EP 9
論破! 医学生の衛生観念と貧乏神の帳簿
「フンッ、まずは私からだ! 覚悟しろ小僧ッ!」
国境の屋台に乗り込んできた保健査察官のグリムが、真新しい純白の手袋をはめ、意気揚々と厨房スペースへと足を踏み入れた。
「帝国の【衛生基準法】は甘くないぞ! 調理台の油汚れ、食材の保管温度、そして……こんな野外では当然、羽虫の一匹や二匹飛んでいるだろう。見つけ次第、即刻営業停……止……?」
グリムの言葉は、厨房の『光景』を見た瞬間にピタリと止まった。
「ルナ! 結界内の気圧低下! 陽圧を保て!」
「はいはい、無菌状態(レベル4)維持してるわよ!」
厨房スペースは、ルナが展開した『目に見えない半球状の魔力障壁』によって外気から完全に遮断されていた。内部は常に外より気圧が高く設定(陽圧)されており、外の埃や虫が物理的に侵入できない構造になっている。
「な、なんだこの異常なまでの清浄空間は……ッ!?」
「入る前に、そこでアルコール消毒とエアシャワーを浴びろ。俺のオペ室(厨房)に雑菌を持ち込むな」
手術用マスクとニトリル手袋を完璧に装着した優太が、鋭い眼光でグリムを睨みつける。
調理台は【地球ショッピング】で取り寄せた医療用ステンレス製で、継ぎ目が一切なく、次亜塩素酸ナトリウム溶液で徹底的に拭き上げられていた。
「バ、バカな! 野外の屋台だぞ!? どうせ食材の裏側にカビや汚れが……ッ!」
グリムはルーペを取り出し、這いつくばるようにして調理台の裏や冷蔵魔導具の隙間を調べ始めた。自慢の白手袋でゴシゴシとステンレスを擦る。
しかし、白手袋には『シミ一つ』つかなかった。
「……まな板は肉用、野菜用、揚げる前と後で完全に色分けして交差汚染を防止。食材の中心温度は調理用温度計で75℃・1分以上を徹底している」
優太は冷徹な声で、現代医療と食品衛生学の神髄を叩きつける。
「お前らの法律が求める衛生が『虫がいないレベル』なら、俺が求めているのは『細胞レベルでの無菌状態』だ。……さあ、保健査察官殿。ATP拭き取り検査でもやってみるか? 数値が基準を1でも超えたら、潔く店を畳んでやるよ」
「ひ、ひぃぃぃッ……!? まな板の裏まで、鏡のように輝いているだとォォォッ!?」
あまりの潔癖さと狂気的な衛生管理の前に、グリムは白手袋を握りしめたまま、泡を吹いてその場に崩れ落ちた。
「グ、グリムゥッ!?」
税務調査官のゼニヤが悲鳴を上げる。
「チッ、衛生如きで倒れおって……! だ、だが本番はここからだ! 私は税務調査官! どれだけ厨房が綺麗だろうと、金の流れ(帳簿)に不正があれば一発アウトだ!」
ゼニヤは分厚いバインダーを叩き、ミカン箱の上に立つリーザを指差した。
「さあ、売上の帳簿を出せ! 仕入れ値と売上の差額、それに伴う納税額……こんな素人のアイドルに、完璧な複式簿記などつけられるはずが――」
ドンッッ!!!!
ゼニヤの目の前の台に、辞書よりも分厚く、禍々しいオーラを放つ『漆黒の帳簿』が叩きつけられた。
「な、なんだこの重圧は……ッ!?」
「見なさいよ、エリート気取りのオッサン! これがアタシの血と汗と涙の結晶……【絶対無敵のサバイバル家計簿】よォォォッ!!」
リーザが腕組みをして、ドヤ顔で言い放つ。
ゼニヤは震える手でその帳簿を開いた。次の瞬間、彼の目は驚愕に見開かれた。
「こ、これは……ッ!? 借方と貸方が1ゴールド単位……いや、小数点以下の銅貨単位まで完璧に一致しているだと!? しかも、この謎の計算式はなんだ!?」
「フフンッ! フライヤーの購入費(ポイント換算)は『減価償却費』として法定耐用年数で分割計上! ルナの魔力提供は『水道光熱費』! アタシの歌のバフは『広告宣伝費』と『労務費』に按分して計上してるわよォッ!!」
リーザの口から、ファンタジー世界にあるまじきゴリゴリの現代会計用語が飛び出す。
「ば、馬鹿な! 試食品として配った唐揚げの原価はどう処理している!? ここに『経費のズレ(脱税)』が生まれるはずだ!」
「甘いわね! それは『販売促進費』として計上した上で、在庫の『棚卸資産』から正確にマイナスしてるに決まってるでしょォが!! 貧乏を舐めないでッ! アタシは一円のズレが生じたら、夜も眠れずに3日3晩レシートをひっくり返す女なのよォォォッ!!」
リーザの凄まじい執念(貧乏神のオーラ)が、物理的なプレッシャーとなってゼニヤを押し潰す。
「う、嘘だ……。こんな完璧な、1ゴールドの隙もない帳簿……帝国の中央銀行でも見たことがない……ッ。これでは、これでは難癖をつける場所が……ッ!!」
ゼニヤの手からバインダーが滑り落ちた。彼が計算に使っていた魔法の算盤は、リーザの異常な情報量の帳簿を処理しきれず、パチパチと火花を散らしてショートした。
「アベシィィィィッ!!」
ゼニヤは白目を剥き、倒れたグリムの上に重なるようにして気絶した。
「「「うおおおおおおおおっ!!!」」」
固唾を呑んで見守っていた商人や客たちから、割れんばかりの大歓声が沸き起こった。
「へっ、口ほどにもない。……オペ、完了だ」
優太がマスクを外し、ニヤリと笑う。
「当然よォ! アタシのお金への執着心(愛)が、こんなポッと出の役人に負けるわけないじゃないッ!」
リーザが帳簿を抱きしめて勝利のVサインを掲げる。
ユリウスが絶対の自信を持って放った「法律の専門家」たちは、医学生の偏執的な衛生観念と、貧乏神の狂気的な会計処理の前に、剣も魔法も使われないまま完全論破されたのであった。




