分だけの隠れ家を見つけたような、ささやかな優越感さえあった。
美里は、自宅とは反対側の駅方向へと歩き出した。
今朝までの彼女なら、そのまま部屋に閉じこもり、一人で昨夜の続きのような沈鬱な時間を過ごしていただろう。けれど今の彼女は、もっと広い世界へ、もっと明るい場所へ行きたいと願っていた。
「…そうだ。楓へのプレゼント、探そう」
電車に乗り、少し先の駅まで足を伸ばせば、お洒落なセレクトショップや百貨店がある。
一番の親友である楓の結婚祝い。健司くんと二人、新しい生活を始める彼女に、どんなものを贈れば喜んでもらえるだろうか。
つい数時間前まで、あれほど美里の心を苦しめていた結婚という言葉が、今は不思議と、穏やかな色彩を伴って響いていた。
あんなに美味しいものを食べさせてくれる店があるのなら、この世界もそう捨てたものではない。そして、そんな世界で幸せを掴もうとする親友を、今の自分なら、きっと真っ直ぐな言葉で祝福できる。
(次は、いつものように私の家に呼んで、プレゼントを渡そう。…きっと楓、驚くだろうな)
楓がプレゼントを開けて、驚き、そして喜ぶ顔が目に浮かぶ。
その時には、心からのおめでとうを伝えよう。
そして、いつものように簡単なつまみで済ませるのではなく、今度は精一杯の料理を振る舞おうと思う。
何が良いだろうか。
やはり、今日のあの味を思い出しながら作る、とっておきのロールキャベツがいい。
スナップエンドウの白和えと、隠し味にみかんを効かせた、爽やかなキャロットラペを添えて。
あの恵介という青年が作った料理ほど、完璧には作れないかもしれない。
けれど、今日彼から受け取った温かな真心を、今度は自分が親友へと繋いでいきたい。
美里の足取りは、いつしか春の調べに乗るように軽やかになっていた。
商店街を抜ける彼女の背中を、遠くで揺れるオレンジ色の暖簾が、優しく見守っているようだった。
翌日の保育園は、相変わらず騒がしい。四月の後半、子供たちは少しずつ園の生活に慣れ始めてきたが、その分、自我の衝突も増えてくる。
「小泉先生、ちょっといいですか?」
降園間際、声をかけてきたのは、例の湊くんの父親だった。
以前の美里なら、この声を聞いた瞬間に胃の奥がキュッと縮み、防衛本能からくる鉄壁の笑顔を貼り付けていたはずだ。
「はい、お父様。湊くん、今日はお友達と積み木で大きなお城を作ったんですよ」
「ああ、そうですか。…いや、それよりね、昨日の夜、妻とまた教育方針で揉めましてね。先生なら僕の、このやりきれない気持ち、分かってくれますよね?」
相変わらずの、身勝手な依存の視線。
彼は無自覚に、保育士という立場を利用して、自分の家庭の不満を全肯定してもらおうとしている。以前の美里なら、その甘えに触れるたび、自分の中の何かが削り取られるような疲弊感に襲われていた。
けれど、今の美里の心には、一枚の小さな栞が挟まっていた。
(…ああ、また始まった)
嫌なものは、嫌だ。彼の視線は不快だし、家庭の不満をここに持ち込まないでほしいと思う。けれど、その棘は、以前ほど深くは刺さらなかった。
(まあ、いいや。来週の休みには、またみかんに食べに行こう。あの静かなカウンターで、あの美味しいご飯を。そう思えば、この平日休みのシフトだって悪くない)
仕事は大変だけれど、子供たちは文句なしに可愛い。
やりたい職業に就けて、誰にも邪魔されない一人暮らしの部屋には、こだわりのインテリアが並んでいる。そして今、美里の住む街に、新しく通いたい場所が一つ増えた。
ただそれだけのことが、美里の心に不思議な余裕をもたらしていた。
「お父様、それは大変でしたね。ですが、湊くんはお父様が大好きですよ。今日のお城も、一番にお父様に見せるんだって張り切っていましたから」
美里は、適度な距離感を保ったまま、穏やかに、けれど毅然と言葉を返した。
今なら、日常のノイズを、以前よりは少しだけ受け流せる気がした。
楓を家に招く前日の夜、美里はキッチンに立っていた。
手元には、鮮やかなオレンジ色のにんじんと、春キャベツ。
あの日の味を再現したい。そんな無謀な挑戦心から、仕事帰りに商店街で食材を買い込んできたのだ。
「…まずは、にんじん、だよね」
美里は愛用の包丁を研ぎ直し、にんじんを千切りにし始めた。
自分なりに丁寧に、細く、揃えて切っているつもりだ。けれど、切れば切るほど、あの日の恵介の仕事がどれほど凄まじいものだったかを思い知らされることになる。
「太さがバラバラ…。あのラペ、もっと透き通るくらい均一だったのに」
切るという単純な作業一つとっても、そこには圧倒的な技術の差があった。
さらに、味付けの要であるみかんだ。
自宅にあるみかんを絞り、酢やオリーブオイルと合わせてみる。けれど、あの丸みのある酸味と、鼻に抜ける爽やかな香りのバランスがどうしても再現できない。
酸っぱすぎたり、水っぽくなったり。
ロールキャベツに至っては、さらに難航した。
コンソメを煮出す過程で出るアクを掬いながら、美里は溜息をつく。
(あのスープは、もっと金色の光が差していた。雑味なんて一滴もなくて…)
自分の作ったスープは、美味しい。けれど、それは家庭の味の範疇を出ない。
あの日食べた、妥協のないあの一皿とは、住んでいる世界が違った。
「やっぱり、プロって凄いわ…」
キッチンに漂う香りを嗅ぎながら、美里は改めて、あの若き店主への深い敬意を抱いた。
自分が何日もかけて辿り着けない場所に、彼は毎日、当たり前のように立っているのだ。
けれど、不思議と悔しさはなかった。
むしろ、その届かなさこそが、あの店を特別な場所にしているのだと思えたから。
「よし。完璧には程遠いけど、やれるだけのことはやったかな」
形は少し不格好で、味もあの店の三割程度かもしれない。
それでも、精一杯の真心を込めて作った。
美里は、完成した料理を丁寧にタッパーに詰め、翌日のために冷蔵庫へと仕舞った。
そして翌日、約束の週末の夜。美里の部屋には、いつものように缶ビールのプルタブを開ける、小気味良い音が響いた。
「ぷはーっ!やっぱり美里の家は落ち着くね。あのイタリアンも良かったけど、結局ここが一番だわ」
ソファに深く沈み込み、リラックスした様子で笑う楓。
「はい、これ。遅くなっちゃったけど、結婚祝い」
美里が差し出したのは、あの日、街を歩いて見つけた、上質なリネン素材のペアエプロンだった。
健司くんと一緒に、美味しいもの作ってね。という願いを込めた。
「えーっ、嬉しい!私、エプロン新調しようと思ってたんだ。さすが美里、分かってるぅ」
楓は子供のように喜び、プレゼントを胸に抱いた。
その笑顔を見て、美里は心の中にあった最後の重荷が、ふっと軽くなるのを感じた。
先日のイタリアンでの、あの取り残されたような疎外感。
自らが諦めたものを手にした親友への、身勝手な嫉妬。
それらが今、目の前の楓の喜びによって、温かな祝福へと昇華されていく。
「あと、今日はこれ。…みかんっていうお店で食べた料理がすごく美味しかったから、再現しようとしてみたんだけど、全然ダメだったやつ」
美里は、昨夜作ったロールキャベツとキャロットラペをテーブルに並べた。
「え、何これ、すっごく美味しそう!美里がそこまで言うお店の料理なら、相当なもんじゃない?」
楓は一口、ロールキャベツを口に運んだ。
「…美味しい!十分すぎるくらい美味しいよ、美里」
「ありがとう。でもね、本物はもっと、こう、五臓六腑にしみわたる感じなの。来週、楓も一緒に行けたらいいんだけど、あそこ平日ランチしかやってないんだよね」
「あはは、さすがプロの味は厳しいね。でもさ、美里がそんなに気に入ったお店ができたなんて、私、すごく嬉しいよ」
楓は缶ビールを掲げ、美里のグラスにカチンと当てた。
「美里なら、いつかその店の大将とも仲良くなっちゃいそうじゃない?料理の話とかで盛り上がってさ」
「まさか。…でも、大将さん、私のこと『初めての、特別なお客様』って言ってくれたの。それだけで十分。私はただ、あのご飯を食べに行ける場所があるだけで幸せなの」
美里は照れ隠しにビールを流し込んだ。
確かに、恵介という男性には、今までの男たちにはなかった不思議な安心感があった。
けれど、今はまだ、その感情に名前を付けるつもりはなかった。
今はただ、美味しいものを食べ、大切な友人の幸せを祝い、自分だけの慎ましい生活を愛おしむ。それだけで、自分の人生は十分に、満たされていると思えたから。
「楓、本当におめでとう。健司くんと、幸せになってね」
「うん。…ありがとう、美里」
窓の外には、春の終わりの夜空が広がっている。
明日からはまた、騒がしい保育園の日々が始まるだろう。
相変わらず、父親たちの視線は嫌なものかもしれない。
相変わらず、独り身の寂しさがふとした夜に忍び込んでくるかもしれない。
けれど。
(また来週、あそこの暖簾をくぐろう)
そう思えば、春の嵐も、夏の陽射しも、きっと乗り越えていける。
美里は、少しだけ温かくなったキャロットラペを口に含んだ。
自分の作ったラペには、まだみかんの香りが足りなかったけれど。
二人の笑い声が満ちるこの部屋の空気は、あの日感じた食事処みかんの優しさに、ほんの少しだけ近づいたような気がした。




