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食事処みかん  作者: 蜜柑次郎
春キャベツのロールキャベツ

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2/46

暖簾

「…う…」


 次に目を覚ましたとき、視界を焼いたのはカーテンの隙間から差し込む陽光だった。喉が砂漠のように乾いている。


 ゆっくりと体を起こし、重い頭を抱えながら、美里は壁掛け時計に目をやった。


 自らアンティークショップを回り、こだわり抜いて選んだ木枠の時計。その短い針は、十を指していた。


「もう…こんな時間か」


 普段なら、休みの日でも七時には目を覚ます。


 お気に入りのポッドキャストを流しながら、丁寧にコーヒーを淹れたり、パンを焼いたりして、一日を始めるための儀式を行うのが美里の日常だ。


 けれど、今の彼女の体には、昨夜のアルコールと、それ以上に重い感情のしこりがずっしりと残っていた。


 立ち上がると、足の裏に昨日のヒールの痛みがわずかに蘇る。


 昨夜、浴びるように飲んだはずのアルコールは、結局、彼女の不安を何一つ洗い流してはくれなかった。


 美里はふらふらと洗面台へ向かい、鏡を覗き込んだ。


 メイクは崩れ、目は少し腫れている。そこには、幸せな親友を祝福しきれなかった、不器用で臆病な一人の女が立っていた。


「…お腹、空いたな」


 ボソリと独り言を漏らす。


 けれど、自分のために何かを作る気力は湧いてこない。


 美里はただ、ぼんやりと開いたカーテンの隙間から、どこまでも青く、無関心な春の空を眺めていた。


「よし、ちょっと散歩に出よう」


 すっかり慣れた一人暮らしの部屋で、独り言がふわりと空気に溶けた。すぼんだままの喉から出た声は、少しだけ掠れている。


 冷たい水で顔を洗うと、ようやく思考の輪郭がはっきりとしてくる。


 丁寧にスキンケアをし、薄く化粧を乗せる。鏡の中の自分は、保育士としての完璧な笑顔を纏う前の、どこか頼りない一人の女性だった。


 軋むような節々の痛みは、昨夜のアルコールだけでなく、心の奥底に沈殿した澱のせいかもしれない。


 美里が住むこの街は、駅を挟んで東西に大きく発展している。


 彼女の住まいは東側に位置する。賑やかな商店街を抜け、少し歩くと広がる閑静な住宅街。その一角にある中層マンションが、彼女の城だ。


 保育士として働き始めるとともに踏み出した、念願の一人暮らし。すでに六年が経過し、この街の空気、スーパーの配置、近所の犬の散歩コースまで、すべてがすっかり生活の一部となっていた。


 部屋は、彼女のこだわりが詰まった空間だ。


 休日の午後にあちこちの雑貨屋を回って吟味したインテリア。趣味の料理を存分に楽しめるよう、一人暮らし用にしては広めに確保したキッチンスペース。


 ここで自炊をし、お気に入りのポッドキャストを聴きながら過ごす時間に、美里は心から満足していたはずだった。


 だが。


「おめでとう、楓…」


 口の中で呟くと、胸の奥がチリリと痛んだ。


 長年抱え続けている男性不信という深い悩み。それが美里にとって、結婚や出産という慶事を素直に、100パーセントの純度で祝うことを難しくさせていた。


 めでたいことだとは、分かっている。親友の幸せは、何物にも代えがたいはずだ。


 それなのに、どこかで、自らが遠ざけたはずのものを掴み取った彼女を羨んでしまう。そんな自分の狭量さが、美里を激しい自己嫌悪へと追い込んでいた。


 一番の親友の結婚。この上なく喜ばしいはずの出来事が、今の美里には、自分の人生の欠落を突きつける刃のように感じられてしまう。


 自分の中ではもう、そちら側の幸せとは縁が無いことだと割り切っていたはずなのに。ふとした瞬間に、やはりそうではないことに気づかされる。気づきたくもない現実を、突きつけられる。


 人間として、他人の幸せを羨むのは仕方のないことかもしれない。けれど、一度考え始めると、思考はどんどん悪い方へと傾いていく。


(私、これからずっと、一人でこうやって生きていくのかな)


 そんな負のスパイラルを断ち切るように、美里は強めに玄関の鍵を閉めた。


「…今日は、美味しいものを食べよう」


 自炊には自信がある。けれど、今日のように心がひどく摩耗している時は、自分の作った料理では足りない。誰かが心を込めて作ってくれた、温かな一皿が必要なのだ。


 こんなとき、すぐに実家へ帰ることができればいいのだが。あいにく美里の実家は、ここからでは羽田へ向かい、飛行機に乗らなければたどり着けない距離にある。


 翌日の仕事を考えれば、それはあまりに非現実的な逃避行だ。


 駅に向かう道すがら、美里は今日の食事について考えを巡らせた。


 電車に乗って都心へ出るか。いや、今の精神状態で人混みに揉まれるのは逆効果だ。華やかな街の灯りは、今の自分をさらに惨めにするだけだろう。


「じゃあ、商店街で何か買って帰る?」


 駅前の商店街には、馴染みの店がいくつもある。

威勢の良い声が響くお肉屋さんの、揚げたてのメンチカツ。


 香ばしい匂いが漂うお魚屋さんの、身の厚い干物。


 そして、ふっくらと結ばれたおにぎり屋さんの、艶やかなおにぎり。


 普段、自炊を頑張る自分へのご褒美として利用してきたそれらは、どれも間違いない美味しさだ。


 けれど、今日はどこかお店に入って座りたい。気分が落ち込んでいる時は、食べ終わった後の洗い物や片付けさえも億劫に感じてしまう。


「普段、頑張ってるんだから。こんな日くらい、甘えてもいいよね」


 自分を律することをやめる。そう決めても、文句を言ってくる人なんてこの街にはいないのだ。もとより、誰に憚る必要もない自由が、今は少しだけ寂しく、そして有り難かった。


 散らかった感情を整理しようと、商店街の方へ足を向ける。


 自宅からいくらか進んだ頃、商店街の入り口に差し掛かる手前で、美里はふと足を止めた。


「…あれ?」


 そこには、一軒の暖簾がかかっていた。


 毎日通勤で通り、見慣れているはずの道だ。けれど、ここに暖簾が出ている光景は、記憶のどこを探しても見当たらない。


(ランチ営業だけなのかな。それとも、最近できたお店?)


 夜は閉まるのが早いのか、あるいは通勤時間は開店前だったのか。


 建物自体は決して新しくない。むしろ、長年この街に根を下ろしてきたような、落ち着いた風格を漂わせている。


 一軒家の一階をそのまま食事処に改装したような、こぢんまりとした佇まい。


 なんだか無性に心惹かれ、導かれるようにその店の前に立った。


 その瞬間。


「…いい匂い!」


 扉の隙間から漏れ出してきた香りが、半日以上何も食べていなかった美里の五感を、ダイレクトに突き刺した。


 それは、単なる食べ物の匂いではなかった。


 いくつもの素材が複雑に絡み合い、長い時間をかけてじっくりと煮込まれたことでしか出せない、深い、深い旨味の予感。


 嗅ぐだけで強張った胃がキュッと鳴り、凍えていた心がじわりと溶け出すような、我慢しがたい誘惑。


(ここは…間違いなく、当たりだ。私のお腹がそう言ってる)


 時刻は午前十一時。空腹はすでに限界を迎えていた。他の店を吟味する余裕なんて、もう一秒も残っていない。


 美里は吸い込まれるように、その引き戸に手をかけた。


 ガラガラと音を立てて扉を開けると、店内の空気は外の喧騒を忘れさせるほどに穏やかだった。


 店内には、作務衣を着た男性が一人。


 厨房で、流れるような所作で仕込み作業に勤しんでいた。


「いらっしゃいませ。お好きなお席へどうぞ」


 落ち着いた、けれど温かみのある発声。


 顔を上げた男性は、驚くほど澄んだ瞳をしていた。彼が向けたにこやかな笑みは、保育園で父親たちが見せる下心を含んだ笑みとは決定的に違っていた。


 それは、客を温かく迎え入れる、プロの料理人としての誠実な表情だった。


 店内は、カウンター席と小さな座敷がいくつかあるだけの小ぢんまりとした造り。十数名も入れば満席になるだろう。


 けれど、隅々まで手入れが行き届いており、古き良き日本料理屋のような風情と、家庭的な清潔感が共存している。


 幸いなことに、美里の他に客はまだいない。


 厨房から漂う幸せの香りが充満するこの空間を、自分一人で独り占めしているような、贅沢な気分になった。


 美里は入り口から最も遠いカウンター席を選んで腰を下ろした。


 木の質感が手に馴染む。どこか懐かしい、誰かの家に招かれたような安心感がそこにはあった。


「お冷、失礼します」


 男性が静かにグラスを置いた。案内から調理まで、すべてを一人でこなしているようだ。


「メニューはあちらの黒板に書いてあるんですが、和・洋・中、三種類の定食があります。お値段はどれも一緒ですので、お決まりになりましたらお声掛けください」


「和、洋、中…?」


 美里は言われるがまま、厨房の脇に掲げられた黒板に目をやった。


 そこには、丁寧な筆致で本日のラインナップが記されている。


【和定食】鰆の西京焼き

【洋定食】春キャベツのロールキャベツ

【中定食】新筍の青椒肉絲


(すごい…)


 思わず、心の声が漏れそうになった。

一つの店舗で提供されるラインナップとしては、あまりにジャンルがバラバラだ。普通なら、どれか一つが疎かになりそうなものなのに。


 けれど、それぞれのメニューには春という季節がしっかりと息づいている。


 調理方法も食材も重なっていないのに、不思議とこの黒板の上で調和を保っていた。


 そして、店の外まで漂っていたあの、抗い難い香りの正体を、美里は突き止めた。


 洋定食のロールキャベツだ。


 複雑な旨味が溶け込んだ、透き通ったコンソメの香り。


 丁寧にアクを引き、素材の甘みを最大限に引き出したことが、その匂いだけで手に取るように分かる。


 美里自身も料理をするからこそ理解できる、気の遠くなるような手間暇が、その香りの裏側に隠されていた。


(この香りだ。私がここに来た理由は)


 西京焼きの香ばしさも、青椒肉絲の食欲をそそる匂いも魅力的だ。けれど、初志貫徹。


 美里は浮気することなく、厨房で待つ男性に声をかけた。

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