第40話 逃げるという決断
第十一戦線の後退から、三日。
敵は深追いしなかった。
押し込めるだけ押し込み、
象徴都市の外縁をかすめる位置で止まっている。
勝敗は、ついていない。
だが。
王都の空気は、重かった。
「機会を逸した」
「講和材料を失った」
「圧をかけ続ければ、敵は崩れたかもしれない」
そんな声が、後方にも届いている。
アレン・フォルツは、倉庫の片隅で地図を見ていた。
戦線は、少し下がった。
だが、破れてはいない。
医療区画の寝台は、埋まりきっていない。
補給線は、まだ余裕がある。
(……壊れていない)
それだけが、確かな事実だった。
足音が近づく。
レオニードだ。
「逃げたな」
単刀直入だった。
「はい」
アレンは、否定しない。
「押せた」
「かもしれません」
「勝てたかもしれない」
「ええ」
レオニードは、苛立ちを隠さない。
「なぜだ」
「なぜ、あそこで退く」
アレンは、地図から目を離す。
「勝つ必要がなかったからです」
「戦争に“勝つ必要がない”などあるか」
「あります」
静かな声だった。
「そこは」
「勝たなくても、壊れない場所だった」
「押せば」
「壊れる可能性があった」
レオニードは、歯を食いしばる。
「可能性だろう」
「はい」
「可能性です」
アレンは、まっすぐに見る。
「戦争は、可能性で人が死にます」
「だから」
「可能性で、退きます」
沈黙。
外では、兵士たちが再編を進めている。
疲労はある。
だが、絶望はない。
「俺は」
レオニードが低く言う。
「勝ちたい」
「知っています」
「押せば、勝てるときもある」
「ええ」
「だが」
アレンは続ける。
「勝てるかもしれない戦線は、何度も来ます」
「壊れた戦線は」
「戻りません」
レオニードは、視線を逸らした。
「……それで、国は守れるのか」
「分かりません」
正直だった。
「守れないかもしれない」
「だが」
「壊れにくくはなる」
それが、彼の答えだった。
夜。
宰相バルドから、直接の通信が入る。
「君の判断は、政治的には損だ」
「承知しています」
「それでも続けるか」
「はい」
「君は、英雄にならないな」
「なりません」
即答だった。
「英雄は」
「勝たなければならない」
「私は」
「退いていい場所を決めるだけです」
バルドは、わずかに笑った。
「国家は、君の思想に依存している」
「なら」
「依存しない形に変えてください」
通信が切れる。
静寂。
アレン・フォルツは、倉庫の灯りを落とす。
逃げる。
それは、敗北ではない。
無責任でもない。
勝てるかもしれない場所で、
勝たなくていいと決めること。
それが、自分の決断だ。
戦争は、終わっていない。
敵も、消えていない。
だが。
今日、壊れなかった戦線がある。
それで、十分だと思った。
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