祝福と諦め
「せんせー、みて!おはな!」
「本当だ、きれいな色だね。律くん、見つけるの上手だなぁ」
四月の昼下がり。ひだまり保育園の園庭には、春の柔らかな日差しが降り注いでいた。小泉美里は、砂場の縁に座り込み、小さな手から差し出されたパンジーの花びらを優しく受け止める。
慣らし保育の時期は、確かにバタバタとする。新しい環境に戸惑い泣き叫ぶ子供たちをなだめるのは体力勝負だし、エプロンは常に涙と鼻水で汚れ、腰にはずしりと重みが残る。けれど、美里にとってこの時間は、決して辛いだけのものではなかった。
純粋な好奇心、無防備な信頼。子供たちの瞳に映る自分は、ただの先生であり、それ以上でも以下でもない。彼らの成長を間近で見守れるこの仕事には、確かなやりがいを感じていた。
しかし、その穏やかな時間は、夕方の降園チャイムとともに少しずつノイズが混じり始める。
「小泉先生、お疲れ様です。…あぁ、今日も一段と、その、お綺麗ですね」
迎えに来た一人の父親が、子供の荷物を受け取りながら、上目遣いで美里の顔を覗き込んできた。
社交辞令にしては粘りつくような、それでいてどこか、自分を優しく受け入れてくれるだろうという甘えを含んだ視線。美里は、心の中に冷たいシャッターを下ろしながら、プロの微笑みを崩さずに一礼する。
「ありがとうございます。湊くん、今日もお散歩でたくさん歩きましたよ。お家で褒めてあげてくださいね」
かわしたつもりでも、相手はどこか期待を込めた表情で言葉を重ねようとする。美里はそれを察し、あえて事務的なトーンを維持して次の保護者の元へ向かった。
まただ、と思う。
父親という立場でありながら、目の前の保育士を子供を育てるプロとしてではなく、自分の弱音を全肯定してくれる便利な包容力として見ようとする男たち。
美里の男性に対する期待値は、学生時代からすでに底をついていた。
子供が好きで、保育士を目指している。と言った瞬間に、寄ってくる男たちの質が変わるのを何度も経験してきたからだ。
彼らが求めていたのは、美里という個人への興味ではなく、彼女が持つ母性への依存だった。自分の不甲斐なさを許し、甘えさせてくれ、すべてを包み込んでくれる都合の良い存在。
学生時代の恋人たちもそうだった。最初は優しくても、次第に「美里なら許してくれるよね」「先生なんだから、もっと広い心で受け止めてよ」と、こちらの献身を当然の権利のように搾取し始める。
(お父さんっていう立場になっても、中身は変わらないのかな)
仕事は好きだし、子供たちは可愛い。けれど、その背後に透けて見える大人たちの依存心に触れるたび、美里の心には澱のような疲れが溜まっていくのだった。
更衣室でエプロンを脱ぎ、私服に着替える。
鏡の中の自分は、仕事用の先生の顔を剥ぎ取った、どこにでもいる二十六歳の女性だ。
今日は、三歳からの親友である井上楓との約束がある。
いつもなら、駅前のスーパーで適当に食材を買い込み、美里の部屋で宅飲みをするのが定番のスタイルだ。
美里は料理が趣味だった。冷蔵庫にあるものでパパッとおつまみを作り、楓が持ってきたクラフトビールやワインを開ける。
「この新玉ねぎのサラダ、美味しい!」「でしょ、ドレッシングに少し隠し味入れたの」なんて言い合いながら、ソファで足を崩して過ごす時間は、美里にとって何よりの癒やしだった。
それが、今日の指定は珍しく新宿のレストランだった。
『今日は新宿のイタリアンを予約したから。ちょっとオシャレしてきてね!』
スマホのメッセージを見返し、美里は小さく首を傾げる。
クローゼットから引っ張り出してきたのは、数年前に買ったきりのフレアスカート。普段の仕事では絶対に履かない、少し高めのヒールだ。
駅のトイレの鏡で塗り直したリップは、なんだか自分のものではないように浮いて見える。
新宿駅の喧騒を抜け、少し落ち着いたエリアへと歩を進める。
夜の帳が下りた街には、春の夜風が心地よく吹いていた。
「ここか…」
たどり着いたのは、路地裏に佇む隠れ家風の店だった。
重厚な真鍮のドアノブ、控えめな間接照明。入り口に掲げられたメニュー表の、普段の自炊なら一週間分の食費に相当するような数字。
(なんで、こんなところで。…もしかして結婚?)
もし楓が人生の大きな転換期を迎えているのだとしたら、いつもの場所ではないと考えたのかもしれない。
「いらっしゃいませ。ご予約の井上様ですね。お連れ様はお待ちです」
隙のない所作のスタッフに案内され、店内へと足を踏み入れる。
磨き上げられたカトラリーが、スポットライトを反射して鋭く光っている。周囲を見渡せば、いかにも特別な夜を過ごしているといった風のカップルばかりだ。
この、背筋を伸ばさなければならない感じ。
適当なスウェットで、作ったばかりのポテトサラダをつまみながら笑い合える気楽さがないことが、今の美里には少しだけ居心地悪く感じられた。
テーブルの奥で、いつもより念入りに巻かれた髪を揺らし、華やかなワンピースに身を包んだ楓が手を振っていた。
「美里!こっちこっち!」
楓の笑顔は、いつになく輝いて見えた。その輝きが眩しければ眩しいほど、美里の胸の中には何かが変わってしまうという予感が、静かに、けれど確実に広がっていく。
「ごめん、待たせちゃったかな」
「ううん、私も今来たところ。ね、ここ素敵でしょ?一度来てみたかったんだよね」
美里は意識的に口角を上げた。今日は親友の祝いのための夜になるかもしれないのだ。
「…本当。すごくお洒落なお店だね。楽しみ」
嘘ではないけれど、心の一隅では、慣れないヒールを脱ぎ捨てて、自分のキッチンの前に立ちたいと願っている自分がいた。
この不自然なほどの特別感が、何を告げようとしているのか。美里は自分を取り残していく日常の気配を感じていた。
「どうしたの?大事な話って」
料理はどれも一級品で、盛り付けも美しい。けれど、周囲のきらびやかな空気に馴染めず、美里は手持ち無沙汰にグラスの脚を指先でなぞった。
「あはは、ごめんね。いきなりこんなお店に呼んじゃって変に思ったよね。なんとなく、いつもの場所だと照れくさい気がしちゃって…」
目の前の楓は、いつもより念入りに巻かれた髪をいじりながら、はにかんだ。彼女のチャームポイントである笑窪が、キャンドルの光に照らされて深く刻まれる。
「実はね、美里。ついこの間、健司くんにプロポーズされたの」
その瞬間、レストランの喧騒がふっと遠のいた。
「え…」
一瞬の空白。けれど、すぐに胸の奥から温かいものが込み上げてくる。
「えー!本当に!?おめでとう!そっかぁ…感無量だよ。健司くんと付き合ってもう、三年くらいになるっけ?楓、ずっと待ちわびてたもんね」
美里は思わず、持っていたフォークを置いて拍手をした。親友の幸せ。それは間違いなく、自分のことのように嬉しいニュースだった。
「本当に、ね。でもこっちから逆プロポーズするっていうのも、なんか負けた気がするし。最近は珍しくないらしいけど、やっぱりちゃんと言葉で言われたいものじゃない?」
「わかる気がする。…それで?プロポーズの言葉は何だったの?」
美里が少し身を乗り出して尋ねると、楓はさらに顔を赤らめた。
「それは、内緒。それだけは、一生自分だけの宝物にしておきたいから」
そう言って笑う楓の顔は、これまでの二十数年間見てきた中で、一番美しかった。幸せな女の顔、というやつだ。それは美里がどれほど憧れても、今の自分には一生手が届かない場所に置かれた完成品のように見えた。
会話は、そこから怒涛の勢いで加速していった。
運ばれてきた焼きたてのマルゲリータ。香ばしい生地の香りと、とろけるチーズのコク。けれど、美里の味覚はどこか麻痺していた。
普段なら缶チューハイ一本で赤くなる楓が、今日は「お祝いだから!」とボトルワインを注文した。二人のグラスに、透き通った黄金色の液体が注がれる。
「美里はどうなの、最近。やっぱり、まだ?」
楓がワインで湿った唇を動かし、不意に核心を突いてきた。美里の表情が、わずかに固まる。
「うん…私は、お付き合いとか結婚とかは、もう遠慮したいなって」
美里は苦笑いを浮かべ、ワインを一口含んだ。
学生時代から、美里は否応なしに女として扱われてきた。歩けば視線が刺さり、連絡先を渡される。けれど、近づいてくる男たちの多くが求めていたのは、彼女の内面ではなく、美しい外見と、彼女が醸し出す、優しそうな、甘えさせてくれそうな雰囲気だった。
保育士という職業を選んだときも、それは子供が好きだという純粋な気持ちからだった。けれど、蓋を開けてみれば、そこには聖母を求める父親たちの視線が待っていた。
お父さんという肩書きを持ちながら、隙あらば独身の保育士を口説こうとする男たち。彼らの言葉の裏に見え隠れする、家庭での鬱憤や、自分を全肯定してほしいという子供じみた依存心。それに触れるたび、美里の中の男性に対する期待値は、一ミリずつ削られていったのだ。
「もちろん、健司くんみたいにしっかりしている人がいるのはわかっているよ。全員が節操なく声をかけてくるわけじゃないのも。でも、どうしてもね。私には、その一歩を踏み出す勇気がないんだと思う」
楓は同情するように、けれど少し不思議そうに頷いた。
「美人も美人で大変よね。私には一生共感できない悩みだな。…まぁでも、私が言うのもなんだけど、結婚だけが人生のすべてじゃないしね」
「これから結婚する人が言うセリフじゃないよ、それ」
美里が突っ込むと、楓は「そうね!」と自分でおかしくなったように笑った。
そんな風に、重い話題も冗談に変えられるのが、三歳からの付き合いである彼女の良さだ。
「式とか新居はどうするの?これから?」
話題を変え、楓の理想の結婚式や、将来子供が生まれたら…という希望に満ちた話を聞く。楓は「結婚しても、美里との時間は絶対に作りたい」と、酔いも手伝って少し涙ぐみながら語っていた。
けれど、美里の胸の中には、祝福の裏側で冷たい風が吹き抜けていた。
楓が向こう側へ行く。それは、これまで二人で分け合ってきた、独身の、気楽で少し寂しい日常からの卒業を意味している。
「今日はもう飲みすぎ。ほら、帰るよ」
タクシーに楓を押し込み、彼女の笑顔が見えなくなるまで手を振った。
一人になった新宿の夜。冷たい夜風が、火照った頬を撫でる。美里は最寄りの駅まで、あえて遠回りをして歩くことにした。
これまでも、友人や先輩の結婚は何度も見てきた。ご祝儀を包み、拍手をし、綺麗なドレス姿に感動してきた。けれど、楓だけは違った。彼女は、自分にとって最後の防波堤だった。
(幸せになってほしい。それは本当。…でも、どうしてこんなに喉の奥が熱いんだろう)
自分が諦めてしまったものを、真っ直ぐに掴み取った親友。
彼女の幸せを羨ましいと思う自分は、なんて醜いのだろうか。
駅のホームに滑り込んできた電車の窓に、着飾った自分の、ひどく寂しげな顔が映っていた。
日付が変わる頃、美里はようやく自分の部屋にたどり着いた。
玄関のドアを閉めた瞬間、静寂が押し寄せてくる。つい先ほどまでいた華やかなレストランの記憶が、霧のように薄れていく。
靴を脱ぎ捨て、スカートを脱ぎ、履きなれないヒールで痛む足を投げ出す。
「…はぁ」
大きな溜息が、天井に吸い込まれて消えた。
楓からの「無事に着いたよ!今日は本当にありがとう」というラインを横目に、美里はキッチンへ向かった。
冷蔵庫を開けると、楓が来るときに備えて冷やしておいた、いつものワインとストロング缶が並んでいる。
(…今日は、飲まないとやってられないな)
料理を作る気力なんて、一ミリも残っていない。
キッチンカウンターに腰掛け、カップに入れたワインを呷る。レストランで飲んだ高級なワインよりも、ずっと喉に刺さる味がした。
祝福、嫉妬、孤独、そして諦め。
ぐちゃぐちゃに混ざり合った感情を、アルコールの力で無理やり胃の奥へ流し込む。
自分が丁寧な生活を送るために吟味して選んだはずのインテリアも、今はただの静物として、自分を冷たく見下ろしているように感じられた。
そのまま、いつの間にかベッドに倒れ込んだ。
思考を止めるように目を閉じると、耳の奥で子供たちの泣き声と、誰かのお父さんの甘ったるい声がリフレインしていた。




