特別
「あの、洋定食の…ロールキャベツをお願いします」
美里が声をかけると、厨房の男性—この店の店主は、動かしていた手を止めた。彼は作業のついでに返事をするのではなく、しっかりと身体をこちらに向け、美里の瞳を見て穏やかに微笑んだ。
「かしこまりました。少々お待ちくださいね」
普段の彼女なら、初めて入ったお店で店主に話しかけるようなことはしない。けれど、彼の落ち着いた所作と、他に客がいない静謐な空気感に背中を押され、美里は気になっていたことを口にしていた。
「あの、作業しながらで構わないんですけど…。和食、洋食、中華の定食が並ぶって、なんだか珍しいですよね。大将さんは、色々なところで修行をされたんですか?」
大将という呼び方が合っているのかは分からなかったが、彼は嫌な顔ひとつせず、手際よくコンソメスープの味を整えながら答えてくれた。
「そうですよね、まとまりがないと思われても仕方ありません。修行自体は料亭だったので、ずっと和食の世界にいました。でも、縁があって中華や洋食のプロと触れ合う機会が多くて。美味しいと思ったものを素直に提供したいと考えていたら、今の形になったんです」
受け答えをしながらも、彼の手は魔法のように動いている。
決して急いでいるようには見えない。ゆったりと、流れるような動作。それでいて無駄が一切ない。
美里は自炊が趣味だからこそ分かる。包丁がまな板を叩く音の一定さ、お玉でスープを掬う際の手首の返し。そのどれもが、長い年月をかけて研ぎ澄まされてきた本物のプロの技術であることを。
「私が言うのもおこがましいですけど…まだお若そうなのに、それだけ広い経験をされているのは凄いです」
美里の素直な感嘆に、彼は少し照れたように苦笑いを浮かべた。
「小さな頃から包丁だけは握ってきましたが、本格的に料理の世界に入ってからはまだ15年ほどですよ。…それに、実はこの店、今日がオープンなんです。あなたが、記念すべき最初のお客様なんですよ」
「えっ、今日がオープン…!?しかも、私が最初…?」
驚きで、美里は思わず声を上げた。
普段、一人で外食をすることなど滅多にない。ましてや、仕事に疲れ、二日酔いの頭でふらりと歩き出した散歩の途中で。
そんな自分が、新しい物語の始まりである最初の客になるなんて。
昨夜の新宿での疎外感や、親友の結婚に対する複雑な感情。そんな泥濘のような日常の中に、ふっと運命という名の光が差し込んだような気がした。
「そうなんですか。…このお店は、お一人で?」
「ええ。当面はランチ営業のみにするつもりですし、この広さなら満席になってもなんとか一人で回していけそうですから」
若き店主が夜の営業をせず、ランチに絞っているのはなぜだろう。
修行を積んだ料理人なら、もっと大きな店で、夜にお酒を出しながら腕を振るいたいとは思わないのだろうか。
聞きたいことは山ほどあったが、一見の客が踏み込みすぎるのは無作法だ。けれど美里は確信していた。もし、これから運ばれてくる料理が自分の直感通りなら、自分はすぐにこの店を再訪することになる。事情を聞くのは、その時でも遅くはない。
「そうなんですね。…頑張ってください」
短く相槌を打ち、美里は店内をぼーっと眺めることにした。
新築のような派手さはないけれど、床やテーブルは隅々まで磨き上げられ、確かな品の良さが漂っている。
何より、店主の誠実な人柄が空間そのものに染み出しているようで、実家に戻った時のような、不思議な安心感に包まれていた。
荒み、散らばっていた感情が、店内の静かな空気の中でゆっくりと整えられていく。
そんな心地よい沈黙を破るように、カウンター越しに今日最初の食事が差し出された。
「お待たせいたしました。春キャベツのロールキャベツ定食です」
目の前に現れたのは、美里の想像を遥かに超える、芸術品のような一皿だった。
金色のスープ。
余分な脂が一切浮いていない、宝石のように透き通ったコンソメ。その中央に、品行方正な佇まいで鎮座するロールキャベツ。
美里は震える手で箸を取った。
しっかりとした形を保っているように見えたキャベツに箸を当てると、驚くほど抵抗なく、ほろりと崩れた。
ぎっしりと詰まった中のお肉。肉感はしっかりあるのに、口に運ぶとふわふわと柔らかく、箸で持ち上げるのがやっとのほどに繊細だ。
熱々の湯気をふうふうと冷まし、一口。
「っ…!」
言葉を失った。
春キャベツの、生命力を感じるような力強い甘み。
肉の旨味がじゅわりと溢れ出し、それらすべてを、これでいいんだよと全肯定するような、深く、染み渡るコンソメの旨味。
強すぎる味はない。けれど、すべてが最適解と言わんばかりのバランスで調和している。
(こんな味が、この値段で…?しかも、この街で?)
都心のお洒落な店なら、倍、いや三倍の値段を取られてもおかしくない。
昨夜のあのイタリアンで感じた背伸びとは違う。
この料理は、今の美里の身体の細胞ひとつひとつに、優しく浸透していくような味がした。
脇を固めるメンバーも、隙がなかった。
十六穀米のご飯はふっくらと炊き上げられ、種類の違うお米たちが、一つの茶碗の中で楽しげに手を取り合っている。
そして、二つの小鉢。
一つは、スナップエンドウと新玉ねぎの白和え。
スナップエンドウの鮮やかな緑が目に眩しい。口に入れればシャキシャキと弾けるような食感。そこに新玉ねぎの柔らかな甘みが重なり、滑らかな和え衣がすべてを優しく包み込む。
もう一つは、キャロットラペだ。
よくあるラペのような、ツンとした直線的な酸味を想像して口に運ぶと、良い意味で裏切られた。
最初に来るのは、丸みを帯びた芳醇な甘み。
そして、鼻から抜けていくのは、柑橘の爽やかでどこか懐かしい香り。
(…すごい。副菜に、ここまで魂がこもってるなんて)
自炊をしているからこそ、その凄みが痛いほど分かる。
メインの華やかさに気合を入れることはできても、副菜のひとつひとつまで完璧に仕上げるのは、並大抵の労力ではない。
にんじんの太さは完璧に揃えられ、エンドウの筋は一本の残りもなく丁寧に取り除かれている。
普段の自分なら、疲れて帰ってくれば、トマトを切るだけで済ませてしまう。数日前にまとめて作った、味の落ちた作り置きを義務のように胃に流し込むこともある。
けれど今、目の前にあるのは、一分一秒の妥協もなく作られた、食べ手への敬意そのものだった。
その丁寧さが、今の美里にとっては、何よりも贅沢で、何よりも求めていた救いだった。
「美味しい。…本当に、美味しいです」
気づけば、独り言ではなく、店主に向けた言葉として漏れていた。
大将は、調理の手を休めることなく、けれど今までで一番優しい笑みを美里に向けた。
「ありがとうございます。…初めてのお客様であるあなたから、その言葉を聞けただけで、僕がこのお店を始めた意味があります。どうぞ、ゆっくり召し上がってくださいね」
美里は、どうしても聞きたかったことを尋ねる。
「あの、このキャロットラペ。なにか、特別な柑橘を使っているんですか?驚くほど爽やかで、美味しいです」
答え合わせをするように問いかけると、大将は、企みがバレてしまったと言わんばかりの、少年のような悪戯っぽい表情を浮かべた。
「ええ、よく分かりましたね。実は、隠し味に『みかん』を使っているんです。店名に沿って、少しアレンジを加えてみました」
その表情に、美里は一瞬だけ目を奪われた。
職人としての厳しさと、料理を楽しむ遊び心。そして、客を温かく包み込む包容力。
美味しい食事。心地よい空間。そして、店主の人柄。
美里にとって、この場所が特別な行きつけになる確信は、もう揺るぎないものになっていた。
昨日、楓から聞いた喜ばしい報告。
それは確かに美里の心をかき乱し、自分の不甲斐なさを浮き彫りにする出来事だった。
けれど、もしあの葛藤がなければ。
眠れない夜と、重い目覚めと、逃げ出すような散歩がなければ。
自分は今日、この場所で、この料理に出会うことはなかっただろう。
「…そっか。無駄じゃなかったんだ」
純粋に祝えない自分を責め続けていたけれど、その苦しみすらも、この温かなコンソメスープを美味しく飲むための隠し味だったのかもしれない。
そう思えた瞬間、喉の奥のつかえが、すうっと消えていくのを感じた。
ガラガラと音を立てて、再び店の扉が開いた。
「やあ、恵介くん!今日からオープンだって聞いたから来てみたよ。僕も食べたいんだけど、いいかな?」
入ってきたのは、初老の男性だった。
「会長さん!ありがとうございます!」
大将が嬉しそうに声を弾ませる。会長と呼ばれたその男性と親しげに話し始める。
美里と大将、早川恵介との間に流れていた最初の客という特別な時間は、お昼時の忙しなさによって、一旦の終わりを迎えた。
少しの寂しさはあったけれど、それ以上に、この店が、この街の人たちに愛されていく予感がして、美里は自分のことのように嬉しくなった。
最後の一口を惜しむように飲み込み、美里はふぅ、と深く長い溜息をついた。
そこには、数十分前まで彼女の胸を支配していた後ろ暗い湿り気も、泥のように重かった足取りも、もう欠片すら残っていない。
白い磁器の茶碗には、米粒一つ、スープの一滴も残っていなかった。丁寧に、けれど夢中で食べ進めるうちに、身体の奥底からじんわりと熱が広がり、強張っていた肩の力が自然と抜けていた。
「…ごちそうさまでした」
小さく、けれど確かな充足感を込めて呟き、美里はお会計のために席を立った。
入り口のレジへと向かうと、そこには古風な店の外観からは少し意外な光景があった。木製のカウンターの上には最新のタブレット端末が鎮座し、電子マネーやクレジットカードなど、主要なキャッシュレス決済のロゴがずらりと並んでいる。
こうした利便性をさりげなく取り入れているあたりに、店主である恵介の若さゆえの柔軟性と、客への細やかな配慮が透けて見える。美里がスマホをかざして決済を済ませると、軽やかな電子音が店内に響いた。
「ありがとうございました」
恵介が、再びこちらを真っ直ぐに見て言った。その瞳は、やはりどこまでも澄んでいて、淀みがない。
「初めてのお客様が、あんなに美味しそうに食べてくださる姿を見られて、本当に嬉しかったです。…ああ、僕の料理も、ちゃんと誰かを喜ばせることができるんだなって、自信をもらえました」
恵介は、はにかむような、けれど心からの安らぎを含んだ笑顔を見せた。
その言葉の端々に、彼自身もまた、この店を始めるにあたって不安や覚悟を抱えていたことが伺える。
「感謝したいのは、私の方です」
美里は、自分でも驚くほど素直な声で言葉を返していた。
「本当に美味しかったです。…実は、今日、ちょっとだけ落ち込んでいたんです。でも、このご飯を食べたら、なんだか元気になれました。また、必ず来ますね」
「お待ちしています」
恵介は嬉しそうに頷き、少しだけ声を落として続けた。
「今はまだ、平日のランチしか営業できていないので、もしお時間が合えば、ですけれど。…あなたは僕にとって、初めての、特別なお客様ですから」
その特別という言葉に、美里の胸が小さく跳ねた。
それは決して、保育園の父親たちが向けてくるような卑しい下心ではない。あるいは、かつての男たちが求めてきたような甘えでもない。一人の料理人が、自分の再出発を支えてくれた客へ贈る、最大級の敬意と親愛の証。
自分を女という記号ではなく、一人の人間として認めてもらえたような気がして、美里は安堵とともに、自然と頬が緩むのを感じた。
けれど、いつまでもレジで長話をして、忙しくなり始めた店の邪魔をするわけにはいかない。後ろ髪を引かれる思いを断ち切るように、美里はもう一度深く一礼して、店を後にした。




